アッサラーム夜想曲

花冠の競竜杯 - 11 -

 アム・ダムール四五六年、二月十七日。
 競竜杯の公式賭博場に認定されたことを祝して、ポルカ・ラセで大夜会が開かれた。
 ポルカ・ラセは創業二百年を超える遊戯場で、入場料もなく一般にも門戸を開いているが、有閑階級の貴族や高級娼婦や男娼の集う、裏社交界の中枢である。
 ポルカ・ラセを取り仕切る七代目支配人、ヘイヴン・ジョーカーは、退廃的な美貌の持ち主で、男女問わず関係を持ち、数々の浮き名を流してきた放蕩者である。
 彼の噂は、世間と隔絶された公宮に暮らす光希の耳にすら届くほどだ。
 悪名高い青年貴族だが、彼が才覚ある賭博師兼、興業師であるのも事実で、彼の代でポルカ・ラセの年間売上は過去最高の数字を叩き出している。
 また、クロガネ隊の後見の中でも一・二を競う篤志家とくしかでもあり、先のココロ・アセロ鉱山視察の際にも、多額の資金援助に貢献していた。
 そんな彼の主催する競竜杯賭博祝賀会の招待状が、ジュリアスと光希の元に届いた。
 ジュリアスは気が進まないようだったが、光希は乗り気だった。ポルカ・ラセに興味もあったし、クロガネ隊の大切な後援者の招待を断るのは、心情的に難しかった。
 渋々ではあるが、ジュリアスは光希を伴ってポルカ・ラセの大夜会にいくことを承諾した。
 その日の夜。
 クロッカス邸の衣装部屋で、光希は身支度を整えていた。
 薄い水色の上下に、艶がかった灰色の靴をあわせ、いたち科の毛皮で飾られた外套を羽織っている。縁に豪奢な金糸の刺繍が施されていて、襟に凝った意匠の蒼い宝石を留めている。全てナフィーサの見立てである。
 鏡の前でおかしなところがないか確認していると、控えめなノックの音がした。
「光希」
 戸口に立つジュリアスを見て、光希は目を瞠った。毎日彼を見ているのに、濃紺の夜会服を着たジュリアスは、思わず言葉を忘れるほど美しかった。
 手には蒼い子山羊の革手袋。襟に光希と揃いの蒼い宝石を留めて、髪には光希が贈った細い銀装飾をつけている。くるぶしまで届く琥珀こはく織りの上着は、長い脚が覗く縫製になっており、靴に少し角度があるから、いつもより更に長身に見える。
 非の打ちどころもない貴公子の極致だ。
「うわー……」
 光希は呆けたように呟いた。
 思わず振り返って二度見した挙句、あとを追い駆けてしまいそうなほど洗練されている。
「さすがジュリ、完璧だよ」
 熱のこもった賞賛の言葉に、ジュリアスは魅力的な笑みを浮かべた。着飾った光希の全身を眺めて、優しく目を細める。
「光希の方こそ、よく似合っていますよ」
 大切なものを慈しむかのような、賞賛のいりまじった優しい口調に、光希は照れくさそうに笑った。
「ありがとう。おかしくないかな?」
 自信なさそうに呟く光希を、ジュリアスはじっと見つめた。
「とても魅力的ですよ。今夜の貴方を、誰にも見せたくありません。どこへもいかず、二人きりで過ごせたらいいのに」
「褒めすぎだよ……でもありがとう」
 照れくさそうにいう光希の頭を、ジュリアスは優しくなでた。光希はしばらくじっとしてたが、なかなか終わる気配がないので、身体を横にずらして髪を撫でつけた。
「ふぅ、ジョーカーさんに会うの少し緊張してきた」
「無理に口を利くこともありませんよ」
「いやいや、人づき合いも大切にしないと」
「貴方は周囲に気を配りすぎなんですよ」
「僕は小心者だから、ジュリみたいに超然としていられないの」
 光希はジュリアスの背中を軽く叩いてから部屋を出た。玄関の正面に黒塗りの馬車が停まっていて、御者台にはルスタが座っていた。彼と目が合い、光希は笑顔になった。
「いつもありがとう、ルスタム」
「我が喜びです、殿下」
 馬車の中に入ると、温めた煉瓦が置いてあり、光希は歓声を上げた。
「気が利くなぁ」
 いそいそと靴を脱ぐと、煉瓦の上に足を乗せて、柔らかな息を吐いた。夜になると冷えこむアッサラームでは、定番の暖房道具である。
「天国だ……」
 光希は目を閉じていった。膝の上に置いた手の上に、大きな手が重ねられた。優しく指をからめて掌を親指で擦る。彼の無意識からくる親愛に満ちた仕草に、光希は笑みを零した。
「楽しみだなぁ」
「そうですか?」
「うん。ジュリは?」
「そうですね……光希が私と踊ってくれるなら、とても楽しみなんですけれど」
「いや~、それはちょっと……」
 言葉を濁す光希に、ジュリアスは謎めいた笑みを送った。光希は瞬きし、首を傾げて笑ってみせた。
「いろいろ見ているだけでも楽しいよ、きっと。ね?」
 誤魔化されていると知りつつ、ジュリアスは光希の頭にキスを落とした。
「あまり長居せずに、ざっと見て回ったら帰りましょう」
「まだ着いてもいないのに……」
 不平をこぼす光希を見て、今度はジュリアスが誤魔化すような笑みを浮かべた。彼は注目を浴びることが、というよりも、注目のある場に光希を連れていくことに敏感なのだ。
「先ずはヘイヴンさんに挨拶をして、ポルカ・ラセの大遊戯室を見て、美味しいものを食べて、それから充分に満足したら帰るよ」
 光希は確固たる口調で告げた。ジュリアスは不満だったが、文句は口にしなかった。光希がポルカ・ラセを訪れることを、心から楽しみにしていることは知っている。とはいえ、なるべく長居はすまい……密かに思うのだった。