アッサラーム夜想曲

花冠の競竜杯 - 2 -

 アルサーガ宮殿の最上階。
 大回廊の途中でハーランとすれ違ったジュリアスは、男の青褪めた顔を不思議に思った。アースレイヤの執務室から出てきたようだが、彼の不興でも買ったのだろうか?
 思い耽りながら執務室へ向かうと、衛兵はすぐに扉を開いて、ジュリアスを控室へ通した。緋色の絨毯を進み、最奥にあるかしの扉をノックする。どうぞ、と返事はすぐに返された。
「こんばんは、シャイターン。どうぞ座ってください」
 アースレイヤはいつもと同じ柔和な笑みをジュリアスに向けた。
 磨き抜かれた紫檀に華麗な彫刻を施し、硝子の天板を載せた机に、聖都アッサラームの地図が広げられている。
 肘掛け椅子に座ると、ジュリアスは探るような眼差しをアースレイヤに向けた。
「廊下でハーラン・クモンとすれ違いましたよ。魂が抜け落ちたような顔をしていましたけれど」
 アースレイヤは軽く肩をすくめた。
「彼には面白くなかったでしょうね。まぁ、仕方ありません。どんなに有能でも、野心の強すぎる男を据えるわけにはいきませんから」
 ということは、次の理財長をオデッサ・ハクネスに決めたのだ。その決定に、ジュリアスはさして驚きを覚えなかった。
「妥当な人選でしょう。ただ、就任早々、競竜杯の理財を取り仕切るのは、ハクネスには荷が重いかもしれませんね」
「そこは、彼に頑張ってもらうしかありません」
 アースレイヤは軽く流すと、さて、と話題を変えた。
「今度は貴方との問題にも決着をつけますよ」
 と、仔牛皮紙に精緻に描かれた地図を指でさす。
「新たな遊戯場を三か所に誘致します。そのうちの一つに旧市街を推したいのですが?」
 地図をとくと眺めて、ジュリアスは思案げな表情を浮かべた。
「ポルカ・ラセと共食いになります。賭博戦争の温床になりかねませんよ」
 今回の賭博遊戯場の誘致で、ジュリアスが最も懸念しているのは治安の悪化だった。
 資金力のある事業団体の裏には、厄介な組織が潜んでいることが常である。アッサラームに翳が射すことだけは避けなければならない。
「成長に競争は必須です。ポルカ・ラセの一強を変えるいい機会だと私は思いますが……貴方がそういうのなら、アッサラーム外でも構いませんよ」
「誘致はアッサラームの他にしてください。ただし、競竜杯の公式投票券の発行はポルカ・ラセに限定するように」
「いいでしょう」
 アースレイヤは書類の束から顔をあげると、頬杖をついてジュリアスを見つめた。
反駁はんばくするわけではありませんが、この手の戦争は、闘う相手を間違えていると思いませんか?」
「なぜですか?」
「需要が途絶えない限り、誘惑の種はどこからでも芽を出します。賭博を規制したいのなら、買う人間を一人残らず隔離すべきです、本当はね」
 常人を惑わす賭博の魔力には共感できないジュリアスだが、彼のいわんとすることは判った。いつの時代でも、人の購買意欲を零にすることは不可能に等しい。
「誘致先は、一定基準を満たした兵団を持つ都市に限定してください。要衝に楼門を設置し、アッサラームへの業務報告を徹底させ、巡察の通行許可を認めるように」
「いいでしょう。賭博遊戯法に関する規定は、アマハノフに主導してもらいますよ」
 ジュリアスは軽く頷いた。アマハノフは東西大戦の和平条約の際に、国内外の交渉をまとめた優秀な外交官である。人選に異論はない。
「アッサラームから巡視隊を派遣しますが、基本的には、現地の自治兵団に治安の取り締まりや入場制限の適正判断は任せます」
 ジュリアスの言葉に今度はアースレイヤが頷いた。
「構いませんよ」
「軍事予算は?」
 目と目が合った。
「賭博総収益の一割を配分します」
「二割です」
 確固たる意志で告げるジュリアスを見て、アースレイヤは半分瞑目し、仕方なさそうにため息を吐いた。
「良いでしょう。貴方の賛同を得ないわけにはいきませんからね」
 この瞬間、主要交渉課題の一つに決着がついた。
 これまで内密の打ち合わせを重ねてきたが、軍事予算は常に議論の対象だった。
 多額の予算を裂いたとしても、賭博遊戯の敷設は高収益を確保できる自信がアースレイヤにはあった。
「遊戯社交場の誘致に、百以上の事業団体が名乗りを上げています。七つまで絞りました」
 アースレイヤの拡げた羊皮紙を覗きこみ、ジュリアスは眉をひそめた。
「クシャラナムン財団?」
「貴方のいいたいことは判りますよ。ただ、遊戯場の建設に要する莫大な資金を考えると、簡単に弾けなくて迷っています」
「危険が多すぎます」
 クシャラナムン財団は、もともと南大陸の部族の集まりで、砂漠の平和協定を破り、商隊キャラバンを襲って荒稼ぎをしている、悪名高い盗賊団である。
 交易の盛んな街に根を下ろし、賭博と麻薬で領民を堕落させたこともある。地元部族と激しい交戦の末に国を出たが、そのあともあらゆる街に根城を降ろし、富を吸い上げてきた。
 アッサラームから討伐隊を派遣したこともあるが、壊滅には至っていない。
 彼等は衰退しても、どこからか害虫のように染み出てきて、再び財団を再結成するのだ。聖戦や東西大戦後は戦争孤児を攫い、財団は悪の犯罪組織として膨れ上がっていた。
 厳しい顔つきのジュリアスを見て、アースレイヤはため息をついた。
「……人里に虎を放つようなものですよね。アッサラームの治安を優先しますか」
「当たり前です」
 咎めるようにジュリアスがいうと、アースレイヤは降参とばかりに両手をあげた。
「そういわれるだろうと思っていました」
「競竜杯の準備に追われながら、財団の手綱を引き締めるのは至難の業ですよ」
「判りました。候補から抹消しておきますよ」
「そうしてください。公表時期はいつにしますか?」
「諸々、次の評議会で明らかにします。今度は静観せずに賛同してくださいね」
 御意。短く答えると、ジュリアスは席を立ち、儀礼的な敬礼をして執務室を出た。