月狼聖杯記

3章:魂の彷徨い - 6 -

 夜になり、窓辺の椅子で醸造酒を煽っていると、部屋にシェスラがやってきた。ラギスが言葉を発する前に、王は対面の席に座ってしまった。
「私ももらおう」
 そういって、手酌で酒杯に注ぎ始めた。
「食事を食べなかったそうだな」
 優雅に酒杯を煽る姿を見ても、ラギスは何もいわなかった。
「具合はどうだ?」
「……俺をここからだせ」
「まだ早い。回復したら近衛に配属してやる」
 ラギスは相手の聴覚を疑うように、眉をひそめた。
「俺は城からだせといっているんだ」
「私が城の外へでる時は、ラギスもでていけるぞ。一緒にな」
「ふざけるな。俺を城からだす気がないなら、剣闘士に戻せ」
「酔狂だな。殺し合いの日々に戻りたいのか?」
「てめぇといるより遥かにマシだ」
 憎悪の視線を向けるラギスから、シェスラはそっと視線を逸らした。
 彼は、扉を叩く音に呼ばれて席を立った。召使を部屋に入れさせず、自ら銀盆を受け取るとラギスの傍に戻ってきた。
「食べやすいものを用意させた。好きなものがあれば、口にいれるといい」
 卓に盆を乗せるシェスラを、ラギスは胡乱げに見つめた。
「……親切のつもりかよ」
「弱っているつがいに、食事を与えようとしているだけだ」
「番つがいじゃねぇ」
 ラギスは喉の奥で唸った。
「食べたらどうだ?」
 そんな気分ではないと思ったが、旨そうな匂いを嗅いだ途端に、胃は猛烈に空腹を訴えてきた。
 ちょっとのあいだラギスは思案に暮れたが、食事に手を伸ばした。温かな根菜の汁を口に含んだ瞬間、手が止まらなくなった。
 食事をするラギスを、シェスラは目を細めて見つめている。
「何見てんだよ」
「よく食べるなと思って」
「気分悪ぃ、でていけよ」
 躰の向きをずらして、シェスラの視線に背を向けたが、彼はでていこうとしなかった。ラギスが食事を終えると、召使に卓を片づけさせ、数冊の本を持ってこさせた。
「退屈だろうと思って、本を見繕ってきた」
 飴色の皮表紙で綴じた立派な写本だ。なかを捲ってみて、ラギスは戸惑った。
 その心もとない表情を見て、シェスラは首を傾げた。
「どうした?」
「……文字は読めねェ」
 遠い昔、母や兄に文字を習ったはずなのだが、長い奴隷生活を送る間に、教養はすたれてしまった。
「なら教えてやろう」
 なんでもないことのようにシェスラはいった。ラギスは驚いて王の顔を見つめた。
「読めないなら、学べばいいのだ」
「……読める文字もある」
 素直に頷くのは気恥ずかしくて、ラギスはいいわけのようにつけ加えた。そうか、とシェスラは優しく頷く。
 丁寧で、温かみのある対応にラギスは戸惑った。
 疑問を捻じ伏せて、本に意識を注ぐ。絵の多い面白そうな本があり、なんとなく手にとってみた。
「……これは?」
「寺院の僧が描いているらしい。街で評判なので、取り寄せてみた」
「へぇ」
「読んでやろうか?」
 断らないラギスを見て、シェスラは絵と台詞について解説を始めた。じっと聞き入るラギスを見て、優しい月のように目を細める。
「何だよ?」
 居心地悪げにラギスは訊ねた。
「……いや」
 穏やかな表情を浮かべるシェスラを見ていられず、ラギスは視線を再び本に落とした。
 文字を目で追いかけながら、酒瓶を煽る。
 召使が気を利かせて、本と一緒に酒と肴を持ってきたのだ。卓の上には、酒瓶や塩漬けにした木の実、砂糖漬けにされた果物が並べられている。
 ラギスは手を伸ばして、杏を一つ摘まんだ。口に入れた途端に、懐かしい、砂糖の優しい甘味が口いっぱいに拡がった。
「そなたは判りやすいな」
 なんのことだ、とラギスが隣を見ると、シェスラは左右に揺れるラギスの尾を見つめていた。
「……悪いか」
 ラギスは照れ隠しにぶっきらぼうにいうと、尾の揺れをぴたりと止めた。
「いや、ちっとも。意外と甘いものが好きなんだな」
「……子供の頃は、砂糖づけの菓子が好きだった」
「そうか。なら、欠かさず部屋に用意させよう」
 シェスラは穏やかにいう。
 彼と日常会話が成立していることに、ラギスは気がついていなかった。
 ただ、懐かしい夜の団欒を思いだして、居心地の悪いような、くすぐったいような、よく判らない感情に心を乱されていた。