月狼聖杯記

11章:神の坐す山 - 10 -

 ところが、下りもまた過酷だった。
 日中に降った雪は、夜が明けると氷に一変している。
 凍りついた道を下るのは、想像を絶する地獄だった。先鋒隊は呪詛を吐きながら、氷ついた表面を剥す羽目になった。
 冬将軍は益々猛威を振るい、寒さは日毎夜毎に増している。
 眠る時になると、ラギスがどこにいてもシェスラは必ず傍にやってきた。巨漢のラギスを己の身体で護るようにして丸くなる。
 ……シェスラは、口にはしないが、アガの里の親子の別れを、強く心に留めていた。ラギスの良き母が防寒の心配をしていたので、ラギスを決して震えさせまいと心に決めていたのである。
 ともかく、忌々しい氷の斜面を乗り越え、麓まで降りきった。
 しかし、ここで最後の難所が待ち受けていた。
 渡河である。
 それも冬季の。
 挑むのは、浅瀬や緩やかな川筋といった、いわゆる渡渉点などない濁流だ。
 くだっていけば比較的緩やかな浅瀬もあるが、アレッツィアの哨戒しょうかいに見つかる危険がある。死ぬ思いで霊峰を越えてきたのに、今さらこんなところで危険を冒すわけにはいかなかった。
 つまり、索敵を逃れて確実に渡河できるのは、ここしかないのだ。
 そうはいっても、荒ぶる大河を前に、全員が言葉を失くした。
 この川を渡るなど、狂気の沙汰だ。
 だが、いくしかない。
 先導者が命綱を渡し、インディゴを先頭にして、全員が身軽になって水に浸かった。
 身を切るような冷たさに凍えながら、一歩、一歩、対岸を目指して進んでいく。その距離は無限にも感じられたが、やがて対岸に辿り着いた者がいた。彼等は必死の形相で、すぐさま盛大に焚火をおこした。
「急いで火にあたれ! もたもたしていると死ぬぞ。温まった後は、身体に油を塗っておけよ」
 インディゴのいう通り、急激な体温低下は命に関わる。
 後続でやってきた兵は、焚火にあたって、冷えた躰を温めた。
 先に温まった者たちは調理を始め、紅茶を沸かし、小さな脂身の塊を炒めた。空腹の身にはすこぶる旨いのだ。
 久しぶりの平地に、全員がぐったり腰をおろしていた。
 闘いはこれからなのだが、張り詰めていた糸が切れたように、その場から一歩も動けなくなってしまった。
 登攀をねぎらい、シェスラは全軍に丸二日の休息を赦した。
 兵士達は久しぶりに炊事場を整え、石塊せっかいに火をおこし、鉄灸てっきゅう羚羊れいようを焼いた。温かい汁に葡萄酒、アガの里で分けてもらった砂糖漬けの果物なんかも供され、久しぶりの馳走に将兵らの顔は輝いた。
 皆が休息をとっている間も、シェスラは勤勉だった。
 周辺部族との交渉、兵力の補強、後続輜重しちょうとの合流、周辺地勢の調査、敵陣容の把握、味方の配置、周到な布陣の計画。
 すべきことは山積だが、炯眼けいがんぶりを発揮し、成果は上々だった。
 公用語を話せない山地族との交渉は、ホシウスの通訳に助けられた。彼は、道案内を終えたあとも野営地に留まり、力を貸してくれていた。
 交渉により、全ての部族が応じたわけではないが、三千名の歩兵騎兵を手に入れたことは大かった。
 特に、バジ族が味方についてくれたのは心強かった。獰猛さと剣の腕前で名高い騎馬民族である。彼等は、五才の子供でも巧みに馬を操るのだ。
 準備は整った。
 シェスラは、完全に敵の背後を捉えた立地に、山地族含め、七千を超える兵を伏すことに成功したのである。

 西暦五〇三年十二月十六日。決戦前夜。
 ラギスは陣幕の傍で、焚火にあたっていた。晴れた夜で、凍てつくような空気だが風はない。宵の染み透るような寒さのなか、朱金の焔は際立って見えた。
 野営には篝が焔をあげ、ものものしい武装をした騎士らが警護している。緊張感の満ちるなか、不思議とラギスの心は静かだった。
 夜空を仰げば、無数の星が空一面に瞬いている。
 美しい眺めだ。
 時折、尾を引いて星が流れていく。
 どこにいても星空は変わらない。星の並びが、方角を教えてくれる。
 アガの里にいる母と妹のことを考えていると、草を踏み締める音が聴こえてきた。
「――寝ないのか」
 シェスラの声が頭上に降ってきた。
「もう少ししたらな」
 適当に答えると、シェスラはラギスの隣に腰を下ろした。
「いよいよだな」
 ラギスがいった。シェスラは頷き、
「準備は整った。あとは勝つだけだ」
 シェスラは確信めいた口調でいった。ぜる炎の輝きが、端正な横顔を朱金に染めている。
「……帝国の艦隊もきているんだろ。アレッツィア含めれば、総数は六万を超える。勝てると思うか?」
 ラギスは試すように訊いた。
「無論、勝てるに決まっている。今ここにいるには、命がけの登攀を成し遂げた者達だ。一歩兵までもが精鋭の名にふさわしい」
 シェスラは、はっきりと答えた。
 その言葉に、ラギスは頷いた。彼のいう通り、ここに至るまで、彼等は七十日以上もの間、苦境を共にしのいできた仲間だ。
 登攀は言語を絶するものがあった。
 飢え、寒さ、天候、滑落、不安、恐怖――様々な艱難辛苦かんなんしんくがあった。必死に攀り続け、次々と起こる様々な問題に対処しながら、共に成長してきた。
 彼等と共にありながら、自分への挑戦でもあった。辛さ、弱さ、心に刻みこみ、困難に打ちってゆく緊張の力強さを身につけたのだ。
 豪雪ごうせつに覆われたネヴァール山脈を越えてきた兵士達は、生まれや育ちは違えど、全員が絆で結ばれた仲間に違いなかった。
「勝つぞ」
 ラギスはいった。
 するとシェスラも不敵な笑みを浮かべ、瞳を煌めかせた。闘気に満ちた良い瞳をしている。
 かと思えば、不意に悪戯っぽい顔つきになり、ラギスの方に擦り寄ってきた。
「そなたは強いな……黄金の瞳には、いつでも不屈の闘志が灯っている」
 端正な顔に迫られ、ラギスは後ろに手をついてのけぞった。
「おい」
「ラギス……」
 吐息のように囁いて、唇の表面を触れあわせる。ラギスは慌てて顔を離した。
「やめろ、触るんじゃねぇよ」
 つれないな、とシェスラはいいつつ、大人しく身を引いた。
「ここで抱くつもりはない……だが、明日は勝利の美酒は味わせてもらうぞ」
 蠱惑的な流し目を送られて、ラギスは口元をひくつかせた。
「……俺は別に、擾乱じょうらんに興じてもいいんだがな」
「他の者はそうすればよい。だが、そなたは私の相手をせよ。そなただけだ……堪らなく私を惹きつける者は」
 胸にもたれるシェスラを抱きとめながら、ラギスは照れ隠しにこういった。
「それは、嗜虐心じゃないのか? お前は、毅然と前を向いて、歯向かってくる奴が好きなんだよ」
「そなたは特別だといっているのだ。素直に喜んだらどうか?」
「フンッ」
「全く、つれない。私にこのようにいわれて、普通なら酔いしれるところだぞ」
 眉間の皺を指でつつかれ、ラギスは煩そうにその指を掴んだ。
「知るか、とっとと寝るぞ」
 唸るようにいうと、ラギスはシェスラを抱えたまま、横に寝転がった。するとシェスラは腕のなかで向きを変え、ラギスの胸に頬を寄せてきた。甘い柑橘のような香気が鼻腔をくすぐり、ラギスは白い首筋に顔をうずめて、大きく息を吸った。
 すぐ傍に陣幕はあるが、焚火の傍は温かい。二人は寄り添うようにして、しばしの眠りに就いた。