月狼聖杯記

11章:神の坐す山 - 4 -

 星暦五〇三年十一月二十ニ日。行軍五十ニ日目。
 北上運がペルシニア領を横断している一方で、シェスラ一行はネヴァール山脈をのぼっていた。
 標高六〇〇〇メートル。
 密生する神々しいもみの老樹は雪をたたえて、白い巨塔のように聳えている。凛冽りんれつたる冬将軍が訪れ、軍旅は増々過酷なものになっていた。
 冬の嵐の荒々しい大合唱を聴きながら、極寒のなかを月狼たちは進んだが、吹雪で視界は悪く、足並みは落ちた。
 こうも間断なく降りしきる雪に見舞われると、鋭敏な月狼の感覚も鈍る。先鋒隊は幾度も足をとめ、方向を確かめた。お手あげという時には、生ける羅針儀のようなアミラダを呼び、進むべき道を訊ねた。
 吹雪のなか進んできたので、全員疲弊していた。ラギスも背中と太腿が痛んだ。馬の息も荒い。頑健なクィンさえも、休みたくてたまらない様子に見えた。
 ようやく休憩の号令がかかった時、糸が切れたようにくずおれる者が相次いだ。
 ふと、荒々しい物音がラギスの気を引いた。
 目をやれば、年若い少年兵の配膳を、傭兵連中が奪っているではないか。ラギスはむっとして、その場に分け入った。
「やめんか! 何していやがる」
 腹に響く大喝に、びくつく者もいたが、敵愾心てきがいしんも露わに睨みつけてくる者もいた。
「あァッ!? これっぽちで足りるか。こっちは前線で躰張るンだ。士官候補生だかなんだか知らんが、後ろからよちよちついてくる連中と同じ分け前ってのは納得いくかよ」
 ラギスは眉をひそめた。
「武功をあげれば、相応の褒章があるだろう。行軍は平等だ。飯が足りなけりゃ、自分で獲物を獲ってこい」
 男は少年を離して、ラギスをにらみつけてきた。
「どこに獲物がいるってんだ。食料も雪崩にもっていかれちまったし、平等なんていってられねぇだろ」
 今にも飛びかかってきそうな物騒な雰囲気に、ジリアンが緊張にこわばる。
「ジリアン、さがってろ。手だすなよ」
 そういってラギスは、自ら佩剣をジリアンに預けた。少年は受け取ったものの、案じる顔つきになり、
「いけません、ラギス様」
「いや構うな」
 とラギスはジリアンを遮った。
「俺は平気だから、さがってろ。おら、さがれ」
 ジリアンは不満そうにしながら、さがった。少年兵も今にも死んでしまいそうな、不安そうな顔をしているが、ジリアンの方は、怒りのためだろう、顔が赤くふくれていたが、不安そうには見えなかった。勝敗は始める前から見えてるからだ。
「おい、奴隷あがりの剣闘士さんよ」
 と髭面、恐らくこのなかのまとめ役であろう男が続けた。
「闘技場へ戻ったらどうだ? そろそろ首輪が恋しいだろう?」
「そうでもない。なんなら、紹介状を書いてやろうか?」
 ラギスが平然と返すと、髭面はふんとせせら笑いをしながら、みくびった様子でラギスの方に一歩踏みこんだ。
「この数相手に、やろうってのか?」
「やめておけ」
 ラギスはいった。さらにもう一度、
「断っておくが、やめておいた方が身のためだぞ」
 髭面は突然、ラギスに飛びかかった。
 六人の躰がもつれあい、飛び違う。骨の折れる不気味な音や、呻き声、怒号と悲鳴が響いた。劣勢とみて、一人が鉄棍棒をふりあげた刹那!
「危ないっ」
 赤毛の少年兵が、悲痛な声をあげた。
 ラギスは怯まなかった。剛腕に霊力をみなぎらせ、一撃を防いだ。逆に拳を打ちつければ、鉄棒もぐしゃぐしゃになった。
「ひぃっ」
 ぞっとして一人が後ずさりするが、残り五人は未だ鼻息荒く、なおもラギスに掴みかかった。ものともせず、頸へ手をかけると、
「は」
 気合を叫んで見事に引き落とした。巨躯にあるまじき敏捷さで軽快に飛び回り、遮二無二襲いかかる男どもを攪乱かくらんした。
 気がつけば、束になって襲いかかった連中は、地に伏して呻吟しんぎんしており、一人は、腕をおさえて泣いていた。
 やれやれ、とラギスは手を打ち鳴らし、赤毛の少年兵と、ジリアンを振り向いた。
「おう、その辺から板切れニ三枚探してこい。あと、アミラダを呼んでくれ」
「はいっ!」
 ラギスが命じると、少年兵は飛ぶように駆けていって、板を抱えて舞い戻ってきた。
 一方、ジリアンはアミラダを連れて戻ってきた。
 やってきたアミラダは、やれやれといった顔で倒れている四人を診て回った。二人は腕が折れていて、一人は気絶し、一人は肋骨にひびが入っていた。そして全員が目の周りた頬骨のあたりに痣をこさえ、口や鼻から血の氷柱つららを垂らし、瘤だらけだったりした。
 アミラダが起きている者から治療している間、ラギスは気絶している男にかつをいれた。ジリアンにさらしを裂かせ、折れた腕に副木そえぎしてやった。
「うーむ、俺もやりすぎたか……手当はしてやるから、許せよ。だがお前らも、これに懲りろよ」
 手当の合間に、ラギスは一人ごちた。
「まぁ、綺麗に折ったし、並みの月狼なら、ニ晩も寝れば治るだろうよ」
 そんな頑健さは並みの月狼に期待できないのだが、ラギスの基準では、軽症だった。
「あ、あの! お助け頂き、ありがとうございました」
 赤毛の少年兵が、慌てて毛皮帽子をとり、丁寧に会釈をした。
「帽子をかぶれ、凍えるぞ」
 少年が恐縮しながら帽子を被ると、ラギスは、細い肩に手を置いた。
「俺の名をいえば、配膳をもらえるだろう。もらってこい」
 ぽんぽんと軽く肩を叩くと、少年は感激したように一揖いちゆうし、二度、三度、振り返りながら仲間の方へ戻っていった。
 今回は傭兵に非があるが、食料不足は、全将兵の頭上に憂鬱の翼を広げていた。
 先はまだ長い。
 兵士は餓えている。
 いよいよ食料が尽きた時、どのような運命が待ち受けているのか、想像に難くない。食料の奪いあい。殺戮。屍の共食いなどは、猛禽にも劣る行為だ。
 ――が、幸いにしてそうはならずにすみそうだった。
 その日の夕べ、全軍を照らすに足る、吉報が届けられた。
 脚に伝書を結んだが鷹がシェスラのもとを訪ねてきたのだ。
 その鷹は高山集落からの遣いで、シェスラの支援要請に応じるという書面を携えていた。
 ラギスは知らなかったが、あの雪崩が起きた際に星読みをしたアミラダが、高山集落の存在に気がついて、物資補給をしてみたらどうかとシェスラに助言をしていたという。
 さらに彼女は、その高山集落に、ラギスに縁ある者がいるかもしれないといったらしい。
 そして先程届けられた書面には、ラギスを知るヤクソンの生き残りの名が連ねてあり、そこには母とアモネの名前も記されていたのだった。
「物資補給の申し出はありがたい。そなたも一緒にくるか?」
 シェスラの問いに、ラギスが二つ返事で了承したのは、いうまでもなかった。