月狼聖杯記

1章:王と剣闘士 - 6 -


 王が近づいてくる。
 離れていても、気配を感じる。香りが強くなっていく。
 衣擦れの音に顔をあげると、精緻な幾何学模様を意匠された、薄い金襴きんらんを羽織った王が現れた。
 王は、寝台の傍に立つラギスの全身を見て、ぞっとするほど美しい氷の微笑を浮かべた。
「ほぅ? 見違えたではないか」
 優美な首を傾げると、純銀製の耳環じかんから垂れさがる細い鎖が、涼しげな音を立てた。鎖に連なる暗紅色あんこうしょくの宝石がこの世のものとは思えぬ煌きを放つ。
 白磁を思わせる指に頬を撫でられ、ラギスは顔をしかめた。
「触るな」
 王に対するとは思えぬ悪態だが、シェスラは愉しそうに笑っている。
 ねやで拒絶されたことのない王にとって、敵意も露に威嚇してくるラギスは新鮮だった。
つがいなどいらぬと思っていたが、いざ目にすると、欲しくなるものだな」
 シェスラは、美しい顔をラギスに近づけた。青く澄んだ水晶の瞳に、ラギスが映りこんでいる。
「……俺を、本気でつがいにする気か?」
「そのつもりだ。私がそなたに惹かれるように、そなたも私に惹かれているはずだ」
 伸ばされる手を、ラギスは思い切り顔を背けて拒んだ。
「触るな!」
「寵を授けるといっているのだぞ」
「寝言は寝てからいえ。お前とつがうくらいなら、死んだ方がマシだ」
 唸り声をあげるラギスを見て、シェスラは口角をあげた。
「この私を拒むと?」
 ラギスは盛大に顔を顰めると、戒められた首の鎖を掴んで、シェスラに見せつけた。
「こいつを見ろよ! まるで家畜だ! こんな扱いをされて、つがう気になれる奴がこの世にいると思うか?」
「ふ、威勢がいいな」
 シェスラは蠱惑的にほほえむと、ラギスの方に身を乗りだした。烈しい怒りを覚えていたはずなのに、甘い香りに脳髄が痺れる。
「う、ぐ……ッ」
 ラギスは血が滲むほど唇を噛みしめ、意識を保った。
 これほど嗅覚が鋭敏になったのは、生まれて初めてだ。痺れるような匂いが空気に溶けて、咽の奥まで流れこんでくる。
「抗うだけ無駄だ。そなたは、私に捧げられる聖杯なのだから」
「ふざけるなッ」
 低く、罅割れた声でラギスは吠えた。シェスラは血の滲んだラギスの唇を、形の良い指でなぞった。
「ッ」
 唇に触れられただけで、ラギスの身体に熱いさざなみが走った。
「ラギス……」
 シェスラは、ラギスを見つめたまま、己の胸のあたりの留め金具を外した。さらり、肩から金襴が滑り落ちる。
 一糸まとわぬ裸身を見て、ラギスは息を呑んだ。
 これほど美しい肉体を、見たことがない。
 ほっそりして見えるが、決して軟弱ではない。しなやかで力強い、逞しい筋肉を纏っている。
 陰部のほかには体毛のない、天鵞絨びろうどのような肌は信じられないほど滑らかだ。
 男の裸を見て興奮したことなど、過去一度たりとてないが、この男の躰は賞賛に値する。
 窓から射しこむ月明かりを浴びて、長くまっすぐな髪も、滑らかな白い肌も、全てが銀色に輝いている。
 水晶の瞳と視線が絡んで、ラギスは低く喘いだ。空気が希薄になり、うまく呼吸ができなくなる。
 魔性の瞳だ。
 琥珀に全身を搦め捕られたかのように、動けなくなる。
 どうにか視線を剥し、少しでも寝台から遠ざかろうとするが、首輪の戒めに阻まれた。
「ッ」
 苛立ち、首の戒めを外そうと試みるが、硬質な音が煩く鳴るだけだった。
 シェスラは鎖を手繰り寄せると、ラギスを寝台の上に押し倒した。
「ごほッ、離せッ」
「断る」
「くそがッ」
 四肢に力をこめるが、振りほどけない。シェスラより遥かに屈強な身体をしているはずのに、力で押し負ける。
 許せないと思っているのに、それを凌駕する本能が、王に服従せよと囁きかけてくる。
「そなたのように屈強な雄を組み敷くのも、一興かもしれぬ」
 シェスラは嫣然とほほえんだ。銀糸の髪が滑らかな両の頬から零れて、ラギスの胸に落ちる。
「ッ」
 たったそれだけの刺激で、身体の芯が甘く痺れた。
 絹糸のような髪に触れてみたい。指を潜らせて、背中まで流れる髪を梳いてみたい……ありえない欲が頭をもたげて、ラギスは目を瞠った。
(今何を考えた?)
 しっかりしろ――そう思った傍から、シェスラの美貌と濃厚な色香に魅了されて、頭がぼぅっとなる。
「……どうした?」
 琺瑯ほうろうのような白い手に、頬を撫でられた。
「く、ぅ……」
 食いしばった歯の隙間から、唸り声が漏れた。
 いくら妖しい媚香を嗅がされたとはいえ、効果が凄まじすぎる。抵抗どころか、嬌声をあげずにいるのが精いっぱいだ。
 王とは、これほど抗い難い存在なのだろうか?
 頬を上気させ、瞳を潤ませているラギスを、シェスラは満足そうに見下ろしている。ゆっくりと美貌をさげて、ラギスの汗ばんだ首すじに沈めた。
「っ!?」
 甘い柑橘の匂いが鼻孔を擽る。首にシェスラの唇が触れて、頭の中が真っ白になった。
「……は」
 艶めかしい掠れた吐息に、心臓は早鐘を打つ。
 シェスラは身体を起こすと、ラギスの金色の瞳を覗きこんだ。水晶の輝きをもつ瞳の奥に、青い焔が揺らめいている。
 雄の瞳だ。
 信じられないが、触れあった下肢に昂りを感じる。この氷像のように美しい王は、ラギスに欲情しているのだ。