アッサラーム夜想曲

第2部:シャイターンの花嫁 - 2 -

 雄大な黄昏が、砂漠を薔薇色に染め上げている。
 明日にはアッサラームに入るので、兵士達は陽が暮れても荷を解かず、持ち場でそのまま寝に入った。ジュリアスを始めとする司令官達も、寝る為だけの簡易天幕しか張っていない。

「明日は長くなるから、もう寝ましょう」

「ねぇジュリ、あ……うん」

 ジュリアスは消そうとしていた照明から手を離すと、寝そべったまま光希に視線を向けた。

「ん? どうかしました?」

「えっと……明日の凱旋、どれくらい時間がかかりますか?」

「先頭は、朝休の鐘が鳴る頃にはもう凱旋門を抜けますよ。ただ全軍が通るには、まる一日かかるでしょうね」

 朝休の鐘は、午前六時頃を知らせる鐘のことだ。ジュリアスは数万からなるアッサラーム軍の先頭をいくので、隣につき添う光希も朝早くから凱旋門を潜ることになる。

「ジュリは凱旋門を通った後、そのままアルサーガ宮殿にいきますか?」

「はい。花道を通って宮殿に入り、陛下に軍旗をお返しして行軍終了です。その後の祝賀会は、アースレイヤに任せて、さっさと引き上げるつもりです」

 アースレイヤは軍の中枢を担う大将の一人で、現皇帝の皇太子でもある。今回の遠征には加わらなかったようで、アッサラームでジュリアス達の帰還を待っているという。

「僕は、アースレイヤ皇太子、それとも大将と呼びますか?」

「コーキは軍の人間ではありませんし、皇太子で良いでしょう」

「そのことなんだけど……僕、軍で働いてもいいですか?」

 どきどきしながらジュリアスの反応をうかがっていると、青い瞳は面白くなさそうにすがめられた。腰に腕を回されて、ぐっと引き寄せられる。

「コーキ、貴方は私の花嫁ロザインですよ。軍事に関わらせるなど、そんな危険な真似をさせるわけないでしょう」

「あ、もちろん、戦闘は無理です。危なくない、書いたり読んだりする仕事なら、僕……」

「そもそも働く必要がありません。明日には公宮に入るというのに、一体どこへいくというの?」

「……」

 光希が沈黙すると、ジュリアスは宥めるように黒髪に口づけた。

「この話は明日にしましょう……ね?」

 そっと耳朶に囁くと、話は終いとばかりに照明の火を落とした。光希の前髪をかきわけて、額に優しい口づけを落とす。
 明りも消えて静かになると、光希も言葉を続ける勇気が萎んでしまい、ジュリアスの腕の中でくるりと背中を向けて寝に入った。
 これくらいで気落ちしても仕方ない。予想していた反応だ。根気よくいくしかない……

 翌る朝。黎明の静寂しじまを控えめに破る、朝課の鐘が聖都アッサラームから聴こえてきた。

「ごめんね、起こしてしまった?」

 衣擦れの音に瞼を開くと、涼しげな青い瞳に見下ろされていた。

「……もういく?」

「まだ少し時間があります。起こしてあげるから、寝ていていいですよ」

 ありがたい申し出に素直に頷き、光希は二度寝に入った。
 しかし、外がざわつき始めた為、熟睡には至らず半分目醒めながら微睡んでいた。

「コーキ、そろそろ起きて」

「……あぃ」

 寝ぼけまなこの光希を見下ろし、ジュリアスは優しくほほえんだ。くすぐったく思いながら、のそのそと光希は起き上がる。

「かわいい……」

 ぎゅっと抱きしめられて、癖のついた前髪や、額、頬に優しい口づけが雨と降る。まだ顔も洗っていないのに、と光希は照れた。
 何度か身じろぐと、ようやく離してくれた。身支度を整えて外に出ると、すでに兵士達は整然と並んでいた。
 なんと、最後尾が見えない。
 唖然と隊列を眺めていると、ジャファールが珍しい白色の四足騎竜を連れてきた。
 白銀の装甲によろわれた見栄えのする竜だ。背中には騎乗用の籠が設置されている。
 ジュリアスは慣れた仕草で光希を横抱きにすると、相変わらず一跳躍で、あっさりと籠の中に入った。
 大きな四足騎竜の背中は広く、飛竜よりも乗り心地は安定している。

「いい眺めですね」

 光希が笑いかけると、ジュリアスも綺麗な笑みを浮かべた。
 隊伍の先頭に立つ二人を、後続部隊がじっと注目している。緊張する光希を案じるように、ジュリアスは肩を優しく抱き寄せた。

「……平気ですか?」

「はい!」

 目を見て頷くと、ジュリアスは目を優しく細めた。顔を上げて、凛とした眼差しを周囲に走らせ、

「全軍、前進!」

 よく通る声で号令を発した。
 先頭が動き始めると、後続する重騎兵隊も一糸乱れぬ行進を開始した。
 どうにも高揚した気分を抑えられず、光希は何度も背後を振り返った。美しい隊伍たいごの行進は、まるで古代ローマを舞台にした映画の世界のようだ。
 いよいよ凱旋門が近づいてくると、苦笑したジュリアスに腰を抱かれて姿勢を正された。

「「アッサラーム・ヘキサ・シャイターン万歳ドミアッロ!!」」

 近づくにつれて、凱旋を祝う大勢の人の声が聴こえてきた。
 圧巻であった。
 巨大な石の凱旋門を抜けた途端、視界を埋め尽くすような花びらの雨が一斉に降り注ぐ。赤、青、白……色とりどりの花びらが惜し気なく宙を舞う――
 大勢の人達が地上から、窓から、屋上から、至るところから花道に向けて花びらを放っている。

「「「きゃあぁ――っ!!」」」
「「「シャイターンッ!!」」」

 一際大きな歓声が沸き起こった。ジュリアスの名前が何度も呼ばれる。感極まった、女性の悲鳴も聴こえた。
 腰に回された腕に力がこめられ、隣を仰ぐと、ジュリアスは誇らしげに腕を掲げていた。大歓声が降りしきる中、陽を浴びて、豪奢な金髪はきらきらと輝いている。
 なんて神々しいのだろう。
 ジュリアスは本当に英雄なのだ――感動のあまり、肌が総毛立つのを感じた。