アッサラーム夜想曲

第3部:アッサラームの獅子 - 29 -

 微かな物音に、ふと眼を覚ました。
 隣にジュリアスがいない――慌てて跳ね起きると、転がるように寝台から飛び降りた。

「ジュリ!」

 寝室の外へ出ると、既に軍服に着替えたジュリアスは、ちょうど部屋を出て行くところだった。

「お早う、光希」

 浮かない顔をしている。仲違いしたままなので当然だ。傍へ駆け寄り、ジュリアスの腕を掴んだ。

「僕も連れていって!」

「……できないと、昨日いいました」

「お願いだ、ジュリ。考え直して……ユニヴァースだけ処罰を受けることになったら、彼にも、他の皆にも合わせる顔がないよッ」

 縋りつく光希を見ても、ジュリアスは表情を変えなかった。やんわり腕を外して、何もいわずに部屋を出ていこうとする。

「待って!」

 部屋の外に控えていたルスタムは、ジュリアスに縋りつこうとする光希を引き留めた。

「殿下、お下がりください」

「嫌だよ! ジュリッ!」

 声が潤みかけた。ジュリアスは物憂げに光希を見つめると、半分瞑目した。数秒ほど視線を落として、再び上げると、

「光希から目を離さないように」

 心を切り替えるように、冷淡な表情でルスタムに告げた。

「御意」

 厳かにルスタムが応える。ジュリアスは光希を一瞥もせずに、上着の裾を翻した。

「ジュリ! 待ってよ! 待って!」

 無我夢中で暴れたが、ルスタムは決して手を離さなかった。


 +


 終課の鐘が聞こえる。
 光希はテラスの寝椅子に座ったまま、ぼんやり夜空を仰いでいた。
 澄明ちょうめいな天空には、地球によく似た青い星が浮かんでいる。優しい星明かりも、心の内までは届かない……。
 暗澹あんたんたる気持ちを拭えない。
 ユニヴァースは無事だろうか?
 鞭打ちがどういうものか誰も詳しく教えてくれなかったが、ルスタムの話では、処刑人が鞭を振るうという。“処刑人”という言葉に怯える光希を見て、死にはしない、と付け足したが、少しも安心できなかった。
 ユニヴァースは光希を恨んでいるだろうか。だとしても、謝ることすらできない。
 ナフィーサもルスタムも、お屋敷の人間は皆、いざとなったらジュリアスのいうことしか聞いてくれない。
 全てが憎く疎ましい。
 ヴァレンティーンも、シャイターンの花嫁ロザインだと特別視されることも、自由を与えられないことも。
 謹慎処罰を下し、ユニヴァースに会わせてくれないジュリアスも、ルスタムも、ナフィーサも。
 だが、何よりも疎ましいのは、守られてばかりのくせに、不満ばかり抱えている非力な我が身だ。
 あの時もし――光希が剣を振るえたら、身の躱し方を知っていたら、大通りにある軍の詰所まで逃げおおせたかもしれない。

(悔しいッ!)

 消化できない怒りが身の内に渦巻いている。
 誰とも口を利きたくなくて、ジュリアスが帰ってきても出迎えず、一人テラスで夜空を見上げ続けた。
 会話を拒む背中を見て、ジュリアスも声をかけようとはしなかったが、朝課の鐘が鳴ると、見かねたように傍へやってきた。

「……風邪を引きますよ」

 伸ばされた腕が肩に触れる前に、光希は乱暴に振り払った。今更向き合ってくれても遅いのだ。

「……ユニヴァースの処罰は終わりました。治療中です。十日も経てば回復するでしょう」

 仕方なさそうにジュリアスはいった。お見舞いにいくことは許されるだろうか? 訊いてみようか迷っていると、

「そんなに気になりますか? ユニヴァースの名前を出さないと、視線もくれないのですね」

 恨みがましい口調にカチンときた。

「僕を無視したのは、ジュリの方でしょ」

「違います。無視していないからこそ、最大限の譲歩をしました。無視しているのは、光希の方でしょう」

「……」

「私が疎ましいですか?」

 本音をいえば、今は疎ましい。理詰めで責められると勝てないし、感情的になって碌なことにならない。既に苛々していて、余計なことを口走ってしまいそうだ。
 口を利きたくなくて、答える代わりに無言で顔を背けた。

「光希」

 名前を呼ばれた瞬間、立ち上がった。
 手を取られそうになり、音が鳴るほど、過剰な動作で振り払う。
 渇いた音に、胸が痛んだ。こんな態度をとったりして、ジュリアスも光希自身も傷つけるだけだ。
 でも、どうにもできない……振り向かずに寝室に入ると、広い寝台の端に寄って眼を閉じた。後からジュリアスも寝室に入ってきたが、寝入った振りを続けた。背中に感じる視線を、苦心して意識の外へ追いやる。

 なかなか眠れなかった。