アッサラーム夜想曲

第4部:天球儀の指輪 - 34 -

 小休止の後、ジュリは全員の前ではっきりと告げた。

「ベルシアの要求は断る。花嫁ロザインは絶対に渡しません。対価を変えて交渉する分には構いませんが、それだけは肝に命じてください」

 毅然とした眼差しに、反駁はんばくする者は在らず。未練を見せていた将達も一様に口を閉ざした。
 全員が首肯する様子を見て取るや、伝令はいそいそと一礼して退出した。
 光希の心中は複雑だ。
 頭では「本当にいいのか」と考えていても、心ではジュリがはっきり拒否してくれたことに、安堵している。
 もしもジュリが、躊躇いもせずにベルシアの要求を呑んだら。果たして光希はどう思っただろう……。
 紛糾する軍議に、夜休の鐘が水を差す。光希は軍議を抜けると、ルスタムを従えて大神殿を訪れた。

「サンベリア様はお元気かな?」

 隣を歩くルスタムに声をかけると、安心させるように頷いてくれた。

「誓願を立て戒律を守り、神官同様に宿舎で過ごされていますよ。清貧の生活も、苦ではないようです。公宮にいるよりもずっと、穏やかな表情をされていましたよ」

「そっか……」

 光希は口元を緩めた。かなり強引な手段で、それもほぼ独断で神官宿舎に入れてしまったが、助けになったのであれば良かった。
 落ち着いたら会いに行ってみようと思いふけっていると、大神殿からエステルとカーリーが出てきた。今日は楽しそうな笑顔を浮かべている。

「こんにちは」

「殿下!?」

 愛らしい少年達は飛び上がらんばかりに驚いた。その場でひざまずこうとする二人を「いいから、いいから」と手で制する。
 仲の良さそうな二人の様子に和む。エステルは光希を仰ぎ見るや、照れくさげに口を開いた。

「あの……先日はすみませんでした。私はもうすぐ聖歌隊を抜けるのですが、後任のカーリーはずっと私に気兼ねしていたみたいで、殿下の前で泣いてばかり――」

「エステルッ!」

 カーリーは恥ずかしそうにエステルの言葉を遮った。掴みかかりそうな勢いだ。

「エ、エステルがいけないんだよ。続けたいってずっと言っていたから……立場を奪うみたいで、僕……なのにいつの間にか入隊申請済ませてるし、聞いてないよ」

「え、エステルは軍に入るの?」

 光希は眼を瞠った。

「はい! 成人したら入隊します。合同模擬演習すごく感動しました! ムーン・シャイターンはとてもお強くて……私もいつかあんな風に闘技場に立ちたいです」

 瞳を輝かせるエステルの隣で、カーリーも「私も成人したら入隊します!」と笑顔を閃かせる。
 夢と希望に満ちた眩しい笑顔だ。一点の曇りもない憧憬の眼差しで光希を仰ぎ見る。

「……そっか。なら、もうすぐ仲間になるんだね。よろしくね」

 この子達もいつの日か戦場に立つのだろうか。切なさに蓋をして、微笑んだ。

「はいっ!」

 二人は嬉しそうに、声を揃えて返事する。名残惜しそうに光希を振り返りながら、駆けてゆく……。

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 暮れなずみ、アッサラームは美しい黄金色に染まる。
 沈みゆく陽は、空の裾を薔薇色に燃やす。
 斜光の射しこむ大神殿に、礼拝する人の流れが途絶えることはない。
 光希は祭壇を向いて跪くと、瞳を閉じた。シャイターンに力なく呼びかける。

 ――あんな小さな子達も、戦場に立たせるのかよ。ここは戦いばかりだ。俺を花嫁に選んでくれたのなら、ジュリと一緒に戦える力をくれても良かったのに……。

 ベルシアの和平交渉はどうなるか分からない。向こうが花嫁をよこせの一点張りなら、交渉は決裂だ。
 百万を越える東の勢力と、全面衝突するしかないのだろうか。「戦わない」という選択肢は、なぜないのだろう。
 互いに十分広い領土を持っているではないか。征服の必要がどこにあるというのか。

「――そのように健気に祈りを捧げられては、シャイターンも聴きれるほかありませんね」

 突然、背中に声をかけられて、埒もない思いは中断した。アースレイヤは光希の隣に立つと、祭壇に一礼して跪く。

「お告げはありましたか?」

「いえ……アースレイヤ皇太子も、お祈りに?」

「休憩です。石で冷やされた、ここの空気が好きなんです。何をお祈りされていたのですか?」

「祈りというか……不満ばかり考えていました」

「不満?」

「……ベルシアの和平交渉をどう思いますか?」

「もしかして、人柱になるか悩んでおられる? 花嫁を欠けば、兵の士気は元よりムーン・シャイターンはこの国を見捨て兼ねない。割に合わない取引だと思いますよ」

 少々意外な思いで、光希は目を瞠った。彼はどちらかと言えば、光希を見捨てでも交渉を取ると思っていた。

「ベルシアもこちらの出方を探っているのでしょう。無理難題の後に、難易度を下げた要求をふっかけてくるかもしれませんよ」

「さっきは保留と言ったのに……」

「彼も頭を冷やす時間が必要でしょうから。貴方のことになると、心なきシャイターンも随分と熱い男になる」

「貴方は冷静ですね」

 褒めたつもりであったが、アースレイヤは自嘲めいた笑みを浮かべた。

「……なるようになる、そう思っているだけです。もちろん、万策尽きた際に思う境地ですけれど」

「勝てると……いえ……」

 不謹慎かと思い途中で切った言葉を、アースレイヤは拾い上げた。

「悪くない勝率だと思いますよ。他の将達なら勝てると言い切るのでしょうね。貴方の目に、私が冷静に映るのだとしたら……それは私が、敗戦した場合の未来も想定できるからでしょう」

 敗戦……言葉の重さに光希の顔は歪んだ。口にした本人は黒髪に手を伸ばすと、苦悩を癒すように髪を梳く。

「勝率を上げるのは貴方だ。迷わず、ムーン・シャイターンのお傍にいるとよろしい」

 髪に触れる手を跳ねのけると、華やかな美貌に微笑を浮かべる。掴みどころのない人だが、何かを尋ねて答えをはぐらされることは、不思議とあまりないように思える。その答えが納得いくかどうかは置いておいたとして……。

 今日に関して言えば、心を軽くしてくれた。