アッサラーム夜想曲
第2部:シャイターンの花嫁 - 23 -
「今日、私の公宮に解散を命じました。婚姻を迫りながら、公宮を整理仕切れていなくて申し訳ありません。別邸を建てることばかり気を取られて、本殿の公宮を失念していました」
「そう……」
「目を合わせては、くれませんか?」
仕方なく視線を合わせると、こちらをうかがうように、ジュリアスは両腕を拡げて一歩を踏み出す。触れられるのが嫌で、光希は後じさった。
二人の間に、気まずい沈黙が流れる。
所在なさげに佇む光希を見て、ジュリアスは何かをいいかけて、止めた。
「触れられるのも、嫌?」
彼らしからぬ、自嘲めいた口調だった。態度が悪いと自覚していても、感情を制御できない。
「仲直りがしたい……コーキの不満を聞かせて欲しい」
「不満……」
「教えて?」
「公宮は解散したといわれても、なんだか……気分が悪い」
「すみません。過去はどうにもできないけれど、これからできることがあれば、全力で応えてみせます」
怖いくらいに、真剣な眼差しを向けられる。ふて腐れている光希と違って、ジュリアスの姿勢は真っ直ぐだ。
どうして、同じように前を向けないのだろう?
一歩を詰められれば、一歩下がった。
まるで、二人の心の距離のようだ。伸ばされた手が濡れた髪に触れそうになると、顔を背けて拒んだ。
「コーキ……触れたい。触れさせて」
切ない声に、心を揺さぶられる。その手に縋りたいのに、縋れない。過去に嫉妬しても仕方がないのに、どうして割り切れないのだろう。
このままでは、お互いに苦しいだけだ。
ジュリアスは、頭を下げて謝ってくれた。光希も意地なんてはらずに、謝ってしまえばいいッ!
そう思っているのに、身体がいうことをきかない。どうしても素直になれない。慎重に伸ばされた手から、身体を引いて逃げてしまう。
「コーキ……」
失望の滲んだ、哀しげな声が胸に刺さった。
「ごめん……ジュリ……」
搾り出した声は、潤んでいた。泣くまいとする光希を見て、ジュリアスは歯痒げな表情を浮かべている。
「そんな離れたところで泣かないで。慰めさせて」
「泣いて、ないッ」
声が震えないように、唇を噛みしめて、首を振った。
どうしても、公宮で見た光景を受け入れられない。あんなに美女がいるなんて、全然知らなかった。十三歳から通っていたなんて、初めて聞いた。
ジュリアスが遠い。
歩んできた何もかもが、違い過ぎる。手を繋いだのも、キスだって全部ジュリアスが初めてなのに、彼はそうではないのだ。考え方からして違う。
せめて、彼の口から聞きたかった。傷つき、悩むにしても、人から聞かされるのではなく、彼自身に話して欲しかった。
大切にされていると、判っている。けれど、埋まらない距離がもどかししい。追いつきたいのに、彼の背中が遥かに遠い。
「コーキ……」
伸ばされた手を見て、反射的に叫んだ。
「いらない!」
腕をつき出して近づくのを拒むと、伸ばした手を両手に包まれた。
「……!? さわっ」
「手だけ、だから」
包みこむ手の暖かさに戸惑っていると、掌の内側を、親指で摩られた。
「……ッ」
執着を示す触れ方に肌が粟立ち、強引に手を引き抜いた。距離を取ってジュリアスを仰ぐと、ものいいたげな視線が返される。
「……明日の夜、祝賀会に呼ばれました。コーキも一緒にいきますか?」
「ジュリも、いく?」
「陛下からお声を頂戴したので、断れそうにありません。私は一人でもいくけれど、コーキは無理しなくても」
「僕もいきます」
昨夜のように、光希の知らない、酒や香水の匂いを纏って帰ってくるジュリアスを見るのは嫌だった。傍にいるのも辛いけど、離れて勝手に落ち込むのはもっと辛い。
「判りました。あと……今夜は、客間ではなく、二階を使ってください。コーキの部屋なのですから」
「このお邸は、ジュリのものだよ……」
「二人のものです。コーキが過ごしやすいように、建てたのです。私を含め、何かに遠慮をする必要はありませんよ」
「……ジュリは、どこで寝るの?」
「一緒に寝るのは、嫌?」
寂しそうに訊ねられ、思わず返答に詰まった。申し訳なく思いながら、首を縦に振る。
「……せめて、二階まで送らせてください」
差し伸べられた手を見て躊躇したが、彼の譲歩を拒むのは流石に忍びなくて、大人しく手を重ねた。
螺旋階段を、ゆっくりと上る。
ようやく二階の私室に辿り着くと、名残り惜しそうにジュリアスは手を離した。部屋に着いたのに、彼は動こうとしない。恐る恐る顔をあげると――
「……ッ」
熱のこもった青い瞳と視線がぶつかった。
視線を泳がせ、後ろ手に真鍮の扉ノブを探っていると、頬に手を添えられた。視線を戻すと、ゆっくりと神々しい美貌が近づいてくる……手で阻もうとしたら逆に指先を捕えられた。
指先に唇が触れて、身体が硬直する。固まっている間に、唇が重なった。
「んっ……」
唇が離れる瞬間、柔らかく上唇を食まれた。見つめ合う青い瞳の奥に、熱が灯っている。
触れて欲しい。触れられたくない。
相反する想いに揺れている間に、ジュリアスは情熱を抑え込んで瞳を閉じた。親密な空気を流して身体を離すと、扉を開いて光希の背中を押しこんだ。
「お休み。また明日」
慌てて振り返ると、扉は静かに閉まるところだった。
「そう……」
「目を合わせては、くれませんか?」
仕方なく視線を合わせると、こちらをうかがうように、ジュリアスは両腕を拡げて一歩を踏み出す。触れられるのが嫌で、光希は後じさった。
二人の間に、気まずい沈黙が流れる。
所在なさげに佇む光希を見て、ジュリアスは何かをいいかけて、止めた。
「触れられるのも、嫌?」
彼らしからぬ、自嘲めいた口調だった。態度が悪いと自覚していても、感情を制御できない。
「仲直りがしたい……コーキの不満を聞かせて欲しい」
「不満……」
「教えて?」
「公宮は解散したといわれても、なんだか……気分が悪い」
「すみません。過去はどうにもできないけれど、これからできることがあれば、全力で応えてみせます」
怖いくらいに、真剣な眼差しを向けられる。ふて腐れている光希と違って、ジュリアスの姿勢は真っ直ぐだ。
どうして、同じように前を向けないのだろう?
一歩を詰められれば、一歩下がった。
まるで、二人の心の距離のようだ。伸ばされた手が濡れた髪に触れそうになると、顔を背けて拒んだ。
「コーキ……触れたい。触れさせて」
切ない声に、心を揺さぶられる。その手に縋りたいのに、縋れない。過去に嫉妬しても仕方がないのに、どうして割り切れないのだろう。
このままでは、お互いに苦しいだけだ。
ジュリアスは、頭を下げて謝ってくれた。光希も意地なんてはらずに、謝ってしまえばいいッ!
そう思っているのに、身体がいうことをきかない。どうしても素直になれない。慎重に伸ばされた手から、身体を引いて逃げてしまう。
「コーキ……」
失望の滲んだ、哀しげな声が胸に刺さった。
「ごめん……ジュリ……」
搾り出した声は、潤んでいた。泣くまいとする光希を見て、ジュリアスは歯痒げな表情を浮かべている。
「そんな離れたところで泣かないで。慰めさせて」
「泣いて、ないッ」
声が震えないように、唇を噛みしめて、首を振った。
どうしても、公宮で見た光景を受け入れられない。あんなに美女がいるなんて、全然知らなかった。十三歳から通っていたなんて、初めて聞いた。
ジュリアスが遠い。
歩んできた何もかもが、違い過ぎる。手を繋いだのも、キスだって全部ジュリアスが初めてなのに、彼はそうではないのだ。考え方からして違う。
せめて、彼の口から聞きたかった。傷つき、悩むにしても、人から聞かされるのではなく、彼自身に話して欲しかった。
大切にされていると、判っている。けれど、埋まらない距離がもどかししい。追いつきたいのに、彼の背中が遥かに遠い。
「コーキ……」
伸ばされた手を見て、反射的に叫んだ。
「いらない!」
腕をつき出して近づくのを拒むと、伸ばした手を両手に包まれた。
「……!? さわっ」
「手だけ、だから」
包みこむ手の暖かさに戸惑っていると、掌の内側を、親指で摩られた。
「……ッ」
執着を示す触れ方に肌が粟立ち、強引に手を引き抜いた。距離を取ってジュリアスを仰ぐと、ものいいたげな視線が返される。
「……明日の夜、祝賀会に呼ばれました。コーキも一緒にいきますか?」
「ジュリも、いく?」
「陛下からお声を頂戴したので、断れそうにありません。私は一人でもいくけれど、コーキは無理しなくても」
「僕もいきます」
昨夜のように、光希の知らない、酒や香水の匂いを纏って帰ってくるジュリアスを見るのは嫌だった。傍にいるのも辛いけど、離れて勝手に落ち込むのはもっと辛い。
「判りました。あと……今夜は、客間ではなく、二階を使ってください。コーキの部屋なのですから」
「このお邸は、ジュリのものだよ……」
「二人のものです。コーキが過ごしやすいように、建てたのです。私を含め、何かに遠慮をする必要はありませんよ」
「……ジュリは、どこで寝るの?」
「一緒に寝るのは、嫌?」
寂しそうに訊ねられ、思わず返答に詰まった。申し訳なく思いながら、首を縦に振る。
「……せめて、二階まで送らせてください」
差し伸べられた手を見て躊躇したが、彼の譲歩を拒むのは流石に忍びなくて、大人しく手を重ねた。
螺旋階段を、ゆっくりと上る。
ようやく二階の私室に辿り着くと、名残り惜しそうにジュリアスは手を離した。部屋に着いたのに、彼は動こうとしない。恐る恐る顔をあげると――
「……ッ」
熱のこもった青い瞳と視線がぶつかった。
視線を泳がせ、後ろ手に真鍮の扉ノブを探っていると、頬に手を添えられた。視線を戻すと、ゆっくりと神々しい美貌が近づいてくる……手で阻もうとしたら逆に指先を捕えられた。
指先に唇が触れて、身体が硬直する。固まっている間に、唇が重なった。
「んっ……」
唇が離れる瞬間、柔らかく上唇を食まれた。見つめ合う青い瞳の奥に、熱が灯っている。
触れて欲しい。触れられたくない。
相反する想いに揺れている間に、ジュリアスは情熱を抑え込んで瞳を閉じた。親密な空気を流して身体を離すと、扉を開いて光希の背中を押しこんだ。
「お休み。また明日」
慌てて振り返ると、扉は静かに閉まるところだった。