RAVEN

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 あの絵はなんだ? あんな絵を描いて、どうするつもりなんだ? 彼の狙いはなんだ?
 流星はパニックに陥り、無我夢中で逃げようとしたのも束の間、階段に足をかけたところで我に返った。
 考えれば判ることだ。レイヴンが城嶋と同じなわけがない。動揺のあまり、突飛な行動をとってしまった。どうしよう、と後ろを振り向くと、レイヴンが追いかけてきていた。
 なんていおう。どう説明しよう。考えもまとまらぬうちに、彼は目の前にやってきた。心配そうな顔で流星の顔を覗きこみ、
「一体、どうしたんですか?」
 流星は笑おうとして、引きつった半笑いを浮かべた。
「あ……ごめん、急に……ちょっと、嫌なことを思いだしてしまって」
「嫌なこと?」
 流星はまごついた。深刻げに押し黙ると、レイヴンはそっと流星の肩に手を置いた。
「とりあえず、リビングにいきましょうか」
 流星は黙って頷いた。手が震えているのは、寒さが理由ではなかったが、レイヴンは何もいわずに、流星の肘を軽く掴んで歩きだした。その時初めて気がついたが、彼は茶封筒を持っていた。先ほどの室内インターフォンは、郵便の知らせだったのかもしれない。
 リビングに入ると、明るい陽が部屋に射しこんでいた。起きた時は曇っていたが、いつの間にか晴れたようだ。
 レイヴンは先ず流星をソファーに座らせると、キッチンに向かい、間もなく珈琲の入ったマグカップを二つ持って戻ってきた。
「熱いかから気をつけてくださいね」
「ありがとう」
 流星は小さく頭をさげた。白い湯気を見つめながら、どう切りだそうか迷っていると、レイヴンの方から口火を切った。
「……さっきは、どうしたんですか?」
 流星は答えることができなかった。あまりに恥ずかしいことまで、何もかもが白日のもとにさらされてしまったように感じられた。
「僕のこと……嫌いになりましたか?」
 流星は顔をあげた。不安そうな顔をしているレイヴンを見て、すぐに首を左右にふった。
「そんなことない」
「じゃあ、どうして……」
 流星はレイヴンの顔を覗きこみ、突然、何もかも話してしまいたい衝動に駆られた。
(話す? 話してみる? レイヴンになら、話せる?)
 何度も何度も、自分のどこに原因があったのか思い返してきた。城嶋の仕打ちを正直に打ち明けたら、少しは心が軽くなるのだろうか? 話せばきっと彼は、目を瞠って、憤慨し、流星に同情してくれる――
 けれども、流星はレイヴンの美貌を見、唇を引き結んだ。居心地の良い室内を見回し、壁にかけられた彼の作品、棚に飾られているジオラマ作品をあらためて眺めた。
 彼の独創的で自由な発想は、心が伸びやかであるからこそだ。人との関わりを極力避け、作品への反響を敢えて見ないようにしている。そうやって築きあげている彼の集中を、流星のせいで壊してしまわないだろうか? 
 恥辱に塗れた困惑を共有しても、困らせるだけだ。駄目だ。とてもレイヴンには話せない……話さないことで二人の間に壁ができてしまうとしても、話せない。
「……モデルをするのは、嫌ですか?」
 レイヴンは昏い声でいった。流星は黙ったまま、かぶりを振った。
「じゃあ、僕が貴方に触るのは?」
「……嫌じゃないよ」
「本当?」
「うん」
 流星は視線を落としたまま頷いた。膝に置いた手のうえに、レイヴンは自分の手をそっと重ねた。
「……流星さんの絵は、誰にも見せるつもりはありません。流星さんが残しておきたくないのなら、全部捨てます」
 手の暖かさを意識しながら、流星は首を振った。
「公表しないでくれるなら、レイヴンの好きにしてくれていいよ。大丈夫、悪意がないことは判っているから」
 レイヴンは複雑そうな笑みを浮かべた。
「正直にいえば、下心がないわけではありませんよ」
「え?」
「あれでも自制しているんです。そろそろ歯止めが利かなくなりそうですけれど」
「……は?」
 流星は目を丸くした。表情を繕えずに、焦って顔を背けてしまう。しまった、笑い飛ばせば良かった――すぐに思ったが、もう遅い。
「……恥ずかしいの? 流星さん」
 レイヴンは、流星の顔をのぞきこむようにして囁いた。赤くなった頬を見て目を細め、黒髪を撫でる。
「かわいいなぁ、もう……こんなにかわいい流星さんが、僕より年上だなんて」
「……放っておいてくれ」
 レイヴンはくすっと笑うと、思いだしたようにキッチンを振り向いて立ちあがり、茶封筒を手に戻ってきた。リビングに入る時、彼が手に持っていたものだ。彼は確かめるように宛名を見てから、ちょっと不思議そうに流星にさしだした。
「さっき、流星さん宛に届きました」
「俺?」
 妙だな、と流星は首を傾げた。表面の宛名には印字シールが使われていて、確かに流星の名前が印刷されている。差出人の名前は書いていない。事務的な郵便物に見えるが、ここに住んでいることは誰にも知らせていないのに、奇妙なことである。
 封を切ると、二重構造になっていて、なかに写真の束が入っていた。嫌な予感に駆られながら手をつっこみ、入っていた写真を引っ張ってみる。ちらっと見えた瞬間、思わず息が止まりそうになった。
 それは、流星の写真だった。
 情事の最中に撮られた写真もあれば、ここ最近の盗撮された写真も入っていた。レイヴンの写真まである。
 流星は慌てて写真を封筒にしまった。心臓が早鐘を打ち、どくどくと血液の流れる音が耳朶の奥に反響している。
「流星さん?」
「……悪い、ちょっと用ができた」
 自分でも、尋常ではなく昏い声だと思った。レイヴンが目を瞠っている。だが、いい繕う余裕もなく、逃げるようにして部屋へ戻った。
 ドアをしめると、絶望的な想いで、手にもった封筒を見下ろした。なんの変哲もない茶封筒が、酷く禍々しく見える。
 封筒に手をつっこみ、写真を引っ張りだして一枚一枚に目を走らせる。殆どが流星の写真だが、数枚ほどレイヴンの写真も紛れていた。
「なんだよ、これ……っ」
 流星はこめかみを手でおさえ、なんとか状況を把握しようとした。
 一体、城嶋はどうやって流星を見つけたのだろう? 東京にきているのか? いつから写真を撮っていた?
 考えが全然まとまらない。頭のなかをハンマーで叩き壊されたみたいだ。しまいにはがたがたと身体が震えだし、喩えようのない恐怖が、足元から這いあがってくるように感じられた。
 怖くてたまらないが、これだけは判る。もう、レイヴンの傍にはいられないということ。急がなければ、城嶋の魔の手が彼にまで及んでしまう。