メル・アン・エディール - 無限海の海賊 -

16章:セイレーン - 2 -

 ヴィヴィアンたちが酒場に着いた時、兄弟たちは既に一杯やっている最中だった。テーブルの上には冒険雑誌が散らばり、石油ランプと酒瓶が一列に並んでいる。焼いたベーコンやチーズ、ナッツ類を肴に、飲んで食べて和気藹々わきあいあいとやっているようだ。
「お待たせ、諸君。楽しんでいるかい?」
 遅れてやってきたヴィヴィアンが声をかけると、船員たちはなみなみ注いだ盃を掲げて、
「「エステリ・ヴァラモン海賊団に! 我らがキャプテン・ヴィヴィアンを称えよ!」」
 髑髏とダイヤの海賊旗ジョリー・ロジャーと、ヴィヴィアンに乾杯した。硝子が軽く触れる音が重なり、乾杯の大合唱となった。
 彼等は船乗り調子で、嵐や航海、互いの近況といった、四方山話よもやまばなしに花を咲かせた。
 いかにも楽しげな雰囲気だが、ティカの心は重たいままだった。やはり今夜は楽しめそうにない。外で待っていようか迷っていると、オリバーに声をかけられた。
「ティカ! こっちにこいよ、一杯飲もうぜ」
 彼は、片手にもったウィスキーのボトルを持ちあげてみせた。同じテーブルに、アラディンとマクシム、ドゥーガルもいる。
 ティカが近づいていくと、彼らはティカのために席を空けて、散らかったテーブルの上を少し片づけた。
「ほら、ここに座れよ。久しぶりだなぁ、ティカ」
 マクシムは空いた席を叩きながら陽気な調子にいったけれど、ティカはぎこちない笑みしか返せなかった。
「ありがとう、マクシム。ブラッドレイとセーファスは?」
 オリバーはさくらんぼを頬張りながら、奥の席を見ながら、顎をしゃくった。
「むぐ、あの二人なら向こうで賭けをしているよ」
 どうやら海賊仲間を相手に、カードゲームをしているらしい。その様子を見て、ティカは力なく頷いた。
「元気ないじゃん、どうしたんだよ?」
 海のように青い瞳を瞬いて、オリバーは首を傾げた。
「……うん」
 久しぶりに兄弟たちに会えたというのに、ティカの心は晴れなかった。憂鬱の雨が降り続いている。あれほど楽しみにしていた競売会が、今では陰鬱のものに変わっていた。
 一緒に楽しくやる気分になれず、しばらくするとティカは兄弟たちの輪を抜けて、扉の方へ歩いていった。すると、ティカが帰ってしまうとでも思ったのか、ヴィヴィアンが後ろを追いかけてきた。扉に手をついて、ティカを見下ろす。
「どこへいくの?」
「……外で待っています」
「きたばかりじゃないか。こっちへおいでよ」
 ティカは俯いた。一緒に盛りあがれないことへの罪悪感を覚えるが、それ以上にヴィヴィアンの態度が気にいらない。機嫌を損ねている子供をあやそうとしているみたいで、甚だ不本意である。ティカは、彼が思うほど子供ではない。
 そうだ。もう自分は何も知らない子供ではない。そういってやりたい――心臓は早鐘を打ち始め、手が震えそうになる。だが、勇を振り絞って顔をあげた。
「ヴィー。意見をしていいと、前にいいましたね」
 決意に満ちた眼差しを見て、ヴィヴィアンも身構えるように姿勢を正した。
「僕はオデッサを助けてあげたい。どうしても」
 サーシャの時は、何もしてあげられなかった。大好きな女の子が、ただ弱っていく姿を見ていることしかできなかった。二度とあんな後悔はしたくない。それに、オデッサを海に還さねば、取返しのつかぬことになる気がするのだ。
 ヴィヴィアンは思案げな顔でティカを見た。いつものように、言葉巧みに説き伏せることは可能だが、珍しく自分の意見を押し通そうとするティカの気概を挫きたくはなかった。
 沈黙のなか、ティカは俯きそうになる己を叱咤した。両の手で握り拳を作り、ゆっくり顔の高さにもちあげる。
 戦闘体術の構えを見て、ヴィヴィアンは目を瞠った。
「……何の真似?」
「キャプテン、僕と勝負してください。もし僕が勝ったら、オデッサを助けると約束してください!」
「――おい、何している」
 不穏な空気を察知し、割って入ろうとするシルヴィーの肩を、ロザリオが後ろから掴んだ。
 シルヴィーは反論しようとしたが、おやおや、とヴィヴィアンの笑いを含んだ声に遮られた。
「水兵がキャプテンに歯向かうとはいい度胸だね」
 ヴィヴィアンは面白がるようにいった。二人の様子に気づいた船員たちも、余興を見る目で眺めている。
 ティカは本気だった。言葉では彼を説得できない。なら、どうすれば判ってもらえるのか? 魔法には頼らない。楽して成し遂げられることではない。だから、思いつく方法は一つしかない。
 真っ向勝負で、彼に挑むのだ。
 本能に突き動かされ、ティカは躊躇ずに蹴りを繰りだした。
 ヴィヴィアンは持ち前の反射神経で避けたが、あと少し遅ければ決まっていた。その際どさに、顔から笑みを消した。
「本気なの?」
「本気です。僕の全身全霊をけて、キャプテンに挑みます! どうか、僕の挑戦を受けてください!」
 一遍の躊躇もなく、ティカはきっぱりといった。
 驚きの息遣いが、さざなみのように部屋に拡がっていくなか、ヴィヴィアンは面白がるように笑った。
「いいよ、受けてたとう」
 彼は上着を脱いで椅子に放ると、自然な態勢でティカに向き合った。
 次の瞬間、ティカの方から仕掛けた。右、左の拳の突き。素早く屈みこんで、死角からの突きあげ。マクシムの教えてくれた、ボクシングのテクニックだ。
「いいぞ――ッ!」
「いけ、ティカ!」
 突然の戦いの幕開けに、周囲から歓声が沸き起こった。酒場での喧嘩は、彼等の最も愛する娯楽の一つなのである。
 ティカの連撃は全て防御されたが、最後に高く蹴りあげた踵は、ヴィヴィアンの動きを止めた。その隙を狙って、ティカは拳を突きだした。一連の動きはまだ未熟だが、鋭く光るものがあり、見る者の興奮を煽った。
「ティカもやるじゃねぇか!」
「いけ、ティカ、そこだっ! いけいけいけ!!」
 観衆というのは挑戦者に寛容で、ティカへの声援は実に賑やかだ。なかには、拳を握りしめ、パンチを繰りだしたり、躱したりしながら観戦する者もいる。
 その歓声たるや、煩いのなんの。騒ぎが大きくなるにつれ、シルヴィーの頭痛は増した。もはや静かにウィスキーを飲むどころではない。
「全く、誰が喧嘩しろといった? おい、見ていないで、誰か止めたらどうだ!」
 そういって周囲を見回したが、誰も止めようとしない。仕方なくシルヴィーは席を立とうとしたが、またしてもロザリオに肩を掴まれた。
「いいから、黙って見てろよ。男の戦いに口を挟むんじゃない」
「そうはいっても、このままだとティカが怪我をするぞ」
「好きにさせてやれ。ティカだって、相手が誰だか判った上で喧嘩を売っているさ」
 真面目腐った顔でいっているが、目に悪戯めいた光を灯していることを、シルヴィーは見逃さなかった。呆れた眼差しになり、
「お前は単に、面白がっているだけだろう?」
 ロザリオはにやりと笑い、悪いか? とのたまった。しかし、この状況を楽しんでいるのは彼一人ではない。
「あの馬鹿っ、キャプテンに飛び蹴りかましやがった!!」
「ギャハハハ、馬鹿だからしょうがねーっ!」
 壁を蹴りあげ、三角飛びからの蹴りで首の後ろを狙ったティカに、賞賛と爆笑が同時に起きた。
「ギャハハハッ、クッソ面白ぇ! ひーっ、死ぬぅッ!」
 なかには、笑いすぎて息が切れ、咳きこみ、真っ赤な顔で悶えている者もいる。
「ティカの勝ちに一臆ルーヴ!」
「いいぞーっ! ティカー! 頑張れ! 負けるな!」
 もう、いいたい放題である。煽情大好きなブラッドレイとセーファスは、楽しげに掛け金を集めて回っている。
 シルヴィーは煩そうに顔をしかめながら、結局、諦めて席についた。
 周囲は大いに盛りあがっているが、ヴィヴィアンは半ば本気になりつつあった。何発か際どい攻撃を避けながら、ティカの目覚ましい成長ぶりに驚かされていた。並の男ではもう、ティカに敵わないだろう。武器を使わない純粋な体術であれば、ヴィヴィアンとこれだけ渡りあえるのだ。
(成長したね、ティカ)
 向ってくる少年の気概が嬉しい。適当に相手をするつもりでいたが、気が変わった。生半可にしては、この勇気ある挑戦者に失礼だろう。敬意を評して、ヴィヴィアンは一切の遠慮をやめた。
 みぞおちに打ちこんだ蹴りあげに、ティカの体が後方に吹き飛ぶ。 
 野次を飛ばしている連中は、そろって息をのんだ。慌ててティカの体を支え、
「もうやめとけ、十分だろ」
「これ以上やると怪我するぞ」
「よく戦ったよ、さっさと降参しちまえ!」
 左右から小声で忠告するが、ティカはかぶりを振った。
 逃げるわけにはいかない――誰かを本気で助けようと思うのなら、困難があっても、どんなに辛くても、諦めてはいけないのだ。手を差し伸べ続けなくてはいけない。サーシャやヴィヴィアンが、ティカを救ってくれたように。
「まだまだぁッ!」
 ティカは吠えた。闘志を目に漲らせ、ヴィヴィアンに向かって駆けだした。
「はっ!」
 気合いを入れて拳をつきだす。最小の動きでかわされ、そのまま腕を引かれて転がされる。
「ッ」
 受け身をとって立ちあがり、屈みこんで回し蹴り、左右に打ちこみ、死角を狙ってもう一度。だが視界からヴィヴィアンが消えたと思った時には、背後をとられた。
(あッ、しまった!)
 やられる。そう思った次の瞬間には、首の後ろに鋭い衝撃が走った。
 視界が真っ白になるほど盛大に星が散り、ついにティカはくずおれた。