アッサラーム夜想曲

第1部:あなたは私の運命 - 1 -

  二○ⅩⅩ年、年の暮れの十二月、大晦日。木枯らし吹く東京、某マンション。

「いてて……」

 ずれた眼鏡を直しながら、桧山光希ひやまこうきは情けない声を上げた。狸に似ている、といわれる扁平へいぺいな丸顔を痛みに歪めて、黒目がちの瞳には涙が滲んでいる。
 不安定な姿勢で棚上の箱を取ろうとしていたら、バランスを崩して椅子から転げ落ちたのだ。揚句、頭の上に箱が落ちてきて角が当たる。
 身長百六十五センチで少しぽっちゃりしている光希は、自分でも哀しくなるくらい鈍くさい。運動はからっきしで、体育の成績は小学生の頃から並以下だった。
 母親から、自分の部屋くらい片づけろ、といわれて渋々大掃除を開始してみれば、まぁ出てくる出てくる、漫画、漫画、漫画、玩具、フィギュア、ガラクタの山々。
 片づけているはずなのに、一向に片づく気配がない。むしろ、余計に散らかっていくように見えるのは気のせいだろうか……
 毎年年末には十袋近くゴミを出しているのに、なぜ一年でこうも増えるのだろう。

「ふぅ……あとはこれだ」

 最後まで処分に迷ったガラクタ類――壁掛けダーツと、見覚えのない箱から出てきた、古ぼけた硝子瓶だ。
 ダーツは、肝心のダーツ矢が見つからず(恐らく掃除中に間違えて捨てた)捨てることに決めた。古ぼけた硝子瓶は、中身がよく見えず、コルク栓は異様に硬くて開きそうにない。

「なんだっけ、これ」

 硝子瓶を蛍光灯の光に晒してみるが、中身はさっぱり見えない。曇り硝子というわけでもなさそうだ。雑巾で拭いてみると、拭いたところから仄かな光が零れた。
 もしかして、洗えば汚れは落ちるのだろうか?
 試しに湯で表面を洗い流してみると、瞬く間にきらきらと無数の光が瓶の中から溢れ出てきた。

「わーなんだろ……」

 水滴を払えば表面は曇り、湯をかければ透けて中が見える。そういう素材なのだろうか?
 湯をかけながら目を凝らして中を覗くと、数多の星が煌めく、美しい夜空が見えた。
 瓶の角度を変えれば、万華鏡のように世界は変わる。夜空が見えたり、砂漠のオアシスが見えたり……まるで、瓶の中に世界が広がっているようだ。
 見れば見るほどよくできている。少しも玩具という感じがしない。光源はどうなっているのだろう? さっきから湯をかけているが、壊れないだろうか?

「――うわっ」

 ありえないものが見えた。慌てて手を離すと、瓶は硬質な音を立てて洗面台の上を転がった。
 光希は恐る恐る洗面台を覗きこみ、ひぇ、と引きつった声を上げた。

「嘘だろ……」

 眼鏡を上げて眼を擦ってみたが……見える。とんでもなく美しい、光希と同じ年頃の少年の姿が。
 不思議と怖くはない。
 こちらをじっと見つめる、宝石のような青い瞳はとても綺麗だ。額にも瞳と同じ色の宝石がついている。
 状況も忘れて、つい見惚れてしまう。
 すっと通った鼻梁、形の良いハート型の唇、なめらかな陽に焼けた肌。中性的な顔立ちをしているが、喉仏がある。男性だ。凛々しい軍服がよく似合っている。
 少し長めの、黄金を溶かしたような豪奢な金髪は、ものすごくリアルに風に靡いている。まるで、瓶の向こう側に、本当に存在しているようだ。
 初めて彼を見るはずなのに、ずっと昔から知っているような、懐かしい既視感に襲われた。この時をずっと待っていたような、ようやく出会えたような、不思議な心地がする。
 宝石のような青い瞳から、目を逸らすことができない。心の奥底まで見透かすように、じっと見つめられて、光希は誘われるように硝子瓶に手を伸ばした。

 触れる瞬間、少年の声を聴いた気がした――