月狼聖杯記

4章:月光の微笑 - 4 -

 あれ以来、シェスラは寝室にやってこない。
 一度だけ、扉越にジリアンからおとないを訊かれたが、驚くことに断ることを赦された。
 王は、ラギスの混乱が落ち着くのを待ってくれているらしい。
 気遣いは有難いが、シェスラのせいで頭を悩ませている現状を考えると、感謝するのは筋が違うように思う。
 彼を知れば知るほど、憎めなくなっていく。
 ずっと国を恨んできた。
 王こそが諸悪の根源と信じて、血反吐に塗れた奴隷生活を耐えてきた。怒りこそが、ラギスの言動力だった。生きる道標みちしるべですらあった。
 それなのに――いつからだろう?
 シェスラに対する復讐の焔が翳ったのは……彼に向かう感情が変わり始めたのは……
 考えだすと止まらない。あの雨に濡れた夜には、彼に対する怒りは殆どなかったようにも思う。
(判らん……)
 復讐、聖杯の惨めさ、増悪、恋情――混沌とした、重たい感情に苛まれ、ラギスの心は疲弊していた。
 結果、自棄やけになっている。
 昼間から寝台に寝そべり、の蒸留酒を煽って酩酊している。褒められた行為ではないが、煩くいう者はいない。
 月狼になって、外を走りたい欲求に駆られることはあるが、部屋をでてシェスラやジリアンと顔をあわせるのは気まずかった。
 復讐という最大の道標が揺らぎ、ラギスにはもう、何も残っていなかった。
 無為に日々は過ぎゆく。
 全てが無意味に思われた。何をするにも億劫で、ただ部屋に引き籠って過ごした。
 一方で、シェスラは鋭意的に動いていた。
 先ず、セルト国内の治安を徹底的に安定させた。遠征の間に沸いた不穏な芽を摘み取り、山岳より内側の領土を完璧に支配することに成功した。
 更に、長期遠征に向けて、自国に害をなす謀反勢力が沸かぬよう、山向こうまで頻繁に巡視隊を送りだした。ドミナス・アロから近い二つの領地は、シェスラ自身が兵を率いて押収した。
 空虚な日々の中、七日ぶりに巡察からシェスラが還ってきた。
 彼は城に戻るなり、ラギスがまだ閉じこもっていると聞いて、旅塵りょじんも落とさずラギスの部屋の扉を叩いた。待っても返事がないと、扉を開けて、寝台に酒瓶と共に横たわるラギスを見るなり眉をひそめた。
「街へ降りる。そなたも一緒にこい」
「……一人でいけ」
「駄目だ。そなたに必要なものを用意してある。一緒にくるんだ」
 ラギスは悪態をついたが、シェスラは聞く耳を持たなかった。
 久しぶりに空の蒼さに目を焼かれながら、ラギスは不沈城グラン・ディオの外へでた。

 城塞都市であるドミナス・アロは、狭い石畳みの道が蟻の巣のように張り巡らされている。至るところに細い尖塔が突きあがり、一定の間隔を空けて歩哨が立っている。
 ラギスの足取りは重かった。長い外套で躰を覆っていても、匂いで正体を見破られる気がしてしまう。
 抜け殻のような躰でシェスラの後ろをついていったが、着いた先が鍛冶屋と知り、ラギスは訝しげに顔をあげた。
 それも流行りの店ではなく、熟練者が足を運ぶような、ひっそりと落ち着いた佇まいの店だ。
 シェスラは迷わず店の扉をくぐると、奥の作業机の前に立ち、店主を呼びつけた。
「……これはこれは、ようこそいらっしゃいました。大王様」
 厳めしい顔つきの店主は、シェスラを見て頭をさげた。
「胴衣を受け取りにきた」
 シェスラの言葉に、ラギスは眉をひそめた。問いかけるよに視線を投げるが、彼は前を向いたまま視線を逸らさない。
 店主は、奥の棚から品物をとって戻ってきた。分厚いかしの作業台に近づいて、ラギスは間近に品物を見た。
「……革か?」
 その軽んじる口調に店主は顔をあげた。
「革ですが、剣を通しません」
 ラギスは眉をひそめた。
「そんなわけあるか」
「お確かめください」
 店主は胴衣を身につけると、短剣をラギスに手渡した。正気を疑ったが、彼は平然としている。シェスラを見ると、やってみろ、というように顎をしゃくった。
「……本当に斬るぞ」
「どうぞ」
 店主が答える。半信半疑で、ラギスは内臓を外した部位を狙って刃を立てた。鈍い音はしたが、刃は革を突き破らなかった。
「へぇ!」
 驚きの声をあげるラギスを見て、シェスラは少し笑った。
「どうだ?」
「グルゥジャの革を、細い鋼で編んだ胴衣です。軽い上に、大抵の攻撃は通しません」
 店主は誇らしげにいった。
 グルゥジャは極めて獰猛な火蜥蜴だ。ラギスは改めて胴衣を観察した。なめらかで、着心地も良さそうだ。
「革の匂いがしないな……」
 藺草いぐさを摺りこんであるようで、清涼で、瑞々しい緑の香りがする。
「そなたの為にあつらえた」
「……」
 ラギスはまじまじとシェスラの顔を見た。
 図らずも見つめあい、焦ったように胴衣に視線を戻す。
 確かに、これなら汗を掻いても、ラギスの匂いをうまく隠してくれるかもしれない。
「それから、剣を」
 シェスラの言葉に、店主はもう一度奥に引っこむと、一口ひとふりの剣を持って戻ってきた。
 剣は、銀装飾の施された黒漆塗りの鞘におさめられており、銀色の佩環はいかんに翡翠の緒玉がさがっている。
「お前の剣だ」
「俺の?」
「そうだ。振りを確かめてみろ」
 すらりと刀身を抜く。ラギスの手にしっくりと馴染んだ。
 剣尖は、照明を弾いて煌いた。鍛え抜かれた鋼は力強く、魂を宿している。
 無双の名剣に違いない。
 めつすがめつ眺めて、つかにヤクソンの森を意匠されていることに気がついた。力強い振りながら、非常に繊細な銀装飾を施されている。模様を指でなぞりながら、脳裏に故郷が浮かびあがった。
 清涼な風が吹いて、森の香りが漂う。
 これは、ラギスの為の剣だ。
 誰かの使い古した剣でもなく、支給されたものでもない。ラギスの為に鍛えられた、唯一無二の剣。
「私は、そなたほど高潔な男を知らない」
 シェスラはラギスの瞳を見つめていった。
「……」
「そなたは、昔も今も少しも変わらない。誇り高い、ヤクソンの勇壮な戦士だ」
 重々しく威厳に満ちた、だが温かみを感じさせる声だった。
 剣に目を注ぎながら、ラギスは心の奥が熱く震えるのを感じた。
「その剣で、訓練に参加しろ。腕を磨け。研鑽を積めば、私に傷の一つでも負わすことができるかもしれないぞ」
 シェスラは意地悪く口角をあげたが、ラギスは少しも腹が立たなかった。それどころか……
 胸に沸き起こった感情を、どう説明すればいいだろう?
 敬意。
 或いは感謝?
 ありえない――だが、相手が諸悪の根源であったとしても、辱められた者は尊敬にかつえているのだ。
 心に負った傷口が潤うのを感じながら、ラギスは気づかないふりをして口を開いた。
「……いいだろう、訓練に参加してやるよ」