アッサラーム夜想曲

第3部:アッサラームの獅子 - 23 -

 地上にも、熾烈な争いの痕跡が残っていた。
 壁も床も無残に剥がれ落ちている。天井にまで撥ねた血痕が、うっすら青い燐光を放っている。
 ふと見れば、ジュリアスや光希の服に染みた血も、淡く発光している。
 同じアッサラームの同胞なのに。どうして血を流さなくてはいけないのだろう……
 ヴァレンティーン。あの男に同情などしないが……極刑が重過ぎる。無関係な血縁者まで、本当に処罰するのだろうか?
 考えるほどに不安は増す。
 ただ、今は何よりも、ジュリアスと視線が合わないことが辛い。こんなに身体の距離は近いのに、心は遠く離れてしまっている。

「ここに座って」

 荷袋の上に降ろされ、清潔な麻のズボンを渡された。下着を履いていなかったので、ありがたい。着替える間、ジュリアスは裾の長い外套を手に持ち、周囲の視線を遮ってくれた。

「ありがとう。履いた」

 ジュリアスは外套を光希の肩に掛けると、子供にするように脇に手を入れて、荷袋の上に再び座らせた。編上げの軍靴ぐんかを履かせようとするので、思わずその手を掴んだ。

「自分で履ける」

「いいから。足裏を痛めているでしょう? 飛竜にも乗るし、手当してから履かないともっと痛めますよ」

「判った……ありがとう」

 渋々頷くと、ジュリアスは光希の足元に跪いた。血で汚れた足を、濡れた布で丁寧に拭っていく。手つきは優しいけれど、始終無言でこちらを見ようとしない。仕方なく作業しているみたいだ。
 多大な迷惑をかけた上、軍の大将に世話を焼かせていると思うと、非常にいたたまれない。
 重苦しい空気に耐えていると、涼しげな顔でアースレイヤ皇太子が近づいてきた。

「飛竜の準備が整いました」

「ご苦労」

 ジュリアスは背中を向けたまま応えた。相手は皇太子なのに……光希の方が心配になる。いや、立場上ではジュリアスの方が偉いのか。

花嫁ロザイン、お怪我はありませんか?」

 優しく微笑むアースレイヤを見て、光希はぎこちなく会釈した。

「はい。ご迷惑をお掛けいたしました」

「お助けできて良かったですよ。危うく国の一大事になるところでした……怖い怖い」

 気安い口調だが、含みがあるように聞こえる。返事に窮していると、軍靴の紐を結わき終えたジュリアスは、

「そう思うなら、肝に命じておいて下さい」

 立ち上がるなり、アースレイヤ皇太子を冷ややかに睨んだ。

「判っています。これでも申し訳なく思っているのです。後は引き取りますから、花嫁を連れてどうぞお帰り下さい」

 頭を下げる皇太子を一瞥し、ジュリアスは光希を横抱きに持ち上げた。無言でアースレイヤの前を通り過ぎる。すれ違う瞬間、彼は光希を見て片目を瞑ってみせた。ご愁傷様、そういった感情を向けられた気がした。

「光希、痛いところはありますか?」

 青い瞳とようやく視線がぶつかり、光希は微笑んだ。

「平気。助けにきてくれて、ありがとう」

 笑いかけても、ジュリアスの態度は軟化しない。痛みや、怒りを堪えるような、遣る瀬無い表情をしている。

「ジュリは? 怪我していない?」

 見たところ平気そうだが……探るようにジュリアスの身体に触れていると、手を掴まれた。じっと見つめるので、何だろうと光希も視線を落とす。手の甲に細かな擦り傷があった。

「これくらい平気だよ。大したことない」

 笑いかけても、応えてくれない。ふいと視線を逸らされた。
「少し、黙ってもらえまんせか?」

「――……」

「……すみません。帰りましょう」

 黙れといわれた……ショックで、本当に口が利けなくなった。されるがまま飛竜の背に乗せられる。
 不意に、痛いくらいの力で抱きすくめられた。ジュリアスは肩に顔をうずめて、首筋を啄むように吸い上げる。

「ん……っ」

 声が漏れそうになると、口をジュリアスの手に押さえられた。

「いっそ、鎖に繋いでしまえば……貴方はじっとしているのかな?」

 耳朶に吐息を吹き込むように囁かれて、背筋がふるえた。

「我慢しても、良いことなんて一つもありません。同じだけ苦しむのなら、私の傍にいてくれる方が遥かにいい」

 力で従わせようとする言動に腹が立ち、口を押さえている腕を叩いた。
 ようやく手が離れ、反論しようと口を開いた途端、腹に力強い腕が回された。見事な手綱さばきで、瞬く間に夜空へ舞い上がる。

「ジュリッ!」

「舌を噛みますよ。しばらく黙っていらっしゃい」

「――っ!?」