アッサラーム夜想曲

花冠の競竜杯 - 12 -

 巨大な賭博の宮殿、ポルカ・ラセ。
 馬車から降りた光希とジュリアスを、正装姿の従業員は恭しく誘導し、宝石を象嵌ぞうがんされた扉を左右に開いた。中から光の洪水が溢れ出す。
「わぁ……」
 世俗から切り離された煌びやかな別世界に、光希は一瞬で心を奪われた。
 室内は煌々こうこうと明るく、優雅な弦楽の音が流れている。円環照明のろうと、夜来香イエライシャンの匂いが混じって、香水のように魅惑的な香りが漂っている。
 豪華な玄関広間には、従業員が左右に整然と並び、彼等の中央に立つ支配人、ヘイヴン・ジョーカーは、世にも高貴な客を迎えて恭しく膝を折った。
「ようこそいらっしゃいました」
 彼は一部の隙もない正装姿で、上品な黒と青の夜会服に身を包んでいる。さんと降り注ぐ照明を浴びて、危うい美貌は眩いばかりだ。
「光栄ですよ。アッサラームの英雄と、その花嫁ロザインをお迎えすることができるとは」
 にこやかに話すヘイヴンに、ジュリアスは儀礼的な笑みを向けた。
「こんばんは。評判通りの盛況ぶりですね」
 ジュリアスが賛辞を贈ると、ヘイヴンは片眼鏡の奥から、蒼氷色そうひいろの瞳を気だるげに細めた。
 その蠱惑的な眼差しに、光希は思わずどきっとした。なんとなく、ヘイヴンの視線がジュリアスに向けられていることが落ち着かない。彼にまつわる性愛の噂話を思い出していると、彼は魅力的な笑みを光希にも向けた。
「殿下の黒い瞳も髪も、遠目に拝見したことしかありませんでしたが、こうしてお近くで見ると、まさしく夜空をまとったようなお姿ですね」
 光希は赤面しそうになるのを堪えて、控えめな笑みを浮かべた。
「ありがとうございます」
「砂漠の英雄が心を奪われるのも頷けます。貴方がそこにいてくださるなら、どんな豪華な装飾も褪せて見えるでしょう」
「いえ、そんなことは……」
 光希はしどろもどろで応じた。流れるような美辞麗句も、ヘイヴンが口にすると嫌味に聞こえないから不思議だ。だが、恥ずかしいことに変わりはない。気の利いた返事が思い浮かばず焦っていると、ジュリアスは光希の肩を惹き寄せ、牽制するようにヘイヴンを見据えた。
「私の花嫁を誘惑されては困ります。中を案内していただけますか?」
 唇は弧を描いていても、瞳は笑っていない。ヘイヴンは萎縮したりせず、その視線を興味深そうに受け留めた。
「喜んでご案内いたしましょう。先ずはこの玄関広間をご覧ください。先代がアッサラーム建築のすいを凝らして造りました」
 光希は部屋を見回して、その美しさに感動した。
 天井には薔薇を模した色硝子がはめこまれ、大理石の床には艶やかな群青の絨毯が敷きつめられている。
 豪奢な家具調度に金箔をせた石柱の群……頭上と床に黄金と青が拡がり、巨大な天球儀の上に立っているような気分にさせられる。
「素晴らしいですね。噂には聞いていましたが、物語の中に入りこんだような気分です」
 光希の言葉に、ヘイヴンは満足そうに頷いた。
「ありがとうございます、殿下。実は、競竜杯が始まる前に、改装しようと考えているのです」
「えっ、こんなに素敵なのに」
 光希の素直な驚きを見て、ヘイヴンは暖かみのある笑みを浮かべた。
「気品さを損なうことなく、競竜杯を祝した特別な演出にしようと考えております」
 どんな演出なのだろう? 想像しながら相槌を打つ光希に、ヘイヴンは片目を瞑って見せる。が、ジュリアスの視線を感じて、思い出したように案内を始めた。
「ポルカ・ラセにおいでいただいたからには、大遊戯室を見ていただかなくては始まりません」
 大遊戯室に続く観音開きの扉が開かれると、光希は感嘆のため息を漏らした。
「欄干からご覧ください」
 いわれた通り、光希は螺旋階段の欄干に寄った。ここからなら、大勢の紳士淑女がさざめき笑いながら、遊戯に耽っている様子を一望できる。
「うわぁ、広い!」
 円形の天井は、精緻な漆喰細工と色彩豊かな絵画に覆われ、宝石を散りばめた巨大な円環照明が吊るされている。
「宮殿みたいだ……」
 部屋の雰囲気に圧倒され、光希は呟いた。
「ポルカ・ラセは、非日常な時間と空間を提供する賭博の宮殿です。夜毎、大勢のお客様がこの大遊戯室で時間を忘れて、遊戯に耽るのです」
 ヘイヴンの説明に、光希は夢見心地で頷いた。
 想像を掻き立てられずにはいられない。ここで途方もない大金が動き、一攫千金に夢見る巡礼者達を、一喜一憂させる物語が星の数ほど生まれては消えていくのだろう。
「お二人共、よければ遊戯室で遊んでみませんか?」
 光希は目を輝かせた。実はそのつもりで、金銭を持ってきているのだ。期待をこめてジュリアスを仰ぐ。わざとらしく目を逸らすジュリアスの背中を、光希は軽く叩いた。その様子を見て、ヘイヴンは小さく笑う。
「先に他のお部屋を案内いたしましょうか。そのあとでお時間があれば、遊戯室で遊んでみるのも良いでしょう」
「よろしくお願いします!」
 嬉しそうに返事する光希を見て、ヘイヴンは目を細めた。知的で美しい支配人に笑みかけられ、光希は自分がとても大切に扱われているような錯覚に囚われた。ふとジュリアスと目が合い、とぼけるように視線を逸らす。
 その様子を見て、ヘイヴンは小さく笑った。彼は急かすことなく、丁寧な口調で二人を案内した。
 高級食堂、休憩室、談話室、喫煙室、広い廊下の左右には、無数の遊戯室が並んでいる。万が一に襲撃があった際に、大勢を匿える隠し部屋まであった。
 ヘイヴンはここで振る舞われる食事や、酒の原産地まで饒舌に説明して歩いた。
「この先は、特別なお客様をお迎えするためのお部屋になります」
 そういって、黄金装飾された欄干つきの中央大階段を登っていく。
「遊戯室の他にも、一晩お泊りになるお客様の為のお部屋などもご用意してあります」
 秘かごとの響きに、光希はどきっとした。この巨大な遊戯場は、男女の戯れの場でもあるのだ。
「お部屋をご覧になってみますか?」
 実は興味のあった光希だが、ジュリアスの視線を意識して、控えめにかぶりを振ってみせた。
「せっかくですが、遠慮しておきます」
 ヘイヴンは瞳に悪戯めいた光を灯して、ほほえんだ。この美しい支配人は、どうも先ほどから光希とジュリアスのやりとりを楽しんでいるような気がする。
 一通りの設備を見てまわったあと、光希達は再び大遊戯室に戻ってきた。ヘイヴンは魅力的な笑みを浮かべると、遊戯卓を指して提案した。
「お時間はありますか? 良ければ、少し遊んでみませんか?」
 光希は目を輝かせた。許可を求めて隣を仰ぐと、ジュリアスは苦笑気味に頷いた。
「いいですよ、少しだけなら」
「やった!」
 光希が喜色満面の笑みを浮かべると、ヘイヴンはにっこりほほえみ、空いている遊戯卓に光希とジュリアスを案内した。