月狼聖杯記

12章:ラピニシア - 6 -

 開戦から半日。
 無窮むきゅうの曇天の切れ間から、陽が射した。
 瑞々しい今日一番の陽の光が、セルト陣営の旗を照らすなか、戦闘終了を告げる喇叭が高らかに鳴り響いた。
 次の瞬間、セルト陣営から勝利のかちどきがあがった。
 シェスラが剣を天に翳すと、さらに大きな、空を割るような大歓声が赤い雪原をどよもした。
偉大なる月狼の王ドミナス・アルファング!」
偉大なる必勝の戦神ドミナス・レビュテ・ソーマ!」
 口々に、若き王を大歓声で讃えている。
 陽に揺れる我らが旗を、この場にいる全将兵が目に焼きつけた。
 シェスラの眸が、ラギスを捕らえた。
 目が遭った瞬間、ラギスは心臓を鷲掴まれたような衝撃を覚えた。
 肌の下に流れる、聖杯の血が騒ぐ。王を讃えて、熱く滾っている。己が彼の聖杯であることに、悦びすら覚えていた。
 欣喜雀躍きんきじゃくやくする将兵らをかきわけ、ラギスはシェスの傍に駆け寄った。
 強い眼差しで互いを映し、かたく抱擁を結んだ。
 言葉はなくても、ここまでの過酷な道のりを共に乗り越え、成し遂げたのだという共感が滾々こんこんと湧いてくるようだった。
 進軍と登攀にニ月以上を費やしながら、実際に干戈かんかを交えた戦闘の正味時間は、半日にも満たなかったのは意外であったが、これもシェスラの用意周到な知略と戦術が功を奏したといえる。
 華々しい合戦のあとの聖地ラピニシアには、勝者たちの歓喜の雄叫びに交じって、負傷者たちの陰々とした呻き声に包まれた。
 深手を負った者のなかには、月狼の姿になり、茂みに消えていく者もいた。月狼の生存本能である。動ける気力があるうちは、獣の方が治癒力は増す。彼らは傷が癒えるまで、茂みや洞に身をひそめたりする。
 一方、獣化もできぬほど弱った者は、野戦病院に運ばれた。そこには血とうみの匂いが充満し、戦場と変わらぬ壮絶な光景が拡がっていた。
 そして、戦場に残されたおびただしい数のかばねの山。
 戦死した勇士たちの手は、折れた剣の柄を握ったまま硬直し、末期の苦悶に兜をかぶった頭をのけぞらせ、眼を天に向けている。
 彼等の戦女神に、最後の祷りを捧げているかのように見えた。
 このあとは、雪と血で溶けた泥濘でいねいの地に穴を掘り、死者を埋める重苦しい陰惨な作業が待っている。
 だが、今夜ばかりは祝宴が催された。
 周囲には目を覆いたくなるような惨劇が拡がっているが、日が暮れるにつれ、闇の帳が覆い隠した。
 焚火を囲む兵士達は、勝ち取った要塞で宴に興じていた。日中の惨劇が嘘のように、愉快げな哄笑や酔歌が反響している。
 今夜は無礼講で、早朝まで飲み明かすことになるだろう。
 大きな火床で、脂の乗ったしぎ鵞鳥がちょうの丸焼きが供され、楽器の覚えがある者は弦を掻き鳴らし、太鼓を叩いて合奏している。
 上座で盃を傾けるシェスラに、誰もが畏敬と賞賛の籠った視線を投げかけた。それらを鷹揚に受けとめながら、シェスらはラギスに流し目を送った。
「そなたは、私を讃えてはくれないのか?」
 巨躯の黒狼は眉間に皺を寄せた。ネロアでは戦いの後に酒場にくりだし、シェスラの不興を買ったラギスだが、今夜はシェスラと共に過ごしていた。
 彼は、どんちゃん騒ぎの周囲を見渡してから、シェスラに視線を戻した。
「十分だろ? 誰もがお前を讃えている。朝まで声高に叫んでると思うぜ」
「そなたは?」
「……」
「ラギス」
「……まぁ、よくやったさ。強大なアレッツィアを相手に、聖地奪還を成し遂げたんだからよ」
 ラギスはぶっきらぼうにいった。しかしシェスラの嬉しそうな顔をみたら、素直に褒める気持ちが薄れて、悪態をつきたくなった。
「オルドパが素直な性格で助かったな。お前と違って、常識破りの意表もつかんし、策謀をめぐらすこともなかったからな」
「私が卑怯者みたいではないか」
「冷酷で腹黒いことは確かだな」
「自分にあった戦術やりかたで勝負をしているだけだ」
「ふん」
 その時、将兵らの間から歓声が沸き起こった。流れの従軍娼婦たちを引き連れて、傭兵軍団の長、ヴィヤノシュがやってきたのだ。
 彼はまっすぐこちらへやってくる。
 既に汗と血は洗い流し、身綺麗にしている。長身で精悍せいかんな男だが、後ろに撫でつけた灰銀髪と赤銅色のひとみとが、いくらか歪な感じの知性を漂わせていた。
「我が大王きみ
 彼はシェスラの前で恭しく膝を屈し、勝利を言祝ことほいだ。忠臣風情だが、赤銅色の瞳に過る熱を見てとり、ラギスは眉をひそめた。
 色目に気づいていながら、柔和な笑みで恭順を受け入れるシェスラを、ラギスは不満げに睨みつけた。
 自分の魅力を知り尽くしているシェスラは、外貌の美しさを武器に、相手を手なずける節がある。彼の得意とする交渉手段なのだろうが、見ていて気持ちがいいものではない。
 それにラギスは、ヴィヤノシュが嫌いだった。
 ペルシニア侵攻の経緯を考えれば当然ともいえるが、不倶戴天ふぐたいてんの敵とばかりに睨みつけた。
 その視線に怯むどころから、ヴィヤノシュは悪戯めいた光を瞳に灯し、蠱惑的な笑みをシェスラに向けた。
「論功が楽しみだ。だがもし、王の寝所に呼んでいただけるなら、次の戦いも無償で応じよう」
 怒髪天を突いたラギスは、手に持っていた杯を投げつけた。
「噛み殺すぞ、この野郎ッ!」
 憤怒の迸る目で、牙を剥きだして唸る。とんでもない不作法である。
 周囲も唖然となるが、投げつけられたヴィヤノシュが愉快げに笑ったので、緊張は孕まなかった。それも膝を叩いての大笑いに、彼をよく知る扈従こじゅうたちは、驚きに目を丸くした。
 笑いを収めた彼は、両手をあげて降参の意を示し、慇懃いんぎんにお辞儀をしてみせた。
「聖杯殿、勝利のれごとだ。聞き流してくれ」
 なおも唸っているラギスの背を、シェスラは宥めるように撫でた。落ち着けと目配せをしてから、美しい笑みをヴィヤノシュに向けた。
「あまり刺激してくれるな。私も有益な戦力を失いたくない、寝所に侍るのは遠慮願おうか」
 シェスラの声は柔らかだったが、刀剣を包んだ絹のような響きを帯びていた。水晶の眼差しの奥にも鋭い光があり、寝所にこようものなら殺す――言外に物語っていた。
 今度こそ周囲は緊張を帯びるが、またしてもヴィヤノシュが豪快に笑ったので、空気はがらりと変わった。
「怖い怖い、閨で胴と首が離れるのは御免蒙る。お手柔らかに頼もう」
 戦場での残忍さをうかがわせぬ磊落らいらくさだが、この男の正確な感情や忠誠心は、誰にとっても五里霧中だった。