アッサラーム夜想曲

第1部:あなたは私の運命 - 39 -

 満点の星空の下。
 ジュリアスと二人、オアシスの夜を楽しんだ。
 火を囲んで串焼きをさかなにバゥリーをあおる。ジュリアスは久しぶりに弦楽器を取り出すと、見事な演奏を披露してくれた。甘い歌声を光希のためだけに聞かせてくれる。
 言葉を少し理解できるようになった今は、ジュリアスの歌が恋人に向けた歌だと判る。もしかしたら、多少歌詞を変えているのかもしれない。

 “貴方に出会う為に、世界中の砂漠を旅して歩いた……”
 “貴方の黒い瞳に映っていられるのなら、全てを差し出そう……”

 ……といった恋歌を、甘い声で囁くように歌われると、嬉しいけれど照れくさくて、光希は何度も視線を泳がせた。

「あ、ありがとう。ジュリ……」

 斜め上に目をやりながら呟くと、ジュリアスの笑う気配がした。

「***コーキにも歌ってほしいな」

『え、俺ぇ?』

 思わず日本語で狼狽えた。歌うにしても、日本語の歌に限られる。こちらの歌はまだ覚えていないのだ。
 首を左右に振ると、ジュリアスは楽器を置いて光希の腕を引いた。膝の合間に座らせて、後ろから両腕で囲むように抱きしめる。

「なら、コーキを愛したいな……」

「えっ」

「嫌?」

「え? うん……外は嫌だ。あの、僕、泉に入ります」

「……泉に? どうして?」

 耳朶に囁く声は、急に苛立ちを帯びて低くなった。光希を包みこむ腕の拘束も強くなる。

「僕は、あの泉で溺れて……ここにいます。夜の泉、調べたいです」

 泉に入りたい本当の理由は、帰還への未練を断ち切る為だ。
 これからはジュリアスと共に生きていくと決めたから、最後に泉に入ってけじめをつけたい。夜の泉に帰り道を見つけようが、見つけまいが、ジュリアスの手を取ると決めている。
 けれど、ジュリアスは悪い方に勘違いをしたのか、耳朶に唇を寄せるや、甘噛みした。

「ん……ジュリ?」

「どういう***? 好きだっていってくれたのに。違うの?」

 身をよじってジュリアスを振り返ると、悋気を帯びた眼差しと瞳が合った。

「好きだよ! 僕はジュリの傍にいます。泉は……知りたい…興味? 大丈夫、僕はジュリとアッサラームへいきます」

「……」

 長い沈黙が降りた。ジュリアスは疑わしそうに光希を見つめている。
 安心して欲しくて、おずおずと唇を合わせると、途端に唇が燃え上がった。きつく抱きしめられて、何もかも奪うように熱烈に貪られる。

「んぅッ」

 なぜだろう、余計に怒らせてしまった気がする。

「私が今夜コーキを連れて****、オアシスで*****の夜に**********。アッサラームはここからずっと遠い。帰れば**ここへは****これなくなる。***、コーキを手放す*****ありません」

「ジュリ。離れる、違います。僕、オアシス、嬉しい……ありがとう」

「では泉には入らない?」

「入る」

「コーキ!」

「何、怒る? 夜、あの青い星、泉……僕は家に?」

「……貴方は知っているのでは?」

 冷たく試すように問われて、光希は苛立たしげに叫んだ。

「知らない! 僕の家、長い間、朝、昼、晩、探す、探す、探す、探す……僕は、ジュリが好きです。とても好きです。本当! 『ただけじめをつけたいだけだよ。だから』、泉に、入る」

「……判りました。では、私も一緒に入ります」

 ジュリアスはこれ以上は絶対に譲らない、というように勁烈けいれつな眼差しで光希を睨んだ。冷たい泉に一人で無事に入る自信のない光希は、願ったりと深く頷いた。

 岸部に火を灯したまま、ジュリアスと二人、上半身裸になって泉に入った。
 鏡のように凪いだ水面に波紋が広がり、映りこんだ青い星が滲んだ。
 日中と比べれば断然冷たいが、それでも気を失うほどではない。不思議と以前潜った時よりも、水温を暖かく感じた。
 泉は最初、いつも通りのごく綺麗な自然の泉であった。
 しかし、しばらくすると水底が淡く光り始めた。
 このまま……
 光が満ちるのを待って、手を伸ばせば、もしかしたら――確信めいた予感がした。
 一人だったら、試しに手を伸ばしていたかもしれない。
 でも、一人じゃない。
 後ろから肩を抱く、力強い腕がある。それが答えの全てだ。
 道が開けたとしても、ジュリアスの傍にいる。少なくとも、彼がそう望む限りは……
 水底の光から逃げるように陸に上がると、安堵と同時に寂寥を覚えて、瞳が潤んだ。
 涙を堪えて顔をあげると、青い星が視界いっぱいに映って、嵐のように感情を揺さぶられた。

「……コーキ、今夜**は私の知らない***を想って泣いて*いいから……***傍にいます。アッサラームへ帰れば、**貴方の全ては私のものです。*******泣くことは許しません」

 ジュリアスは優しい手つきで、何度も光希の髪を撫た。

『……っ、ごめん。俺、泣き過ぎだよね……嬉しいのか悲しいのか、よく判らなくて』

 選んだのは、紛れもなく自分なのに。
 走馬灯のように、かつての日常が脳裏を駆け巡った。身体を二つに引き裂かれるような、深い喪失感に襲われる。
 十七年間、大切に育ててくれた両親に、心の底から申し訳ないと思った。
 退屈だと思っていた高校生活が、恋しい。
 毎日食べていたご飯が、すごく恋しい。
 当たり前の日常は、当たり前なんかじゃなかった。暖かくて、眩しくて、きらきら輝いていたのに。
 どうして、気づけなかったのだろう?
 もう一度、家族に会いたい……こんな別れがあるなんて、思ってもみなかった。
 もっとちゃんと、感謝の気持ちを伝えておけば良かった。
 毎日伝えるチャンスがあったのに……

 母さん、毎日、美味しいご飯ありがとう。
 布団干してくれてありがとう。すごく気持ち良かったです。

 父さん、お仕事お疲れ様です。
 高校に入れてくれてありがとう。卒業できなくてごめんなさい……

 兄キ、いつも何かと情報流してくれてありがとう。
 コレクションが処分されそうになる度、かばってくれてありがとう。
 呑気にぬくぬくしていられたのも、全部兄キのおかげだと思ってる。

 心配かけてごめんなさい。
 頼むから、俺の所為で苦しんだりしないで。
 本当にごめんなさい。

 神様。
 俺の全部の運を使い切ってもいいから、どうかあの人達を守ってください。
 お願いします……俺の大切な家族を、どうかお守りください。