超B(L)級 ゾンBL - 君が美味しそう…これって○○? -
後日談 - 1 -
幸運な出会い
第二海ほたるを脱出した後、広海とレオは数日間ラブホテルに身を潜め、その後はしばらく池袋のベースに籠っていた。
冬の最中に新居を探す気力はなかったし、ベースには回収してきたバイクを改造するための環境も、人手も揃っている。
バイクは長距離移動に備え、車体の脇に車輪つきの荷台を据えつけ、着脱できるサイドユニットへと組み替えられた。旧世紀の軍残車両と現代メカニックが融合したようなシルエットが、広海も気に入っている。
レオは渋谷の要塞の後始末などで単独行動が多く、その間、広海が安全に隠れていられる場所としても、ベースは都合が良かった。
それに広海は、九龍城砦めいた退廃的空気を醸すベースが、嫌いじゃなかった。
見知った顔ぶれも多く、最低限の規律と衣喰住の保証があり、温もりを湛えた地下室には、そのまま根を下ろしてもいいと思えるほどの静けさがあった。
だが、レオはやはり集団生活を好まなかった。
春の兆しが訪れるのを待ち、二人はベースを出て行くことにした。
別れを惜しまれたのは、主にレオだ。
彼はどこへ行っても磁場のように注目される。広海以外には素っ気なく塩対応だが、女も男も、隙あらば彼の傍に侍りたがるのだ。
本人は鬱陶しそうにしているが、秋波を向けられるレオを見るのは、広海としても面白くなかった。彼は、広海の恋人なのだから。
実は、密かに嫉妬していたので、ベースを離れることに寂しさを覚える一方で、ほっとする気持ちもあった。
二〇九七年三月一四日。感染二〇七日目。
朝はまだ冷えるが、気温はだいぶ暖かくなってきた。日中は半袖でもいいくらいだが、今日はバイクで風を切るので、広海もレオも、襟つきのライダージャケットを着ている。
二人は、サイドユニットを連結した改造バイクに乗り、新しい住処を求めて走りだした。
「どうせなら、海が見える場所がいい」
広海の一言で、進路は南へと傾いた。
池袋を抜け、新宿の外縁をかすめ、渋谷を過ぎて南下していく。
首都高速・三号渋谷線へ入り、荒れた高架を一気に海側へ向けて走り抜ける。
大井ふ頭が見え始める頃、空気には仄かな潮の匂いが混じりはじめた。
静まり帰った倉庫街、動かないコンテナクレーン、乗り捨てられた車の群――置き去りにされた文明が、春の陽光のなかでひっそりと沈黙していた。
そこから湾岸線へと乗り継ぎ、無人のベイブリッジを遠望しつつさらに南下すると、海はようやく、真正面から二人を迎えた。
レオの判断で、横浜の中心部は避けることにした。
まだ生存者が潜んでいる可能性のある大都市は、広海にとっても避けたい領域だった。
池袋のベースでは地下に籠っていた反動で、海が見たいと思ったものの……いざ水平線を眺めると、第二海ほたるの嫌な記憶が蘇ってきた。
沈んだ気配を、レオは風の流れでも読むように察したのかもしれない。
急に海岸線を外れ、三浦富士の丘陵を横断する内陸のルートへと舵を切った。
森に入り、そのまま一時間前後、ひんやりとした木陰の道を走った。頭上では大樹の枝が絡みあい、折り重なる葉の隙間から、木漏れ日が小粒のダイヤモンドみたいに煌めいていた。
のどかで美しい農道を走るうちに、広海の心は癒され、穏やかに凪いでいった。
やがて空気が再び潮の匂いを帯びてくると、レオはスロットルをわずかに緩めた。
樹々の回廊を抜けた瞬間、視界いっぱいに水平線が煌めいた。
白い波頭。誰もいないヨットハーバー。富士山が、驚くほど大きく見える。
景勝に定評ある葉山一色海岸は、どこか絵画めいており、広海はようやく第二海ほたるの残響を振り払えた気がした。
「絶景だね!」
声をあげると、レオも「そうだな」と笑った。
ノンストップで走る道路は気持ちがいい。観光名所なだけあり、パノラマで拝める海の眺望は最高だ。
陽も暮れてきたので、その日は海岸沿いの温泉旅館で一泊することにした。
といっても、もてなしてくれる中居も女将もいない。
無人の旅館は、ありがたいことにガスも水道も使えた。電気は故障していたが、万能なレオが直してくれた。
薄闇に沈む脱衣所には、砂埃の積もった桶と、誰かが最後に触れたままのタオルが残され、がらんとしていた。
誰もいないが、露天風呂は生きていた。
白い湯気が揺らぎ、山影のほつれた縁から、溶けた夕焼けが流れ落ちてくる。
湯面にふわりと映る自分の顔が、広海にはどこか夢のように感じられた。
レオも、持ちこんだ酒を片手に、風に吹かれながら沈む夕陽を眺めていた。
湯からあがる頃には、旅館の外はすっかり宵闇に沈んでいた。
照明の落ちた廊下を歩き、埃の匂いが幽かに漂う広い和室に 戻ると、なんとも風情ある景色が待っていた。
窓の向こうでは、月が海を銀斑に照らし、涼しげな波音が規則正しく寄せては返している。
広海はバックパックを漁り、携帯喰のビスケットを取りだした。
それほど空腹というわけではないが、気分的に一日の終わりは何か口に入れておきたかった。
温まった躰で畳に腰をおろし、簡素な喰糧を噛みしめる。
一方レオは、籐の安楽椅子に腰かけ、電子煙草を吸いながら、広海の様子をじっと見ていた。
「……それで足りるのか」
「うん。今日はこれでいいよ」
喰べ終えて満足げに広海が答えると、レオはふっと笑った。
喉の奥で転がるようなその笑いは、いつも広海の心臓を薄く震わせる。
「安上りでいいな……けど、俺は違う」
レオは、吸い殻を携帯灰皿にしまい、立ちあがると、影のように近づいてきた。
畳の軋む音が、静かな部屋の空気をゆっくり撓ませた。
彼にも喰餌が必要だ。広海は、自分から顔をあげた。
レオが屈んで、広海の頬に触れた。
湯あがりで火照った肌に、彼の指先はひんやりと冷たく感じられた。
「……キスしたい」
返事をする前に、もう唇が塞がれていた。
吸われるというより、丹念に味を拾われていく。
「ん……」
舌先が触れあうたびに、胸の奥がきゅ、と跳ね、湯気の名残がまだ体内で揺れているようだった。
レオが粘膜越しに摂るそれは、血でも肉でもない。広海の躰が作りだす、彼にとっての燃料だ。
優しく舌を搦め捕られ、溢れる唾液を啜られるたび、広海の体温はどうしようもなく上昇していく。
このまま押し倒されるかと思ったが、レオは唇をほどいて身を引いた。広海は息を整えつつ、問いかけるようにレオを見つめた。
「……サンキュ、これで明日も頑張れる」
「うん……ふぅ」
ほほえんだ広海の息は、まだあがっている。
「明日もバイク乗るし、さっさと寝るか……にしてもロミ、息継ぎ苦手だよなぁ」
からかうようにレオが笑う。広海は口を尖らせて、視線を逸らした。
「……レオが慣れすぎなんだよ」
「ンなことねーよ、ロミだけだよ」
立ちあがりかけていたレオは、傍に身を寄せ、額をそっと触れあわせて囁いた。
「……マジだからな? ロミは俺のすべてだ」
その声が、ひどく正直で。
広海は返答に詰まった。どう答えようか迷っていると、レオは今度こそ立ちあがり、押し入れから布団を引っぱりだした。くんと鼻を鳴らし、
「そんなに黴臭くねぇな。ま、今夜だけだから我慢しろよ」
「平気だよ」
二人分の布団を敷くのを、広海も手伝った。
誰も訪れることのない旅館の布団は湿り気を帯びていたが、広海には、むしろ懐かしい温度に思えた。
「布団って、久しぶりだなぁ」
渋谷の要塞も池袋のベースもベッドで眠っていたので、畳に布団の組みあわせは、渋谷のバー以来だ。
レオも同じことを思ったのだろう。懐かしいな、と言って笑う。
敷かれた布団に潜りこむと、畳の匂いと、海の音が胸の奥に響いてきて、旅情を掻き立てられた。
「電気消すぞ?」
「うん」
レオも隣に横たわり、広海の額にそっと手を置いた。
「……部屋でる時は、起こせよ?」
「はい」
電気を消して部屋が暗くなると、広海はそっと瞼を閉じた。
快い疲労感に浸されて、眠気はすぐに訪れた。
海風が揺らす窓の隙間音が、ふたりを包む子守唄のように流れていた。
*
翌朝、薄曇りの空に海霧が薄く漂っていた。
旅館の前でエンジンをかけると、冷えた空気を割って音が鋭く走り、静かな浜に反響した。
「菜島の鳥居でも見に行くか」
思いついたようにレオが言って、広海も頷いた。
自由気儘な二人旅だ。いつでも、どこへでも、好きなところに行ける。
人気のない海沿いの道路は、かつて観光客で溢れたはずの風景を、まるごと剥ぎ取られたように無音だった。
罅割れた歩道、潮に焼かれたガードレール、色褪せた看板――すべてが、無人のまま時間に晒されていた。
逗子方面に向かって湾岸道路を走ってしばらく、大きな看板のある自動販売機群が見えてきた。
立ち止まって休憩するには、うってつけの場所だ。
バイクを停め、レオが辺りを警戒する間に、広海は販売機で炭酸飲料を買った。
残念ながら常温だが、口に含むと、炭酸の刺激が喉をひやりと撫でた。
ふと、視線を感じた。
胸が幽かにざわめき、広海は慎重に、ゆっくりと周囲を見渡した。
すると看板の影に、さらに黒い影が沈んでいた。
「あれっ、犬がいる」
思わず声をあげると、影はゆっくり立ちあがった。レオも気がついて傍にやってきた。
大きな長毛の黒犬が、しっぽを振っている。
ガリガリに痩せて薄汚れているが、星屑を溶かしたみたいに輝く、優しい瞳をしていた。
広海がそっと屈むと、犬はふんふんと鼻を鳴らし、掌の匂いを嗅いできた。
ほんの一瞬、その温もりが胸の奥に灯った。
「きったねー犬だな」
無慈悲なレオの言葉にも、犬は彼に向けて嬉しそうに尻尾を振った。
「首輪してないけど、飼い犬だよね……こんなに人懐っこいし。飼い主、もういないのかな」
四方を見渡しても、返ってくるのは潮風と錆びた看板の軋む音だけだった。
「お前、なんでこんな所にいるの?」
なんだか愉快な気分になって、撫でながら問いかけた。
「あんま触るなよ。汚れるぞ」
低く制するレオを無視して、広海は、犬の耳をそっと撫でた。黒犬は目を細め、広海の指へ顔を押しつけてくる。
「俺達、家探ししてるんだよ。お前も一緒に来る?」
「ワン!」
「は?」
犬は乗り気なようだが、レオは威嚇めいた声を発した。広海は屈みこんだまま、長身の相棒を振り仰いだ。
「この子、連れてっていい?」
「いや、ダメだろ」
「なんか、運命感じたんだよ……ほら、LUCYって書いてある看板の下にいたし。この子、幸運のワンコだよ」
「いや、LUCYな。LUCY Energy、昔流行った危ねぇエナドリの名前」
「え、そうなの? 俺、飲んだことない」
広海はこれまでの人生で、滋養剤というものを飲んだ経験がなかった。
「俺は何回かある。バーによく置いてあってな……ま、ロミには敵わねぇけど」
意味深長にレオが笑った。
「どういう意味かな?」
広海が笑顔に圧をこめて聞き返すと、レオはふいっと視線を逸らした。
気を取り直して、広海は黒い犬に視線を戻した。
「でも、なんか……ラッキーって感じなんだよね。お前のこと、ラッキーって呼んでいい?」
「ワンッ」
「おー、言葉判ってるみたい」
「……マジかよ」
レオは当惑したように前髪をかきあげた。
「レオ、この子も連れていきたい」
図らずも上目遣いで懇願すると、レオは顔をしかめた。
「……そのクソ汚ねー犬をバイクに乗せるのかよ」
嫌そうに呟きながらも、声はどこか諦めの色を含んでいた。
「俺のシャツでくるんで抱っこするよ。バイクの掃除も俺がするから」
この改造バイクなら、広海と犬一匹くらい余裕で運べる。とはいえ、レオが大事にしてる愛機だということは、広海もよく判っていた。
「……どうせなら、もっと使える番犬にしようぜ。虎とか狼とか」
説得を試みるレオに、広海は胡乱げな目を向けた。
「やだよ、怖いじゃん。ってか犬じゃないし」
「ソレがいいわけ?」
「ラッキーがいい」
「……ルーシーな。まぁ、雄っぽいし……ラッキーでいいか……………………判ったよ」
「ありがとう!」
広海は立ちあがって、レオにぎゅっと抱きついた。彼も抱きしめ返してくれたが、くんくんと鼻を鳴らした。
「犬くせー……どっか風呂のある場所、探さねぇと」
そのとき、広海の視線の先に、新居の幟が揺れているのが見えた。レオの袖を引いて指さす。
「あれ、住宅展示場の幟かな? 行ってみる?」
レオはしばらく黙ってその方向を見つめ、やがてゆっくり頷いた。
「……行ってみるか」
「ワン!」
返事より早く吠えるラッキーに、広海は思わず口元を緩めた。
「ラッキーも行きたいって」
「てめーは風呂場直行だ」
レオはラッキーを鋭く睨んだが、その瞳には――幽かに、笑いの影が宿っていた。
冬の最中に新居を探す気力はなかったし、ベースには回収してきたバイクを改造するための環境も、人手も揃っている。
バイクは長距離移動に備え、車体の脇に車輪つきの荷台を据えつけ、着脱できるサイドユニットへと組み替えられた。旧世紀の軍残車両と現代メカニックが融合したようなシルエットが、広海も気に入っている。
レオは渋谷の要塞の後始末などで単独行動が多く、その間、広海が安全に隠れていられる場所としても、ベースは都合が良かった。
それに広海は、九龍城砦めいた退廃的空気を醸すベースが、嫌いじゃなかった。
見知った顔ぶれも多く、最低限の規律と衣喰住の保証があり、温もりを湛えた地下室には、そのまま根を下ろしてもいいと思えるほどの静けさがあった。
だが、レオはやはり集団生活を好まなかった。
春の兆しが訪れるのを待ち、二人はベースを出て行くことにした。
別れを惜しまれたのは、主にレオだ。
彼はどこへ行っても磁場のように注目される。広海以外には素っ気なく塩対応だが、女も男も、隙あらば彼の傍に侍りたがるのだ。
本人は鬱陶しそうにしているが、秋波を向けられるレオを見るのは、広海としても面白くなかった。彼は、広海の恋人なのだから。
実は、密かに嫉妬していたので、ベースを離れることに寂しさを覚える一方で、ほっとする気持ちもあった。
二〇九七年三月一四日。感染二〇七日目。
朝はまだ冷えるが、気温はだいぶ暖かくなってきた。日中は半袖でもいいくらいだが、今日はバイクで風を切るので、広海もレオも、襟つきのライダージャケットを着ている。
二人は、サイドユニットを連結した改造バイクに乗り、新しい住処を求めて走りだした。
「どうせなら、海が見える場所がいい」
広海の一言で、進路は南へと傾いた。
池袋を抜け、新宿の外縁をかすめ、渋谷を過ぎて南下していく。
首都高速・三号渋谷線へ入り、荒れた高架を一気に海側へ向けて走り抜ける。
大井ふ頭が見え始める頃、空気には仄かな潮の匂いが混じりはじめた。
静まり帰った倉庫街、動かないコンテナクレーン、乗り捨てられた車の群――置き去りにされた文明が、春の陽光のなかでひっそりと沈黙していた。
そこから湾岸線へと乗り継ぎ、無人のベイブリッジを遠望しつつさらに南下すると、海はようやく、真正面から二人を迎えた。
レオの判断で、横浜の中心部は避けることにした。
まだ生存者が潜んでいる可能性のある大都市は、広海にとっても避けたい領域だった。
池袋のベースでは地下に籠っていた反動で、海が見たいと思ったものの……いざ水平線を眺めると、第二海ほたるの嫌な記憶が蘇ってきた。
沈んだ気配を、レオは風の流れでも読むように察したのかもしれない。
急に海岸線を外れ、三浦富士の丘陵を横断する内陸のルートへと舵を切った。
森に入り、そのまま一時間前後、ひんやりとした木陰の道を走った。頭上では大樹の枝が絡みあい、折り重なる葉の隙間から、木漏れ日が小粒のダイヤモンドみたいに煌めいていた。
のどかで美しい農道を走るうちに、広海の心は癒され、穏やかに凪いでいった。
やがて空気が再び潮の匂いを帯びてくると、レオはスロットルをわずかに緩めた。
樹々の回廊を抜けた瞬間、視界いっぱいに水平線が煌めいた。
白い波頭。誰もいないヨットハーバー。富士山が、驚くほど大きく見える。
景勝に定評ある葉山一色海岸は、どこか絵画めいており、広海はようやく第二海ほたるの残響を振り払えた気がした。
「絶景だね!」
声をあげると、レオも「そうだな」と笑った。
ノンストップで走る道路は気持ちがいい。観光名所なだけあり、パノラマで拝める海の眺望は最高だ。
陽も暮れてきたので、その日は海岸沿いの温泉旅館で一泊することにした。
といっても、もてなしてくれる中居も女将もいない。
無人の旅館は、ありがたいことにガスも水道も使えた。電気は故障していたが、万能なレオが直してくれた。
薄闇に沈む脱衣所には、砂埃の積もった桶と、誰かが最後に触れたままのタオルが残され、がらんとしていた。
誰もいないが、露天風呂は生きていた。
白い湯気が揺らぎ、山影のほつれた縁から、溶けた夕焼けが流れ落ちてくる。
湯面にふわりと映る自分の顔が、広海にはどこか夢のように感じられた。
レオも、持ちこんだ酒を片手に、風に吹かれながら沈む夕陽を眺めていた。
湯からあがる頃には、旅館の外はすっかり宵闇に沈んでいた。
照明の落ちた廊下を歩き、埃の匂いが幽かに漂う広い和室に 戻ると、なんとも風情ある景色が待っていた。
窓の向こうでは、月が海を銀斑に照らし、涼しげな波音が規則正しく寄せては返している。
広海はバックパックを漁り、携帯喰のビスケットを取りだした。
それほど空腹というわけではないが、気分的に一日の終わりは何か口に入れておきたかった。
温まった躰で畳に腰をおろし、簡素な喰糧を噛みしめる。
一方レオは、籐の安楽椅子に腰かけ、電子煙草を吸いながら、広海の様子をじっと見ていた。
「……それで足りるのか」
「うん。今日はこれでいいよ」
喰べ終えて満足げに広海が答えると、レオはふっと笑った。
喉の奥で転がるようなその笑いは、いつも広海の心臓を薄く震わせる。
「安上りでいいな……けど、俺は違う」
レオは、吸い殻を携帯灰皿にしまい、立ちあがると、影のように近づいてきた。
畳の軋む音が、静かな部屋の空気をゆっくり撓ませた。
彼にも喰餌が必要だ。広海は、自分から顔をあげた。
レオが屈んで、広海の頬に触れた。
湯あがりで火照った肌に、彼の指先はひんやりと冷たく感じられた。
「……キスしたい」
返事をする前に、もう唇が塞がれていた。
吸われるというより、丹念に味を拾われていく。
「ん……」
舌先が触れあうたびに、胸の奥がきゅ、と跳ね、湯気の名残がまだ体内で揺れているようだった。
レオが粘膜越しに摂るそれは、血でも肉でもない。広海の躰が作りだす、彼にとっての燃料だ。
優しく舌を搦め捕られ、溢れる唾液を啜られるたび、広海の体温はどうしようもなく上昇していく。
このまま押し倒されるかと思ったが、レオは唇をほどいて身を引いた。広海は息を整えつつ、問いかけるようにレオを見つめた。
「……サンキュ、これで明日も頑張れる」
「うん……ふぅ」
ほほえんだ広海の息は、まだあがっている。
「明日もバイク乗るし、さっさと寝るか……にしてもロミ、息継ぎ苦手だよなぁ」
からかうようにレオが笑う。広海は口を尖らせて、視線を逸らした。
「……レオが慣れすぎなんだよ」
「ンなことねーよ、ロミだけだよ」
立ちあがりかけていたレオは、傍に身を寄せ、額をそっと触れあわせて囁いた。
「……マジだからな? ロミは俺のすべてだ」
その声が、ひどく正直で。
広海は返答に詰まった。どう答えようか迷っていると、レオは今度こそ立ちあがり、押し入れから布団を引っぱりだした。くんと鼻を鳴らし、
「そんなに黴臭くねぇな。ま、今夜だけだから我慢しろよ」
「平気だよ」
二人分の布団を敷くのを、広海も手伝った。
誰も訪れることのない旅館の布団は湿り気を帯びていたが、広海には、むしろ懐かしい温度に思えた。
「布団って、久しぶりだなぁ」
渋谷の要塞も池袋のベースもベッドで眠っていたので、畳に布団の組みあわせは、渋谷のバー以来だ。
レオも同じことを思ったのだろう。懐かしいな、と言って笑う。
敷かれた布団に潜りこむと、畳の匂いと、海の音が胸の奥に響いてきて、旅情を掻き立てられた。
「電気消すぞ?」
「うん」
レオも隣に横たわり、広海の額にそっと手を置いた。
「……部屋でる時は、起こせよ?」
「はい」
電気を消して部屋が暗くなると、広海はそっと瞼を閉じた。
快い疲労感に浸されて、眠気はすぐに訪れた。
海風が揺らす窓の隙間音が、ふたりを包む子守唄のように流れていた。
*
翌朝、薄曇りの空に海霧が薄く漂っていた。
旅館の前でエンジンをかけると、冷えた空気を割って音が鋭く走り、静かな浜に反響した。
「菜島の鳥居でも見に行くか」
思いついたようにレオが言って、広海も頷いた。
自由気儘な二人旅だ。いつでも、どこへでも、好きなところに行ける。
人気のない海沿いの道路は、かつて観光客で溢れたはずの風景を、まるごと剥ぎ取られたように無音だった。
罅割れた歩道、潮に焼かれたガードレール、色褪せた看板――すべてが、無人のまま時間に晒されていた。
逗子方面に向かって湾岸道路を走ってしばらく、大きな看板のある自動販売機群が見えてきた。
立ち止まって休憩するには、うってつけの場所だ。
バイクを停め、レオが辺りを警戒する間に、広海は販売機で炭酸飲料を買った。
残念ながら常温だが、口に含むと、炭酸の刺激が喉をひやりと撫でた。
ふと、視線を感じた。
胸が幽かにざわめき、広海は慎重に、ゆっくりと周囲を見渡した。
すると看板の影に、さらに黒い影が沈んでいた。
「あれっ、犬がいる」
思わず声をあげると、影はゆっくり立ちあがった。レオも気がついて傍にやってきた。
大きな長毛の黒犬が、しっぽを振っている。
ガリガリに痩せて薄汚れているが、星屑を溶かしたみたいに輝く、優しい瞳をしていた。
広海がそっと屈むと、犬はふんふんと鼻を鳴らし、掌の匂いを嗅いできた。
ほんの一瞬、その温もりが胸の奥に灯った。
「きったねー犬だな」
無慈悲なレオの言葉にも、犬は彼に向けて嬉しそうに尻尾を振った。
「首輪してないけど、飼い犬だよね……こんなに人懐っこいし。飼い主、もういないのかな」
四方を見渡しても、返ってくるのは潮風と錆びた看板の軋む音だけだった。
「お前、なんでこんな所にいるの?」
なんだか愉快な気分になって、撫でながら問いかけた。
「あんま触るなよ。汚れるぞ」
低く制するレオを無視して、広海は、犬の耳をそっと撫でた。黒犬は目を細め、広海の指へ顔を押しつけてくる。
「俺達、家探ししてるんだよ。お前も一緒に来る?」
「ワン!」
「は?」
犬は乗り気なようだが、レオは威嚇めいた声を発した。広海は屈みこんだまま、長身の相棒を振り仰いだ。
「この子、連れてっていい?」
「いや、ダメだろ」
「なんか、運命感じたんだよ……ほら、LUCYって書いてある看板の下にいたし。この子、幸運のワンコだよ」
「いや、LUCYな。LUCY Energy、昔流行った危ねぇエナドリの名前」
「え、そうなの? 俺、飲んだことない」
広海はこれまでの人生で、滋養剤というものを飲んだ経験がなかった。
「俺は何回かある。バーによく置いてあってな……ま、ロミには敵わねぇけど」
意味深長にレオが笑った。
「どういう意味かな?」
広海が笑顔に圧をこめて聞き返すと、レオはふいっと視線を逸らした。
気を取り直して、広海は黒い犬に視線を戻した。
「でも、なんか……ラッキーって感じなんだよね。お前のこと、ラッキーって呼んでいい?」
「ワンッ」
「おー、言葉判ってるみたい」
「……マジかよ」
レオは当惑したように前髪をかきあげた。
「レオ、この子も連れていきたい」
図らずも上目遣いで懇願すると、レオは顔をしかめた。
「……そのクソ汚ねー犬をバイクに乗せるのかよ」
嫌そうに呟きながらも、声はどこか諦めの色を含んでいた。
「俺のシャツでくるんで抱っこするよ。バイクの掃除も俺がするから」
この改造バイクなら、広海と犬一匹くらい余裕で運べる。とはいえ、レオが大事にしてる愛機だということは、広海もよく判っていた。
「……どうせなら、もっと使える番犬にしようぜ。虎とか狼とか」
説得を試みるレオに、広海は胡乱げな目を向けた。
「やだよ、怖いじゃん。ってか犬じゃないし」
「ソレがいいわけ?」
「ラッキーがいい」
「……ルーシーな。まぁ、雄っぽいし……ラッキーでいいか……………………判ったよ」
「ありがとう!」
広海は立ちあがって、レオにぎゅっと抱きついた。彼も抱きしめ返してくれたが、くんくんと鼻を鳴らした。
「犬くせー……どっか風呂のある場所、探さねぇと」
そのとき、広海の視線の先に、新居の幟が揺れているのが見えた。レオの袖を引いて指さす。
「あれ、住宅展示場の幟かな? 行ってみる?」
レオはしばらく黙ってその方向を見つめ、やがてゆっくり頷いた。
「……行ってみるか」
「ワン!」
返事より早く吠えるラッキーに、広海は思わず口元を緩めた。
「ラッキーも行きたいって」
「てめーは風呂場直行だ」
レオはラッキーを鋭く睨んだが、その瞳には――幽かに、笑いの影が宿っていた。