月狼聖杯記

2章:饗宴の涯て - 6 -

 逃げては捕まり、或いは王を殺そうとして捕まり、十二日が過ぎた。
 幾度となく逃亡を試みたが、結果は芳しくない。
 逃げる度に高価な部屋を破壊し、最終的に部屋の扉は鉄製の二枚扉に変わった。逃亡に比例して警備も増えている。
 首と足だけでなく、手首にも枷をつけられ、寝台の周辺しかうろつけなくなった。
 状況は最悪だ。
 常に皮膚のどこかしらに紫色の痣があり、関節のまわりは腫れあがっている。治療すると逃亡が活発になるので、最近はラギスが怪我を負っても、重症でない限り放置されている。
 それでも、ラギスは諦めなかった。
 拘束具を噛み、或いは壁に打ちつけ、獣化の速度を調整しつつ鎖に負荷を与える、地道な破壊行為を繰り返した。
 今もあと少しで引きちぎれそう、というところで部屋の外にシェスラの気配を感じた。
 四騎士を連れて部屋に入ってきたシェスラは、獣化を解くラギスを見て、呆れたようにいった。
「……またか」
「俺を自由にしろ」
「少しはじっとしていられないのか? 何度部屋を壊せば気が済むんだ?」
「うるせェッ」
 唸り声をあげるラギスを見て、白金の髪をした近衛、ヴィシャスは不愉快そうに眉をひそめた。
「このように粗忽な男が、本当に聖杯なのでしょうか?」
 さも疑わしげな問いに、シェスラは鷹揚に頷いてみせる。
「なかなか愉しませてくれるぞ」
「また部屋を移さなくてはいけませんね」
 青銀の髪を左右に編みこみ背中に垂らしている男、アレクセイは、破壊行為で散らかった部屋を見て、少し困ったようにいった。気安い口調を、今度もシェスラは咎めたりせず、ただ愉しそうに笑った。
「いっそ檻に入れてみようか。幾日で抜けだすか、賭けをしないか?」
 シェスラの提案に、知己の四騎士は顔を見あわせた。
 彼等は闘技場で王の傍に控えていた近衛達である。いずれも若く、王の麾下きか精鋭に相応しい美しい容姿をしている。
 ラギスが唸り声を発すると、ヴィシャスに剣の底で小突かれた。
「私の聖杯だぞ」
 シェスラは笑みを消して、ヴィシャスを咎めた。
「申し訳ありません」
 覇気で威圧する王に、ヴィシャスは態度を改めて、恭しくこうべをたれる。
 シェスラは視線をラギスに戻すと、壊れかけた首の鎖を見て蠱惑的にほほえんだ。
「少し時間が空いたから、様子を見にきたのだ。なかなか有意義に過ごしていたようだな?」
 カッと頭に血が上り、ラギスは白い頬めがけて唾を吐いた。
 瞬時に空気が凍りつく。
 四騎士は殺気を滲ませ、王に至っては禍々しい覇気を隠そうともしない。
「……いい度胸だ」
 シェスラは、可聴域ぎりぎりの低めた声で呻いた。
 全身から、氷のように冷たい覇気が溢れでる。気圧され、ラギスの額にびっしりと汗の玉が浮かんだ。
「そなたには、躾が必要なようだな?」
 穏やかな口調には、凶暴な、狂気じみた響きがあった。
 シェスラは手の甲で頬を拭うと、研ぎ澄まされた刃のような、凄艶な笑みを浮かべた。
 次の瞬間には、ラギスは寝台に押し倒されていた。
 圧倒的な覇気に、抗うことを許されない。端正な顔が降りてきて、のけぞるラギスの頬を舌で舐めあげる。
 征服される屈辱に、ラギスは金の瞳に怒りの焔を燃え上がらせた。
「やめ、ろォッ」
 襟をくつろげられ、素肌を嬲るように掌で撫でられる。
「私を満たせ、聖杯」
 組み敷かれ、こすれた乳首がじんと痺れた。
 服の胸の辺りに沁みができていることに気がついて、ラギスは唖然とした。
 強張った躰を不思議に思ったようで、シェスラはラギスの顔を覗きこんだ。視線の先を辿り、服の沁みを見て薄笑いを浮かべた。
「もう滲んできたのか。いやらしい躰だな?」
「……なんで……発情は終わったのに」
 呆然と呟くラギスの頬を、シェスラはことのほか優しく撫でた。
「発情に関わらず、霊液サクリアは生成される。定期的に零さないと、溢れてしまうというわけだ」
「!?」
「発情期に絞るだけでは、頻度が足りないらしい」
「つまり……てめェに、抱かれろと?」
 ぞっとするほど昏い声で訊ねるラギスに、シェスラは怜悧な笑みで応えた。
「何度いっても、そなたは理解できないようだ。聖杯ということを、嫌というほど思い知らせてやろう」
 冷酷な光が、水晶の瞳に灯る。訝しむラギスを、獲物を見る眼差しで射抜いた。
「私の忠実な騎士達は、そなたが聖杯であることを疑っている」
「は」
「証明してやろう」
 シェスラは優艶な笑みを、四騎士に向けた。
「……証明ですか?」
 アレクセイは穏やかな声で問うた。壮絶に嫌な予感がして、ラギスは唸り声を発した。
「何のつもりだ」
「我がしもべ、乳兄弟達に聖杯の味を教えてやるのだ」
「なッ!?」
 ラギスだけでなく、四騎士も己の聴覚を疑うように王を見た。シェスラだけが嫣然とほほえみ、いった。
「愚かな聖杯には、制裁が必要であろう? 自分が誰のものなのか、その躰に教えてやる」
 美しくも酷薄な笑みに、シェスラは全身の肌が総毛立つのを感じた。