アッサラーム夜想曲

第3部:アッサラームの獅子 - 30 -

 消化できない怒りを抱えたまま、三日が過ぎた。
 何度かユニヴァースのお見舞いを申し出たが、ジュリアスは許そうとしなかった。
 断食による無言の抗議は、光希よりも先にナフィーサが憔悴してしまい、諦めた。
 光希は生気のない顔をしているものの、ふくよかな身体は健在だ。
 一方、ナフィーサは明らかに痩せた。まだ十一歳の子供に、それ程ストレスを与えていることに罪悪感を覚え、切り出してみた。

「無理して僕に仕える必要はないよ。大神殿の神徒に戻ってもいいんだよ?」

 灰青色の瞳はたちまち潤んだ。絶望の色を浮かべて光希を見上げる。

「わ、私は……殿下にお仕えできることを……大変な、ほ、誉れだと、思っておりますのに……」

 悲壮な顔で、声を震わせ、ナフィーサは訥々とつとつと答えた。

「うん、でもナフィーサ、辛そうだから……」

「殿下が、殿下が……ッ……私を疎ましく感じていることは、承知しております。それでも、どうか、お、お傍に置いてくださいませ」

 涙に濡れた一途な双眸を、拒絶することは難しい。
 理解を得られず光希が苦しむように、花嫁ロザインを神聖視するナフィーサの気持ちを、光希もまた忖度そんたくできないのだ。

「判ったよ……」

 視線を逸らすと、視界の端でナフィーサは悄然と肩を落とした。
 最近、こういうことが多い。
 気遣いを素直に受け取れず、無下にしてしまう。相手を傷つけ、自分も自己嫌悪で傷つくという悪循環。
 気分転換できればいいのだが、二十日間の謹慎処分を受けている為、外に出ることも叶わない。
 鬱屈は貯まる一方だ。
 ジュリアスとも殆ど口を利いていない。一方的に、ジュリアスを無視している。食事を共にすることも拒み、同じ寝台に潜っても、端と端に寄り、会話もなく眠る日々が続いている。
 煩悶はんもんを繰り返し……三日目の夜。
 どん底まで落ちたせいか、自然と心は浮上を始めた。
 できないことを惜しみ、嘆いても、苦しいだけ。できることを見つけて、気持ちを切り替えていく方が精神的に楽だ。
 謹慎処分をきちんと受け入れる。大切な人達に八つ当たりしてはいけない。
 ユニヴァースを見舞い、誠心誠意を込めて謝罪する。
 クロガネ隊に復帰し、コツコツ仕事に励む。
 そして、訓練に参加する。必要があれば、軍舎に移ってもいい。皆と同じ環境に身を置き、少しでも自分の身を守れるように心胆しんたんと身体を鍛える。
 運動は大の苦手だし、自分に向いているとも思えないが、それくらいの覚悟を見せないと、身体を張って守ってくれたユニヴァースに面目が立たない。
 この決意を、ジュリアスに伝えようと心に決めた。

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 夜更けにジュリアスが帰ってくると、光希はおずおずと傍へ寄った。

「お帰り、ジュリ」

「光希……」

 久しぶりに、青い双眸を正面から捉えた。

「話があるんだ。聞いてくれる?」

「もちろんですよ」

 即答してくれたことに、内心で安堵のため息をついた。
 窓辺に寄って、硝子照明を床に置く。光希が座ると、ジュリアスも正面に腰を下ろした。
 見つめ合ったまま、沈黙が落ちる。お互いに緊張しているのだ。勇気を振り絞って、光希の方から口を開いた。

「ずっと、態度悪くてごめんなさい」

 ジュリアスは肩から力を抜くと、光希の手を握りしめた。温もりに励まされて、更に言葉を続ける。

「……謹慎が明けたら、クロガネ隊に戻して。ユニヴァースのお見舞いにも行かせて。それから、訓練に参加させて欲しい」

「訓練に?」

 光希は深く頷いた。

「襲われた時、僕は一歩も動けなかった。対処方法を知っていたら、捕まらずに済んだかもしれない。守られる努力をしたいんだ」

「先日の件は、光希の剣技に問題があったのではなく、護衛もつけず無防備に外出したことが問題なのです」

「判ってる。でも護衛をつけても、同じことが起こるかもしれないよ」

「いいえ。第一、アッサラーム軍の訓練はそんなに易しいものではありません。繊細で可憐な貴方には一刻も耐えられないでしょう」

「可憐って……」

 呆気にとられたが、ジュリアスの眼差しは真剣そのものだ。

「泥にまみれることもあります。柔肌に傷がつく。それに、不作法な者も多い……そんな野蛮な輩が、貴方に触れる距離に立つなんて」

「僕も男だからね? 汚れたって気にしないよ。野蛮って……軍の人でしょう? 平気だよ……」

 と光希はいったが、ジュリアスは難しい顔をしている。

「クロガネ隊への復帰は良しとしても、ユニヴァースの面会と、訓練については許可できません」

「……僕はシャイターンの花嫁ロザインなんだよね。同等の権利があるんじゃないの?」

「私の花嫁であると同時に、部下でもあります。兵士として新兵にも劣る貴方は、上官であり先達者のいうことには素直に耳を傾けるべきです」

「そうかもしれないけど! 試させてよ。訓練に参加してみて、一日耐えられたらユニヴァースに面会させて。無理だと判ったら、ジュリの言う通りにするから……」

 ジュリアスは憂鬱そうに息を吐いた。

「いいでしょう……謹慎が明けたら、そのように手配します。一日様子を見て、私が判断する。これでいい?」

 首肯すると、ジュリアスはふと無言になった。どうしたの? と首を傾げると、静かに呟く。

「……光希がようやく、私を見てくれたから」

 虚を突かれて、今度は光希が無言になる。

「貴方に見てもらえなくて……苦しかった」

 一途な眼差しに、胸に切なさがこみあげる。苦しいのは、光希ばかりではなかったのだ。

「ごめん……」

 ジュリアスは何もいわず、真っ直ぐ光希を見つめている。  薄明りの中、ぼんやりとしか見えていないはずなのに、目や唇、首筋、鎖骨……見られているところが熱を持ち始めた。
 空気が色濃くなってゆく――身体を硬くしていると、腕を引かれて抱き寄せられた。夜着の襟を寛げ、肌に口づけられる。

「んっ」

 思わずあえかな声が洩れると、ジュリアスは顔を上げた。熱を灯した青い双眸に光希を見下ろす。ぞく……っと腰に甘い戦慄が走り、反射的に仰け反ると、追いかけるように唇が重なった。

「んぅっ」

 ジュリアスは光希の後頭部を丸く包みこみ、口づけを深めながら、ゆっくりと光希を押し倒した――