RAVEN

- 1 -

 十二月一日。東京、渋谷。

「ありがとうございました」
 面接を終えたあと、鏑木かぶらぎ流星りゅうせいはお辞儀をして部屋をでた。廊下を進み、人目が途絶えたところで肩から力を抜く。
(うまくいかなかったなぁ……)
 手ごたえを感じられず、内心でため息を吐いてしまう。
 十年ぶりの就職活動、しかも一年間の引きこもり明けに社会復帰をしようとしているので、なかなかうまくいかない。
 流星は大学を卒業したあと、新卒のエンジニアとして上場企業に入社し、十年勤めた。
 仕事にはやりがいを感じていたが、ある男との出会いが、全てを崩壊させた。
 五年前、当時三十歳の城嶋じょうしま正嗣まさつぐは、流星のチームの上司として就任した。独身で、有能で、頼りがいのある、怜悧で端正な容貌の、非常に魅力的な男だった。性格も良く、公明正大な人柄から、女性社員にはもちろん、男性社員からも好かれていた。
 ゲイである流星も例外ではなく、密かに彼に想いを寄せていた。
 幸運にも彼と席が近く、話す機会に恵まれ、時と共に自然と打ち解けた。自分から告白するつもりはなかったが、三年前、彼の方から告白をしてきた。
 恋仲になり、始めのうちは幸せだった。恋愛に奥手な流星にとって、城嶋は生まれて始めての恋人だった。彼は優しかったし、流星が望むように愛してくれた。
 城嶋の出生は複雑で、家族仲は良くなかった。それは流星も同じで、そうした共通点も二人の結びつきを強くした。
 城嶋は、頼りになる上司であり、愛してくれる恋人であり、ゲイである流星を理解してくれる無二の親友であり、空虚な人生から救ってくれた、英雄でもあった。
 盲目になるあまり、彼の異常な支配欲に気がつけなかった。
 性行為は次第にエスカレートしていき、卑猥な言葉をいわれたり、いわせられたり、ポーズを要求され写真を撮られたり……そのうち、情事の最中に首をしめられたり、血が滲むほど噛みつかれるようになった。流星が泣いて嫌がっても、彼はやめようとしなかった。
 おかしいと思うことは、他にもあった。
 不動産投資をしており羽振りが良いことは知っていたが、都内にマンションを三つも四つも所有し、オーダーメイドからイタリア製まで、あらゆる上等なスーツを数十着、時計も幾つも所有しており、まるで場面ごとによって使い分けているような、違う役を演じているかのような気配があった。
 あれだけ上等な男だ。流星の他にも、恋人がいるのかもしれない……
 そう考えて落ちこまされたが、初めての恋人に、流星は完全にのめりこんでいた。暴力的な激しいセックスも受け入れ、二年もの間、彼に従属していた。
 自分の意志では、どうしても別れられなかった。
 だが、それもあの夜までだ。いつものように暴力的なセックスを強要され――絶頂を極める瞬間に、意識が飛ぶほど首をしめられた。命の危険を感じてようやく、別れなければいけないと悟ったのだ。
 決死の想いで別れを告げたが、彼は渋った。辞表も受け取ってもらえず、流布すれば身の破滅に至るような、写真や動画の数々を引き合いにだされては、もう黙るしかなかった。
 そして、療養という体で一年間の休職を命じられた。
 彼は異常なまでの執着心で流星を束縛した。自分のマンションに軟禁し、外へだそうとしなかった。少しでも出歩こうものなら、ありもしない浮気を責めたて、暴力に訴えた。
 どうすれば、そのような荒唐無稽な妄想ができるのか不思議でならなかったが、城嶋は本気で、流星は外にでると男に色目を使うと思いこんでいた。
 彼の支配は悪化する一方だった。たまに優しい日もあって、暴君ぶりを内省し、流星に謝罪したりもしたが、結局は暴力に戻ってしまう。
 虐待に怯えていても、警察に助けてもらおうとは思えなかった。流星にとって、ゲイであることを他人に打ち明けるのは、身を切られるより辛いことだった。勇気を振り絞って父親に打ち明けた時には、半殺しにされかけたのだ。家族にすら見放されたのに、他人が理解してくれるとはどうしても思えなかった。
 誰にも相談できず、ひたすら耐えた。しかし、もうすぐ休職期間が明ける。このまま会社に戻り、彼のもとで働くことだけは、どうしても耐えられないと思った。
 だから、何もかも捨てることにした。
 城嶋のでかけている隙をついて、誰にも告げずに、東京行きの新幹線に飛び乗った。辞表はポストに投函した。彼の番号を着信拒否に設定し、携帯番号とメールアドレスも変えた。
 東京に着いてからは、貯蓄を切り崩しながらネットカフェを渡り歩き、仕事と家を探している。一からやり直すつもりだった。
 しかし、結果は芳しくない。
 東京にきてから一ヶ月。今日で五度目の面接だった。形式ばかりの質疑に終始し、向こうは流星にまるで関心がなさそうだった。
(仕事見つけないとなぁ……)
 判ってはいるが、うまくいかない。先ほどの面接も、恐らく駄目だろう。思わず零れたため息は白かった。
 渋谷ストリームに沿って駅まで歩いていき、ジオラマアーティスト、RAVENの個展が開かれているビルへ入った。
 数年前、六本木で偶然彼の個展に立ち寄って以来、流星はRAVENのファンだ。東京にでてきてからというもの、職探しの合間に時間を見つけては、ぷらっと彼の個展に立ち寄っている。彼の作品を見ていると、不思議と心が豊かになり、癒されるのだ。
 平日の昼間にも関わらず、個展は賑わっていた。RAVENはまれなる美貌でも知られている。日本人の祖父と英国人の両親の血が流れており、紅茶色の髪に猫を思わせる青碧せいへきの瞳の持ち主だ。人形めいた容姿も相まって、世界中にファンがいる。流星もその一人だが、彼の素晴らしい容姿よりも、彼の手掛ける想像豊かな世界観のファンだった。
 気儘に作品を眺めていた流星は、特に気に入っている、独創的な絵の前で足を止めた。
 朱金と群青の黄昏の空の下、青い海に浮かぶ孤島に、蔦のからまる廃墟が佇んでいる。半壊した建物のなかには小さく描かれた男性がいて、彼は腕を空に突きだしていた。或いは、舞いあがる青い蝶の群にむかって手を伸ばしているのかもしれない。蝶は空に近づくにつれて輪舞する星に転じ、きらきらと夜空に瞬いている。
(綺麗だな……)
 もう何度も見ているが、少しも飽きない。子供の頃に夢想したような、ノスタルジックで幻想的な光景のように、惹きつけられてしまう。
 世界のどん詰まりまで落ちたと思っていても、この絵を見ていると、精神が安定していくのを感じる。いつもは歪んで見える世界が、束の間、正常に映るのだ。
 しばらく絵を眺めていた流星は、背中に視線を感じて、邪魔だったかしらと再び歩き始めた。
 ビルの外にでた途端に、木枯らしに吹かれた。
 壁にかけられていた絵のように、黄昏の空はさまざまな色彩にいろどられ、渋谷の街並みを幻想的に照らしている。
 流星はこがらしに身をすくめ、コートの襟を立てて駅まで急ごうとした。と、肩を叩かれた。
 びくっと振り向いて、さらに驚いた。とんでもなく美しい青年――RAVENその人が、流星に笑みかけていたのだ。