メル・アン・エディール - 無限海の海賊 -

9章:鯨の歌 - 1 -

 三ヵ月前。期号ダナ・ロカ、一五〇三年。精霊オズの祝福する一月六日。
 エステリ・ヴァラモン海賊団は、はすの花に喩えられる美しいサファイア――ダリヤ・パラ・サファイアの買い入れの為に、ダリヤ国に上陸した。
 茫漠ぼうばくたる無限海を航海しているというのに、ティカは奇しくもそこで、四ヶ月ぶりにジョー・スパーナに遭遇する。
 エルメス市場をヴィヴィアンと共に散策しているところを、隠密で入国していたブラッキング・ホークス海賊団の先鋒隊――ユリアンに捕えられた。
 青いニーレンベルギア邸へ連れ去られ、拘束された状態で、ジョー・スパーナに拳銃を突きつけられる。
 生死を問われ、ティカは魔法を使うほどの窮地に追い込まれた。
 絶体絶命の敵陣の中、ヴィヴィアン、ロザリオを始めとするエステリ・ヴァラモン海賊団によって救い出された。
 彼等の機転と戦闘力に助けられ、ティカは無事にヘルジャッジ号へ生還を果たした。
 後から聞いた話では、ジョー・スパーナはビスメイルで一・二を争う、光彩陸離こうさいりくりな有権者の懐刀として、諜報活動を務めているという。
 彼がダリヤ国へ足を踏み入れたのは、元締めたる有権者の情報を、高値で売ろうとした裏切り者を追い駆け、制裁する為であったらしい。
 凄惨な処刑の場に、ティカも居合わせた。あの時、本性を明かしたユリアンが殺めた男達こそ、海賊の掟を破った裏切り者であったのだ。
 更に、ユリアン達は情報を買い取ろうとした、政敵側の諜者を捕えたのだと、ヴィヴィアン達はおよその情報を掴んでいた。
 もはや死ぬより辛い運命が待ち受ける悲壮な男を連れて、ブラッキング・ホークス海賊団はダリヤ国を発ったのだ。
 その後――
 十五日間を休暇と補給、商談に費やし、エステリ・ヴァラモン海賊団もダリヤ国を出港する。ティカにとって、三度目の航海の始まりである。
 あの隻眼の男とは、二度と会わぬことを祈るばかりだ。ティカを映す、冷たい蒼氷色アイス・ブルーの瞳……思い出すと、今でも身体に震えが走る。
 思わぬ油断から、危険を冒した罰として、ティカには船の雑用が申し渡された。
 しかし、航海から一月も経つ頃には許された。
 というより――
 船倉で在庫を帳簿に記せば迷子になり、揚句、数え間違える。帆布の修繕を任せれば悪化し、破ける。調理場に立たせれば、いらぬ火傷を負い、味付けが狂う。ティカには甲板作業以外は無理だと、周囲が悟ったのだ。
 一つ褒めるところがあったとすれば、食堂の配膳と片付けだけは、異様なほど素早かった。
 ただし、意図した位置に鍋が置かれなかったり、分量がやたら偏ったり、弊害もあったが……
 本人のやる気と裏腹に、あまり役に立てないティカであった。
 しかし、己の不器用さに愁嘆しゅうたんし、しょげて肩を落とす姿は、周囲の憐みを誘った。何もするな、とは誰も言えず……しばし、ティカが食堂で奔走する姿が見られた。役に立っていたかどうかは疑問だが、屈託のない笑顔と愛嬌は、周囲を和ませていたかもしれない。
 そして三ヵ月後。
 期号ダナ・ロカ、一五〇三年。精霊セトの祝福する三月二十二日。
 ヘルジャッジ号――別名、カーヴァンクル号はロアノスへの航路途中にある、ナプトラ諸島に到着しようとしていた。
 円環の巨大な海底渓谷――ブルーホールにて、メテオライト級・理想郷ユートピアの宝石、エメラルドに挑む為である。

 +

 渺茫びょうぼうたる蒼空、白波も立たぬ凪いだ海。
 目的地とするブルーホール沖合、七○○海里を切った頃、双眼鏡の丸い視界の中、曖昧模糊あいまいもこに溶けた蒼の境界線の彼方に、点々と緑の小島が見え始めた。
 くだんのナプトラ諸島である。
 ナプトラ諸島はロアノス領海の一部ではあるが、自治を認められた、大洋に浮かぶ独立国家である。
 大小二百を越える島の集合体、総延長は一千キロメートルを越える、多くは珊瑚礁からなる島々だ。
 住人のいる島もあるが、無人島も多く、豊かな自然をありのまま残す島々は、夢幻的な美しさに富んでいる。
 陸地の大部分は椰子やしの林で、半円の入り江は植林されたマングローブに覆われている。島全体で育て、世界中に輸出して国の運営資金にしているらしい。
 美しい海が、船縁ふなべりに立つティカの眼前に広がっている。
 陽のもたらす燦爛さんらんたる光輝こうきを浴びて、海はエメラルド・グリーンに透き通っている。
 半機関船のヘルジャッジ号には、音響探査器も搭載されており、これらの音に惹かれて、しばしば遠洋から鯨類が船の周りにやってくる。
 遠くに、イルカの群れが戯れているのを見つけて、ティカは熱狂的に手を振った。海と彼等に挨拶をする。
 流線型の美しい生き物たちよ。
 近付いてくると、すぐに判る。ピューピュー、キッキチキチ、独特の声で挨拶をする。
 彼等の殆どは背中側は濃く、腹側は淡い青色で、細長い鼻と、丸い頬をしている。たまに斑模様や白いのもいる。
 航行を追い駆けてくる彼等を、船縁から身を乗り出して眺めていると、サディールが隣にやってきた。

「この辺りは、いつでも百頭近いイルカが泳いでいるんだ。多い時は千頭もいるぞ」

「そんなにっ?」

 何十頭ものイルカが、波の合間を交互に飛び跳ねながら、船の前になり後ろになりながらついてくる。

「ヘルジャッジ号に寄り添って泳いでる」

「どんなイルカにも見られる習性だ」

「へぇー」

「海も穏やかだし、潜ってくるか? ちょっとした素潜り程度でも、イルカと泳ぐのは気持ちいいぞ」

「いいんですか!?」

 隻眼の水夫長が、おう、と気前よく返事するなり、ティカは上半身裸になって、海へ飛び込んだ。
 飛沫を上げて飛び込むと、好奇心旺盛なイルカ達が数頭寄ってきた。
 ティカの周囲を行ったりきたり、追い越し、追い越され、背ひれに掴まることを許してくれた。
 彼等が本気を出せば、ティカでは決して追いつけないほど、目まぐるしく水中で動き回れるのだが、そうはしない。

“私はアリー、あっちはミナ、タオ、ロッジよ。あなたは?”

 一緒に遊泳している一頭が名乗ってくれた。
 最近気付いたのだが、ティカはあらゆる生き物の声、とりわけ海の生き物の声を、人の言葉のように聞き分けられる。

「僕はティカ」

 船縁から眺めている兄弟達は、大真面目に自己紹介するティカを見て笑っている。しかし、本当に言葉が判るのだ。

“ティカ。どこに行くの?”

「ナプトラ諸島沖のブルーホールだよ」

“昏穴のこと? あそこは恐ろしい海洋生物の棲家なのよ”

「そうなの?」

“恐ろしい深海の殺戮者。巨大な軟体の怪物よ”

 イルカ達は大変な情報通で、海のあらゆる出来事を知っていた。軟体の生き物の恐ろしさを、とくと語ってくれる。

“昏い瞳に、慈悲は欠片も浮いていないの……絶対に近付いてはいけないわ”

「でも、皆は行く気なんだ」

 彼女があまりに釘を刺すので、心配になるティカであったが、ブルーホール潜水はもはや決定事項だ。アリーは、どうか気をつけて、と再三繰り返した。

「心配してくれて、ありがとう」

“なぜかしら。ティカは人間なのに、懐かしい、原始の海を感じるの……”

 海の生き物を引き寄せてしまうのは、古代神器のもたらす影響である。
 彼等は、聖書に登場する精霊界ハーレイスフィアを原始の海と呼び、あたかも見てきたかのように語る。

“ティカが乗っているせいかな? 人間の乗っている船に、愛着を感じたのは初めてだわ”

 彼女の好奇心に満ちた言葉に、ティカは微笑んだ。

「ヘルジャッジ号は僕の家なんだ。兄弟達もたくさん暮らしている」

“……東から鉄の怪物が、海の深いところを突き進んでくるわ。あっちはとても嫌な感じがするの。どうか気をつけてね”

 楽しい一時を終えて、やがてアリー達は離れてゆく。
 最後に教えてもらった情報は、ティカの中で不気味な影を落とした。鉄の怪物――機船が海の深いところを、突き進んでくる?
 そんな船、聞いたことがない。