メル・アン・エディール - 無限海の海賊 -

9章:鯨の歌 - 3 -

 月明かりで沐浴をしながら、遠い昔語りもした。

“人間は気まぐれな生き物だ。暗黒洋やみわだを穢し、海を穢し、たったいま数千匹も殺したかと思えば、二、三匹を助けたりしてみせる”

 穏やかに語るアルルシオの声は、とても静かだ。怒りも哀しみもない。ティカが傾聴していると、彼は更に続けた。

“お互いを滅ぼし合っている姿を、歌で伝え聞いたことがある。闇夜は光炎万丈こうえんばんじょうに燃え上がり、かくと照らされていたと。血に染められた海をすぐに離れたが、長く匂いが噴気孔に残ったほどだと。人間は気まぐれで、破滅的な生き物だ……”

 責める口調ではなかったが、ティカの気持ちは塞いだ。

“そんなことじゃな、原始の海は遥かに遠いぞ、ちぃせぇの”

「うん……」

“それに鉄の怪物じゃ、絶対に辿り着けないぞ。精霊は鉄を嫌うんだ”

「判ってる。あの尊い場所ハーレイスフィアは、人が行ってはいけないんだ……でも、バビロンには行きたい」

“ロアノスの海に浮かんでいた、ソロモンのことか?”

「うん。今は空に浮かんでいて、バビロン帝国って呼ばれてる」

“大昔、海に浮かぶ鉄の怪物と、空を飛ぶ鉄の鳥が、火を噴き上げていたと聞いた。原始の海まで穢してしまったと”

「……もう、二度と繰り返さないよ。今は、遠くに隔てられているから」

“どうして、行きたいんだ?”

「僕の大切な人が、バビロンに行きたいと言っているんだ」

“ちぃせぇの。人間は一人を赦すと、忽ち大軍で押し寄せるぞ”

 彼は人間について、相当に詳しいらしい。ティカは困ったように笑った。

「ヴィーなら大丈夫」

“アイツがそうか?”

 ふとヘルジャッジ号を見れば、船縁ふなべりにヴィヴィアンが立っていた。ティカが見ていると判るのか、手を上げて合図をする。

「うん、迎えにきてくれたみたい。もう行かないと……」

“ちぃせぇの、気ぃつけろよ。昏穴は深いぞ……”

「ありがとう、アルルシオ」

 彼は船のすぐ傍まで送ってくれた。船縁に辿り着くと、兄弟が縄はしごを下ろしてくれた。

「ありゃ、大洋鯨じゃねぇか。人の傍に寄りつかないのに」

 兄弟は感心したように、アルルシオを見た。ヴィヴィアンも沖合へ遠ざかってゆくアルルシオを眺めている。
 偉大な老戦士は、海面へ潜るとヘルジャッジ号を離れた。
 大洋へ消える前に、彼は、スパイ・ホップ――鯨類が海面に顔を突き出す行動――してティカを見た。
 また会えるだろうか?
 寂しく思っていると、海面を伝わって、彼の言葉を受け取った。

“ちぃせぇの、これで終わりじゃねぇよ。また会おう、アトラスの愛し子”

「ありがとう、アルルシオ。僕も大洋にいる時は、いつも君を探すよ」

 銀班煌めく海に囁くと、腹に腕を回された。

「お帰り」

 後ろから抱きしめるヴィヴィアンを見上げて、ティカは微笑んだ。

「ただいま……濡れちゃいますよ」

「いいよ。さ、戻ろう」

 兄弟が見ているにも関わらず、ヴィヴィアンはティカの頭のてっぺんにキスをした。ダリヤ国を発ってから、もはや彼の遠慮は無きに等しい。本人が言うには、許される限り我慢は止めた、らしい。
 船長室キャプテンズデッキに戻り、ティカが浴室に入ろうとすると、ヴィヴィアンまでついてきた。

「ヴィー……」

 一人で入りたい。そんな意志を込めて見上げたが、世にも美しい微笑に跳ね返された。

「洗ってあげる」

「でも……」

「ほらほら」

 言葉を迷ううちに、服に手をかけられていた。頭の回転の速さ、手際の良さでは、とても彼に敵わない。