メル・アン・エディール - 無限海の海賊 -

1章:出会いと出航 - 1 -

 嵐がきた。
 もう七日も雨が降り続いている。叩きつけるような雨は「幸福館」の壊れかけた窓硝子を、がたがたと激しく揺さぶった。
 とどろく雷鳴と共に、空を鉤裂かぎざき状に走る稲妻は、闇夜の空を昼のように照らしている。
 鳴りやまないドラムロールと、叩きつけるようなシンバルの音。
 いつもなら、わくわくしながら外を眺めるのだが、サーシャが寝こんでいる今は、とてもそんな気分にはなれなかった。彼女は病魔にむしばまれ、死にかけていた。
「サーシャ……」
 ティカはだいだい色の瞳からポロポロと涙を零して、サーシャの手を握りしめた。
「そんなに泣かないでよ……ティカ。あなたが、苦しいわけじゃないでしょ……けほっ」
 サーシャはにやりと笑おうとして、失敗した。酷く咳きこんで、苦しそうに顔を背ける。
 華奢な背中をさすりながら、どうすれば彼女を助けられるのだろう、ティカは必死に考えた。
 この嵐が治まれば、咳は止まるだろうか? それとも、サーシャの好きなプラムを食べさせたら、具合は良くなるのだろうか? あるいは、女神様が本当にいるのなら、今すぐサーシャを治してくれるのだろうか?
 彼女を助けられるのなら、何だってするのに……
 ティカは赤ん坊の頃から、サーシャは五歳の時に両親を亡くしてから幸福館で暮らしている。
 周囲を深い茂みで囲まれた、幸福館以外には何もない寂しい所だ。
 大通りを真っ直ぐ降りていけば、華やかな王都であり世界の寄港地でもある、パージ・トゥランに辿り着くらしいが、ティカは一度も幸福館の外にでたことがなかった。
 走ることしか取り柄のない、見栄えの悪いティカを、大人は外へ連れだそうとはしない。
 けれど、サーシャは別だ。
 蜂蜜みたいな亜麻色の髪に、はしばみ色の瞳。少女らしい滑らかで丸い頬。器量もいいし、頭もいい。明るくて優しいサーシャは、皆の人気者だ。
 大人達は、ティカに勉強を教えることを諦めてしまったけれど、サーシャだけは見捨てなかった。本を逆さまに持っていることすら気付かないティカに、根気よくいろんなことを教えてくれた。
「ねぇ、ティカ。嵐が止んだら……ううん、止む前に、誰にも見られずにここをでていくのよ」
 サーシャは真剣な瞳をしていった。
「嫌だよ、サーシャといたい……」
「私も、ティカといたいけど……無理。どんなに遅くても、明日の昼にはバーシスクさんがくるわ。最期のチャンスなのよ。いい子だから、逃げなさい。捕まったら、きつい商業船に乗せられちゃう」
 サーシャは最近、その話ばかりする。ティカはいい返したかったけれど、彼女が細い指でぎゅっとティカの手を握りしめるので、反論するのを堪えた。
 頭の悪いティカは、十四になった今も引き取り手はおろか、街に降りて仕事を探すこともできない。穀潰しのティカに大人は冷たい。このままでは、過酷な肉体労働を求められる商業船に、奴隷同然で乗せられてしまうとサーシャはいう。頭のいい彼女がいうのだから、きっとそうなのだろう。しかし……
「一緒にいたいよ」
 商業船に乗ろうが、幸福館をでていこうが、サーシャが隣にいなければ同じことだ。
「ティカ、お願いよ……」
「ここにいる」
 ティカが告げると、サーシャのはしばみ色の瞳は悲しげに曇った。
「ねぇ、ティカ。私ずっと一緒にいるわ。ティカが瞳に映すものを、私も風になって見る。そよ風が吹いたら、私を探して。きっと傍にいるから」
「サーシャは、サーシャだよ。そよ風なんかじゃない」
 ティカは不満そうにいった。サーシャはほほえみ、手を伸ばしてティカのくせっ毛の黒髪を、くしゃくしゃに掻きまわした。
「今はね。そのうち、そよ風になるの。いい? ティカ、海を見にいこう。歩道に沿って真っ直ぐ降りていけば、パージ・トゥランにでるから。海の宝石と呼ばれるくらい美しい港街よ。ティカの足なら、きっとあっという間よ」
「でも、外にでたら怒られるよ……」
「だから、見つからないように、黙ってでていくの。海岸沿いにでないように気をつけてね。そっちは世界周航している商業船がたくさん止まるから。内港を目指すのよ。そこではしけ……荷物を倉庫に運ぶ小さいを船を見つけたら、働かせてくださいって頼むの」
「いかないよ、サーシャ。それに、どうせ乗るなら海賊船がいい」
「海賊船なんて、商業船より危ないじゃない」
 ティカは興味を引かれて目を瞬かせた。 「港にヘルジャッジ号が停泊してるって噂、本当かな?」
 サーシャは咎めるような眼差しになり、 「駄目、危ないから。絶対に近付かないで。内港だって寄港地の延長よ、いろんな人がいるわ。きっとティカも気に入る」
「それじゃ、無限海を駆ける貿易船、カーヴァンクル号は?」
「それは私も見てみたいけど……何しろ、誰も見たことがないって聞くし。でも、内港で懸命に仕事をしていれば、いつかは見られるかもね」
「……」
 サーシャは黙りこむティカに、いつものようにあれこれ教えこもうとした。
 どういう大人に声をかけるのか、あるいはかけてはいけないのか。内港へ降りたら、真っ先に何をするのか……
 ティカも一生懸命覚えようとしたけれど、半分も理解できなかった。それより、サーシャが苦しそうに咳きこむので、そちらの方が気になった。
「サーシャ、もう寝ようよ」
「――ううん、私、判るの。これが最後だから、何遍でも言わないと。ティカは人より少し覚えが悪いけど、一生懸命話を聞くいい子だよ。十回も聞けば覚えられるでしょ?」
「十回聞いても、覚えられないこともあるよ」
「大丈夫。私のいうことなら、きっと覚えられる。ティカは、私のこと大好きでしょ?」
 にっこり笑うサーシャを見て、ティカは照れ臭そうに頷いた。
「私も、ティカのこと大好き。水筒とビスケットを持って、夜明け前にここをでていくのよ。内港で荷運びしている小舟を見つけたら、様子を見て。立派な靴を履いた大人に声をかけるの。それから、働かせてもらえるように頼むのよ。幸福館には二度と戻らないで!」
 彼女のなかではもう、ティカがここをでていくことは決定らしい。ティカは悲しい気持ちになったが、咳きこみながら、一生懸命に喋り続けるサーシャを止める術は持たなかった。
 薄い背中を摩りながら、もうお休み、と何度も囁いたが、サーシャはその度に首を振った。

 嵐は、まるでやむ気配はなかった。