月狼聖杯記

8章:夜明けの鬨 - 1 -


 月蝕の夜がきた。
 深夜を告げる朝課の鐘が控えめに鳴ってからしばらく、ネロアの城塞は大伽藍だいがらんのように静まりかえっていた。
 最初に異変に気がついたのは、月狼に転じて、領地の鉄条網を見て回っていた哨戒部隊だった。彼等は疾駆の影となって領地をめぐり、やがて暗闇と渾然一体となった草原の彼方に、数百もの松明たいまつ を目にした。
『大王様のいった通りだ。夜襲だ!』
 彼等はすぐに狼煙をあげた。知らせは瞬く間に塔から塔へと伝播し、ついにベルタルダ城の城壁に立つ歩哨が、暗闇に立ち昇るきらきらとした白い筋を視界に捉えた。
 敵襲を知らせる角笛が鳴り響き、夜空に向かってけたたましい鏑矢かぶらや が放たれた。
 突然の襲撃にも関わらず、城にいる殆どの兵は武装して出撃に備えていた。
 彼等は、シェスラの予言が的中したことに感銘を受けながら、同時に寒気を覚えていた。予言が的中したということは、これから万もの軍勢が、ここへ押し寄せてくるということだ。

 夜半にも関わらず、廊下にはものものしい音が鳴り響いている。
 シェスラとラギスも出兵の身支度を整え部屋をでた。
 ラギスは、上は肌着に藺草いぐさ を編みこんだ胴着一つで、黒袴の裾を軍靴にたくしこみ、長剣を背負っている。一兵卒のようななりをしているが、ジリアンはきちんと彼のために甲冑を用意していた。ラギスが邪魔だと拒んだのである。
 総大将のシェスラも、そう華美な格好はしていない。銀髪を高く結いあげ、機動性の高い細身の戦闘服に、交差した双剣を背負い、椿の金釦きんぼたんつらねた外套を羽織っている。しかし宝冠や王笏おうしゃくがなくとも、四騎士に囲まれ凛と歩く姿は、立華のような艶と威があった。
 彼は、余裕に満ちた好戦的な表情で、隣を歩くラギスを見た。
「夜襲なら有利と思ったか。たった一万で私の首を捕るつもりとは、随分と舐められたものだ」
「攻城戦だというのに、あんたの奇怪な陣のせいで、こっちの守りはせいぜい三千だぞ」
 ラギスは厳しい顔と声でいったが、シェスラは不敵に笑った。
「狙い通りだ。わざわざ遠路からきてくれたのだから、歓迎しなくてはな」
「この大事な時に、インディゴは何をしているんだ?」
 シェスラは口の端をもちあげた。
「じきに会える。彼には、地下迷宮を通じてふくした兵の指揮を任せてある」
 ラギスは驚きに目を瞠った。
「……そいういうことか!」
 どうもおかしいと思いつつ、ラギスはこの時まで地下迷宮に敵を誘いこむのだとばかり思っていた。まさか兵の移動に使うとは!
 そうと判れば、これまでの疑問に合点がいくが、新たな疑念が浮かんだ。
「なぜ隠していた?」
 咎めるようにラギスはいった。
「悪く思うな。間諜が紛れていることは判っていたからな。味方にも情報を伏せておく必要があった」
「……」
 不服そうに黙るラギスの背中を、シェスラは宥めるように軽く叩いた。
「そう怒るな。そなたを信用していないわけではない。万全を期したかったのだ」
 シェスラに悪気はなく、それどころか想いの籠った声でいったが、その言葉はラギスの胸に突き刺さった。だが信用を失ったと被虐に感じるのも、心臓から血が流れたように感じるのも、全て自業自得だ。
 今は感傷に浸っている場合ではない――ラギスは鼻を鳴らし、当然のように後ろをついてくるジリアンを振り返った。目を瞠る少年を見て、
「お前は残れ」
 ジリアンは驚きに目を瞠ると、すぐに凛々しい顔つきでいった。
「どうか私もお連れください。きっとお役に立ってみせます」
「それは判っているが、今夜は状況が悪い。視界も足場も最悪だ。お前はここに残れ」
「戦えます!」
 ジリアンは勇をふるって叫んだ。智天使のような外貌をしているが、澄んだ翠瞳すいとうに迷いは微塵もなく、猛々しいとすら呼べる戦意を宿している。少年の心意気を清々しく思いながら、ラギスは首を振った。
「駄目だ」
「ラギス様!」
「今でなくてもいいだろう。今回は我慢しろ」
「お願いします! どうか私をお連れくださいッ」
 ジリアンは懇願した。その訴えるような表情を見て、ついにラギスは顔に躊躇いを浮かべた。主従の攻防を、シェスラと四騎士達は興味深そうに眺めている。
「いいんじゃない? 本人がいっているんだから、連れていってあげたら?」
 軽い調子でラファエルが口を挟んだ。ラギスは渋面をつくったが、逡巡し、承諾のため息を吐いた。
「……判った。一緒にこい」
 素っ気ない言葉であったが、ジリアンは翠瞳すいとうをきらきらと輝かせた。
「はいっ! お任せください、ラギス様っ!」
 喜ぶジリアンの肩を、ラファエルは親しげに叩いた。ジリアンもほほえみ返したが、まだ思案げな顔をしている主を見て、気を引きしめ、彼の次の言葉を待った。
「視界も足場も悪いぞ。数人を相手にするわけじゃない、死ぬんじゃないぞ」
「肝に銘じておきます」
 その声は真剣そのものだった。
 やりとりを聞いていたシェスラは、ひっそりと口もとを笑みに和らげた。ジリアンをラギスの従卒にして正解だった。繊細な美貌に教養と明敏な洞察力、騎士の素養を兼ね備え、剣技も申し分ない。何より、ラギスに心酔している。心を惹かれ、絶えず念頭に置き、賛美と愛と畏敬とを感じている。戦場ではよく主を助けるだろう――自分の忠実な四騎士のように。
 一行が中庭へでると、兵士が慌ただしく行き来していた。
 警鐘と喇叭らっぱ が鳴り響き、武具の擦れ合う金属音、野太い雄たけびが響いている。部隊が次々と所定の位置についているのだ。
 胸壁に向かう途中、戦斧せんぷを両手にしたロキが現れた。大半の男達よりも頭ひとつぶん背が高く、肩は筋肉で盛りあがっている。
「ロキ、こい」
 シェスラに呼ばれて、ロキはすぐに駆けてきた。
「大王様」
「ラギスと共に狭間城壁さまきょうへきを固守しろ」
 追従するつもりでいたラギスは驚いた。虚を突かれたように唖然とするラギスを見て、シェスラは鋼のような視線でいった。
「そなたには、アレクセイと手練れの最強部隊を預ける」
「あんたはどうする?」
 シェスラは不敵に笑った。
「当然、ふくした兵と合流する」
「数は?」
「五百だ」
 ラギスの顔に浮いた疑問を見て、シェスラは笑った。
「一騎当千にも匹敵するセルトとネロアの精鋭五百だ。それに、王手をかける為に五千の兵を伏してある」
 かっとなったラギスは、思わずシェスラの腕を掴んだ。
「ギュオーはいないんだぞ! 案内もなく、あの糞長い通路を抜ける気か?」
「構造は記憶している。それにモルガナとラハヴにも先導させる。陽が昇るまでには決着をつけるぞ」
 シェスラはラギスの頬に手をあてた。水晶の瞳でじっとラギスを見つめる。
「敵の目を引きつけて、城壁を固守しろ。敵の主力部隊がいよいよ総攻撃を仕掛けたら、私も動く」
「俺もいく」
「そなたはここに残れ」
 ラギスはぐっと唇を噛みしめた。
「俺はあんたの近衛じゃないのか」
「だからこそ要衝を任せるのだ。城塞が落ちては、これからの私の働きは水の泡にす。あたう限りの力でここを守れ」
「勝算はあるのか?」
 シェスラの水晶の瞳に鮮烈な光が灯った。腕を伸ばし、ラギスの頬を両手で包みこんだ。
「あるに決まっている。私を誰だと思っている?」
「だが――」
「敵が完全に間合いに入るまで、私は号令をかけない。その間、要塞は猛攻を受けるだろう。北の城壁は一番の難所になる。危ないと思ったら迷わず下がれ」
「あんたこそ、」
 気をつけろ。そう口にしようとして、ラギスは言葉に詰まった。ギュオーは未だ意識が戻らず、月は翳り、敵はすぐそこに迫っている。戦況を困難にしたことへの詫びは、行動で示すしかない。それはシェスラの傍で盾になることだと思ったが――
「そなたに武運を」
 シェスラは穏やかな眼差しでラギスを見つめていった。
「ああ……」
 ラギスもじっと見つめ返し、シェスラの後頭部に手を回した。そっと引き寄せ、額と額を擦りあわせた。今この瞬間、彼に対する複雑に絡まった想いは静まり、鮮明で強烈な感情、てしなく純粋な想いしかなかった。
 死ぬな。
 戻ってこい。
 武運を祈る。
 不義に報いなければならない。ギュオーやラハヴ、ガルシア、モルガナ……シェスラのために。ラギスの血と名誉のために。
 ここを守れというのなら、命に代えても固守してみせる。王の剣となり、全てのアレッツィア兵を薙ぎ払ってみせる。
「……判っている」
 シェスラは静かに囁いた。
 ラギスが目を開けた時、どこまでも澄んだ水晶の眼差しが、ラギスを映していた。魂の共鳴を感じながら強い視線をかわし、二人は別れた。