アッサラーム夜想曲
花冠の競竜杯 - 1 -
期号アム・ダムール四五六年、二月。
間もなく、アッサラームで八年ぶりとなる競竜杯が開催されようとしている。
これは西大陸諸国の参加する四年に一度のお祭りで、前回は東西大戦を目前に控えていた為に見送りとなった。
八年ぶりの開催に、各地で盛り上がりを見せている。
宮廷評議会の議長を務めるアースレイヤは、課題の一つである競竜杯の不正賭博について、規制緩和する方針を提起していた。
一つ、主要都市への遊戯場の誘致。
一つ、競竜杯の公式投票券の発行。
評議会の反応は賛否両論である。
穏健派は、競竜杯の時期に不正賭博が横行する前例をあげ、反社会勢力が関与する恐れを説いた。
急進派は、アースレイヤを炯眼 と讃え、戦禍の爪痕を癒す手段になると期待した。
西大陸の権威中枢、アッサラームは五百年以上も昔から、賭博を堕落の象徴として厳しく取り締まってきた。
領民に賭博遊戯を提供するには、皇帝の認可証が必要で、現状は聖都アッサラームにある高級遊戯社交場、ポルカ・ラセただ一つが有しているのみである。
最終決定権を持つ皇帝は、年の初めに公儀の間で、アースレイヤに一任すると宣言している。
しかし、アースレイヤは独断で敢行せず、広く意見を集めた。彼の巧妙なかけひきにより、賛成意見は既に過半数を超えている。
残る懸念は、二つ。
一つは、国内外で圧倒的な人気を博しているジュリアスが静観していることである。可決時期を目前にしての静観は、穏健派と同義である。
もう一つは、理財管理局の長官を未だに定めていないことである。前理財長であるヴァレンティーンの粛清以降、アースレイヤは敢えて長官を据えず、副官二名を配して様子をうかがってきた。だが、競竜杯を機に経済復興を先導していく長官を定めるべきだと内外の声は高まっている。
どちらの問題も、アースレイヤは今夜中に片づけようと決めていた。
アルサーガ宮殿の最上階。
天鵞絨 の綴 れ織りをかけた高い壁が続く大廊下を、髭を蓄えた高慢そうな顔立ちの男が歩いている。蒼い文官の長衣をきて、緋色の分厚い絨毯の上を歩く姿は、自信に満ちて堂々としたものだ。
男の名はハーラン・クモン。年は四十半ば過ぎで、亡き理財長の代理を務めている、副官二人のうちの一人である。
ハーランはアースレイの執務室の前で足を止めると、背筋を伸ばして扉を叩いた。
「入ってください」
穏やかな声に呼ばれて、ハーランは皇太子の執務室に入った。
「アースレイヤ皇太子」
彼は恭しく臣下の礼をとった。
「こんばんは、ハーラン。座ってください」
アースレイヤは穏やかな顔と声でいった。
ハーランが革張りの長椅子に腰をおろすと、紫檀 の長方形の卓を挟み、アースレイヤも長椅子に座った。
普段は鋭い眼光を期待に輝かせ、ハーランはアースレイヤを見つめた。
だが、はちきれんばかりの希望は、続くアースレイヤの言葉で潰えた。
「結論からいいますと、次期理財管理局長はオデッサ・ハクネスに決めました」
長官に任命されるものと信じて疑わなかったハーランは、己の聴覚を疑った。
告げた本人は、いつも通りの柔和な笑みを浮かべている……聞き違えたのだろうか?
「誤解しないでくださいね。ハクネスを長官に据えるのは、決して貴方が彼に劣っているからではありません。貴方の補佐能力の高さを買っているからです」
信じられない思いでアースレイヤの顔を凝視していたハーランは、我に返るなり、自分がいかに有能か、長官に相応しいか言葉を尽くした。
礼を失せず一通り聞き終えたあとで、アースレイヤは変わらぬ微笑でいった。
「その情熱を、副官として存分に発揮してください。貴方のこれからの働きに期待しています」
鉄壁の微笑に跳ね返され、ハーランは失意を胸に執務室を出た。幽鬼のような足取りで、今にも倒れてしまそうだ。
(……信じられん。悪い夢を見ているようだ)
こんなはずではなかった。ハーランの出世街道は、非の打ちどころがないはずだった。
強大なヴァレンティーンには下るしかないと思っていたが、おこぼれに預かれればそれでも良かった。
だが、彼は自滅した。理財長の席が空いた。
運が向いてきたのだと思い、今日まで後任に納まるべく、あらゆる根回しをしてきた。ついに副官にまでのし上がり、長官席は目前だった。
それなのに、オデッサ・ハクネスに敗れた。
名門出のハーランとは比ぶべくもない下級貴族の男に。勤勉だが、閃きの精彩に欠ける凡庸な男に。
(……あの男に下るというのか? この私が?)
大回廊を渡る途中で、西方諸国に勇名を馳せるアッサラーム軍事の象徴、シャイターンとすれ違ったが、ハーランは上の空で挨拶をした。ハーランは明晰な頭脳でめまぐるしく計算をしていた――どうすれば、ハクネス、そしてアースレイヤを凋落させられるのか。
(よくも虚仮 にしてくれたな、ハクネス、アースレイヤ……この借りは返してもらうぞ。首を洗って待っていろ……)
野心に満ちたハーランの瞳には、復讐の焔が灯っていた。
間もなく、アッサラームで八年ぶりとなる競竜杯が開催されようとしている。
これは西大陸諸国の参加する四年に一度のお祭りで、前回は東西大戦を目前に控えていた為に見送りとなった。
八年ぶりの開催に、各地で盛り上がりを見せている。
宮廷評議会の議長を務めるアースレイヤは、課題の一つである競竜杯の不正賭博について、規制緩和する方針を提起していた。
一つ、主要都市への遊戯場の誘致。
一つ、競竜杯の公式投票券の発行。
評議会の反応は賛否両論である。
穏健派は、競竜杯の時期に不正賭博が横行する前例をあげ、反社会勢力が関与する恐れを説いた。
急進派は、アースレイヤを
西大陸の権威中枢、アッサラームは五百年以上も昔から、賭博を堕落の象徴として厳しく取り締まってきた。
領民に賭博遊戯を提供するには、皇帝の認可証が必要で、現状は聖都アッサラームにある高級遊戯社交場、ポルカ・ラセただ一つが有しているのみである。
最終決定権を持つ皇帝は、年の初めに公儀の間で、アースレイヤに一任すると宣言している。
しかし、アースレイヤは独断で敢行せず、広く意見を集めた。彼の巧妙なかけひきにより、賛成意見は既に過半数を超えている。
残る懸念は、二つ。
一つは、国内外で圧倒的な人気を博しているジュリアスが静観していることである。可決時期を目前にしての静観は、穏健派と同義である。
もう一つは、理財管理局の長官を未だに定めていないことである。前理財長であるヴァレンティーンの粛清以降、アースレイヤは敢えて長官を据えず、副官二名を配して様子をうかがってきた。だが、競竜杯を機に経済復興を先導していく長官を定めるべきだと内外の声は高まっている。
どちらの問題も、アースレイヤは今夜中に片づけようと決めていた。
アルサーガ宮殿の最上階。
男の名はハーラン・クモン。年は四十半ば過ぎで、亡き理財長の代理を務めている、副官二人のうちの一人である。
ハーランはアースレイの執務室の前で足を止めると、背筋を伸ばして扉を叩いた。
「入ってください」
穏やかな声に呼ばれて、ハーランは皇太子の執務室に入った。
「アースレイヤ皇太子」
彼は恭しく臣下の礼をとった。
「こんばんは、ハーラン。座ってください」
アースレイヤは穏やかな顔と声でいった。
ハーランが革張りの長椅子に腰をおろすと、
普段は鋭い眼光を期待に輝かせ、ハーランはアースレイヤを見つめた。
だが、はちきれんばかりの希望は、続くアースレイヤの言葉で潰えた。
「結論からいいますと、次期理財管理局長はオデッサ・ハクネスに決めました」
長官に任命されるものと信じて疑わなかったハーランは、己の聴覚を疑った。
告げた本人は、いつも通りの柔和な笑みを浮かべている……聞き違えたのだろうか?
「誤解しないでくださいね。ハクネスを長官に据えるのは、決して貴方が彼に劣っているからではありません。貴方の補佐能力の高さを買っているからです」
信じられない思いでアースレイヤの顔を凝視していたハーランは、我に返るなり、自分がいかに有能か、長官に相応しいか言葉を尽くした。
礼を失せず一通り聞き終えたあとで、アースレイヤは変わらぬ微笑でいった。
「その情熱を、副官として存分に発揮してください。貴方のこれからの働きに期待しています」
鉄壁の微笑に跳ね返され、ハーランは失意を胸に執務室を出た。幽鬼のような足取りで、今にも倒れてしまそうだ。
(……信じられん。悪い夢を見ているようだ)
こんなはずではなかった。ハーランの出世街道は、非の打ちどころがないはずだった。
強大なヴァレンティーンには下るしかないと思っていたが、おこぼれに預かれればそれでも良かった。
だが、彼は自滅した。理財長の席が空いた。
運が向いてきたのだと思い、今日まで後任に納まるべく、あらゆる根回しをしてきた。ついに副官にまでのし上がり、長官席は目前だった。
それなのに、オデッサ・ハクネスに敗れた。
名門出のハーランとは比ぶべくもない下級貴族の男に。勤勉だが、閃きの精彩に欠ける凡庸な男に。
(……あの男に下るというのか? この私が?)
大回廊を渡る途中で、西方諸国に勇名を馳せるアッサラーム軍事の象徴、シャイターンとすれ違ったが、ハーランは上の空で挨拶をした。ハーランは明晰な頭脳でめまぐるしく計算をしていた――どうすれば、ハクネス、そしてアースレイヤを凋落させられるのか。
(よくも
野心に満ちたハーランの瞳には、復讐の焔が灯っていた。