アッサラーム夜想曲

花冠の競竜杯 - 16 -

 馬車でジュリアスと二人きりになると、光希は張り詰めていた息を吐き出した。
「いろんな客がいるよね。ジョーカーさんも大変だな」
「今夜の件に関しては、彼の失態ですよ」
 非難めいた視線を投げかける光希を、ジュリアスは冷静な目で見つめ返した。
「彼には秘匿している前歴があります。そのこと自体を問題視はしませんが、身辺整理をできていなかった点は彼の問題であり、今夜の不始末に至っては大問題ですよ」
「それは厳しすぎない? ポルカ・ラセは素晴らしい対応をしていたと僕は思うよ」
「黒蠍にあれほど怯えていたのに?」
「あれは不可抗力だよ。虫はどこからだって入ってくるものだし、今夜はお互いに運が悪かったんだ」
「黒蠍は、偶然紛れこむような虫でもありませんけれどね」
「僕がいいたいのは、叱るにしても、従業員の見ている前で、彼に恥をかかせる必要はなかったということ」
 この感覚は、冷厳にして超然としているジュリアスには判り辛いかもしれない。複雑な顔をしている光希を見て、ジュリアスは尊大にほほえんだ。
「優しいですね、光希は。出会ったばかりなのに、もう彼の心配をしているのですか?」
 光希はむっとして、腕を組んだ。
 毅然と睨みつけてくる姿に魅了されながら、ジュリアスは涼しい顔で続ける。
「彼は今夜、高級賭博場として信用を失ったのです。それは紛れもない事実ですよ」
「……」
 表情を曇らせる光希を見て、ジュリアスはとりなすようにつけ加えた。
「……ですが、過失の修復に成功すれば、これまで以上の期待と信頼を勝ち得ることができるかもしれませんね」
 光希は顔をあげると、黒い瞳に光りを灯した。
「そうだね。あんなに素敵な遊戯場なんだもの。きっと成功する」
 確信めいた口調で告げる光希を、ジュリアスは思案げに見つめた。
「正直にいえば、貴方にはあの場所に関わってほしくないのですが」
 遊戯卓の受注のことだと思い、光希は背筋を伸ばしてジュリアスを見つめた。
「僕はやってみたいと思っている」
「あの男は光希の腕を買っている以上に、貴方が手掛けたという事実に価値を見出しているのですよ」
 光希はむっと眉をひそめた。
「僕がジュリの花嫁ロザインだから、価値があるっていいたいの?」
「端的にいえば」
「いってくれるね。これでも、かなり腕を磨いたんだよ。クロガネ隊の皆も、僕の装剣金工の出来栄えは認めてくれている」
「光希の才能が素晴らしいことは、よく判っています。ただ、彼の口から出た言葉が、純粋な審美眼からくるものとは思えないのです」
「別にいいよ。僕の名を利用したいと思ってくれていても。少なくとも、僕の腕前を多少なりとも買ってくれているわけだし……」
 光希は噛みつくように反論したが、全く動じない、涼しげな美貌を見るうちに自信を失くした。
「……それとも、僕の腕前なんて大した問題じゃないのかな? どんな駄作でも、ヘイヴンさんは喜んで受け取ると思う?」
 その不安そうな顔を見て、ジュリアスの苛立ちも霧散した。思わず慰めたくなるが、光希が諦めてくれる方が嬉しいので心中は複雑である。
 蒼い瞳に葛藤が揺れているのを見て、光希は創造の決意を挫かれた。
「思うんだね……」
 黒い瞳から輝きが失われる。意気阻喪いきそそうして項垂れる光希を見て、ジュリアスは咄嗟にその手を握りしめた。
「すみません。配慮に欠ける言動でした」
 光希はそっぽを向いた。握りしめられた手を振り払うことはしなかったが、ふさふさの黒い眉を寄せ、頬を強張らせている。
「……そうだね」
 光希が棘のある口調で応じると、ジュリアスは顔に悔いを浮かべた。
「許してください。貴方を侮辱するつもりはありませんでした」
 光希は唇を噛みしめ、返事をしなかった。
 そのあとは、邸に着くまで沈黙が流れた。
 玄関まで迎えにやってきたナフィーサは、二人の間に横たわる微妙な空気を察知して、控えめに声をかけた。
「お帰りなさいませ……」
 ジュリアスが応対している横を、光希は無言で通り過ぎた。二階の工房に籠るつもりだった。
「光希」
 背中に声をかけられたが、光希は足を止めなかった。工房の扉まであと少し、というところで腕を掴まれ、振り向かされた。
「先ほどはいいすぎました」
 ジュリアスは心のこもった声でいったが、光希は唇をむっと引き結び顔をあげなかった。
「私はただ、光希が心配なのです。ヘイヴンは狡猾な男です。もうポルカ・ラセにいってほしくありません」
 光希は少しだけ顔をあげて、銀糸で縁取られた襟のあたりを見つめた。
「それでも、僕は挑戦してみたい」
「ポルカ・ラセでなくてはいけませんか? 神殿や野外劇場の装飾美術の依頼を、紹介することもできますよ」
 無言で反発していると、頬を撫でられ瞳を覗きこまれた。青い瞳には、案じる光が浮かんでいる。額に優しく口づけられたところで、光希は力を抜いた。
「……少し、考えさせて」
「光希……」
「ちゃんと冷静に考えてみるから」
「判りました」
 こめかめに唇を押し当てられ、光希は柔らかな吐息を漏らした。
「疲れた。今夜は、ただ横になって眠るんだよ。判った?」
 拗ねたように光希はジュリアスを睨んだ。彼の態度が少し軟化したので、ジュリアスは思わず笑みを零したが、まだむすっとしている顔を見て表情をあらためた。
「ええ、悪戯はしません。ゆっくり休みましょう」
 今夜は抱けないことを残念に思いながら、険悪な空気のまま一日を終えずに済んだことに、ジュリアスは天に感謝を捧げた。