アッサラーム夜想曲

第1部:あなたは私の運命 - 20 -

 天幕の中は思ったよりも広かった。飴色の調度品が置かれ、上品で落ち着いた内装をしている。
 扉を閉めると、外の喧噪が途絶えて、優しい花の香りに包まれた。ここが戦場だということを忘れてしまいそうだ。

「コーキ、ここにいてください。**お湯を用意*****」

 天鵞絨びろうどの寝椅子に光希を座らせると、ジュリアスは天幕の外へ出ていった。
 ここしばらく屋外で生活していたから、屋根のある建物を新鮮に感じる。薄い紗に覆われた天蓋の寝台には、大きな円形の枕が二つ並び、薔薇のような花びらが散っていた。まるでハネムーンを過ごすスィートルームのようだ。

(オイオイ、あそこで寝ろと……?)

 唖然としていると、壺を抱えた召使達を連れてジュリアスは戻ってきた。
 湯浴みの場所と思わしき、タイル敷きの床に艶やかな浴槽が置かれ、壺を抱えた召使が代わる代わる中に湯を注いでいく。
 やがて、浴槽が湯で満たされると、彼等は額づいてお辞儀をしてから出ていった。
 湯気の昇る浴槽に、光希の視線は釘づけになった。もしかして、暖かいお風呂に入れるのだろうか?

「コーキ、寒かったでしょう。湯が******、服を脱いで、*****」

 うきうきしながら浴槽の傍へ寄った。上着を脱ぐと、ジュリアスは当然のように手を出してきた。光希から上着を受け取り、衝立にかけてくれる。脱いだ軍靴ぐんかは寝椅子の傍に置かれた。
 光希は苦笑しながらジュリアスの背を押して、衝立の向こうへ追いやった。

「コーキ、******、******」

 ジュリアスは衝立を離れると、身体を洗う麻布まふと固形石鹸を手に戻ってきた。光希に手渡し、身振りで用途を教えてくれる。

「ジュリ、ありがとうっ!」

 光希が破顔すると、ジュリアスも嬉しそうにほほえんだ。

「どういたしまして。***湯を*****」

 久しぶりに石鹸を使えることが嬉しくて、光希は何度も頷いた。
 衝立の外へジュリアスが出ていくと、光希はうきうきと服を脱ぎ、壺に湯を入れて頭から思いきりかけた。

『うはぁ――っ! 気持ちぃ――っ』

 あまりの気持ち良さに、思わず叫んだ。離れたところで、ジュリアスの笑う気配がする。
 石鹸で頭、顔、身体をごしごしと洗う。毎日泉に入っていたから、さほど汚れてはいないが、石鹸で洗うとやはり違う。
 洗い流す湯の色は若干濁っている。汚れが落ちていくのが気持ちいい。一通り洗い終えると、浴槽に身体を沈めた。

『あぁ――……いい湯だなぁ……』

 これ以上の幸福なんて、この世にあるまい。忘れかけていた、暖かい湯にゆったりと浸かる心地良さ……最高だ。
 のんびり満足いくまで入浴を楽しむと、のぼせる前に湯から上がった。
 籠に入っていた大判の布で身体を拭いて、ゆったりした縫製の、絹の上下に着替えた。

「湯、ありがとう」

 髪を拭きながら衝立の影から出ると、ジュリアスは立ち上がるなり、嬉しそうに光希を抱きしめた。首にジュリアスの柔らかい髪が触れてくすぐったい。

「コーキ、*****……」

「ジュリ、湯?」

「私は****。食事を用意*******」

 せっかくの暖かい湯なのに、入らないのだろうか。ジュリアスは光希を絨緞の上に座らせると、外の人間を呼びつけて、豪勢な食事を用意させた。
 目にも鮮やかな料理が、絨緞の上に次々と運ばれてくる。手のこんだ料理の数々に、光希の視線は釘づけになった。
 オアシスと違い、ここでは湯浴みも食事も、専任の召使がいるらしい。ジュリアスは明らかに、人に傅かれることに慣れている。
 給仕をする召使は、華やかな外見をしていた。若くて容姿の優れた女性が多い。胸回りの開いた衣装は目に毒で、彼女達が動く度に、光希はついつい視線で追いかけた。
 ここは戦場ではないのだろうか?  どうしてこんなに、至れり尽くせりなのだろう。ジュリアスはいつもこのような贅沢を味わっているのだろうか?
 澄ました顔で酌をさせているジュリアスを、つい胡乱げに見てしまう。目が合うと、光希の複雑な心中なぞどこ吹く風で、青い瞳を和ませた。
 ため息が零れそうなほど、美しいほほえみだ。そう思うのは光希だけではないようで、給仕している女性も、頬を染めて瞳を伏せた。

「はぁ……」

 違う意味でため息が零れた。罪な男だ。ほほえみ一つで人の気持ちをかき乱すのだから。
 視線を伏せた女性を観察していると、ふに、と頬をつまれた。横を向くと、不機嫌そうなジュリアスと目が合った。

「何?」

 頬をつまむ手を弾くと、ジュリアスは光希の腰に腕を回して引き寄せた。麗しい顔が目と鼻の先まで近づく。
 思わずどきっとして、光希は視線を伏せた。距離を取ろうとしても、ジュリアスは離そうとしない。

「コーキ、*******」

『離してよ』

 拒んでいるのに、ジュリアスは光希の頬に触れて視線を合わせ、人目も憚らず唇を奪った。合わさった唇から酒精の味がする。
 本気で逃げると、無理強いはされなかった。慌てて周囲を伺うと、空気を読んだように、誰一人こちらを見ていなかった。

『人前でするなよ!』

「コーキ、********」

 思わず日本語で怒ると、ジュリアスも何かいい返してきた。全く何が気に入らないのだ。
 別にやましい気持ちで、観察していたわけではないのに……
 不服そうにしているジュリアスを見ながら、ふと閃いた。もしかして、嫉妬した?
 頬が熱くなるのを感じて、光希は青い瞳から逃げるように視線を逸らした。