メル・アン・エディール - 無限海の海賊 -

16章:セイレーン - 10 -

 ティカが昏睡から醒めた時、辺りは闇に包まれ、静まり返っていた。
 巨大な檻に逆戻りだ。忌々しい足輪を科された上に、薬でも飲まされたのか、体の自由が一向に利かない。意識まで朦朧としている。
 起きあがろうとしてみたが、腕が震えて無理だった。仕方なく仰向けに横臥おうがし、深い溜息をついた。
 波の音が聴こえる。窓の外を見れば、黒い雲は上空を覆いつくし、風向きを変えた風が、冷えた空気と雨の気配を運んできていた。
(ザックは大丈夫かな……)
 酷い目にあっていなければいいのだが。彼の身を案じながら、いつもの癖で、耳から垂れさがるダイヤモンドの耳飾りに触れているうちに、意識は海の彼方へと広がっていった。
“……ティカ”
 誰かに呼ばれた気がして、ティカは目を瞬いた。意識を集中すると、幽かな海の音が耳に届いた。
 波の音。鳥の声。賢い海洋の生き物たちの声……耳を澄ませば、あらゆる声に満ち溢れている。
“ティカ、私の声が聞こえる? ……お願い、返事をして”
 力なく横たわるティカの耳に、確かに彼女の声は届いた。
(オデッサ!?)
 強い意思で心に唱えると、空気がざわめくのが肌に感じられた。
“ティカ! あぁ、良かった、聞こえた!”
 ティカは弾かれたように窓を見た。姿は見えないが、彼女の声だ。オデッサの安堵する息遣いが、すぐ傍に感じられるようだった。
(うん、僕も聞こえるよ! どこにいるの?)
“ティカの気配を追いかけているところよ。貴方の仲間たちに知らせたわ。すぐに助けにいくからね!”
 ティカは安堵のあまり、視界が潤みそうになった。慌てて目を瞬いてやりすごす。
“ティカ、ごめんなさい。せっかく助けてくれたのに、酷いことをして……”
(一体何があったの? ヴィーは無事?)
“私は、アダムに心臓を握られているの。彼の傍にいると、いいなりになってしまう。ヴィヴィアンは無事よ、絶対に助ける、と伝言を預かっているわ”
(ヴィーは無事なんだね!? 良かったぁ……でも、心臓を握られているって、どういうこと?)
“説明はあとよ。それより、ティカの状況を教えて”
(判った。といっても、あんまり判っていることはないんだ。この船は黒塗りの快速船で、ビスメイルに向かっているみたい。アプリティカをでて一日経ったと、アダムが話してた)
“そう、黒い船なのね。怪我はしていない?”
(平気だよ。殺すつもりはないって、アダムがいっていた。僕をジョー・スパーナに渡すつもりなんだ! 鎖をつけられて、檻に閉じこめられている……逃げられそうにない)
“最悪だね。檻って、全く頭にくるわよね。でも、危ないことはしないで。必ず助けにいくから”
 ティカは一瞬、言葉に詰まった。既に色々とやらかしている。割りと危ない橋を渡って、脱出に失敗した挙句、このざまなのである。痺れて動けず檻に逆戻り。アダムは魔法にかかっている状態で、危険度が三割増しだ。
(……何かしたくても、今は身体を動かせないんだ。だから皆を待ってるよ……でも、船はないのにどうやって?)
“船ならあるわよ。大きな鋼鉄の船で、私は近づけないけれど、貴方の仲間たちは乗っているわ。それから、空とぶ風船にもね”
(空飛ぶ風船??)
 ティカには想像がつかなかったが、もう先ほどまでの恐怖は感じていなかった。オデッサやヴィヴィアンたちが味方にいると思うと、勇気りんりん、きっと脱出できるという自信が湧いてくるのだった。
 と、廊下が騒がしくなったと思ったら、ノックもせずに誰かが部屋に入ってきた。オデッサに繋いでいた意識が途切れてしまい、腹が立ったティカは、入ってきた男を盛大に睨みつけた。
「気分はどうかね?」
 アダムは真っすぐ檻の前にやってくると、鍵を開けて、なかに入ってきた。横臥するティカを見下ろすように、寝台に腰かける。
「う……よ、くも……っ」
 酷く罵ってやりたいところだが、うまく声にならない。
「喋れないか? 薬が強すぎたか。心配はいらない、ただの痺れ薬だ。じきに動けるようになるだろう」
 アダムは、身を屈めて、ティカに覆いかぶさるようにした。ティカはかろうじて顔を背けた、彼はティカの耳に口を寄せ、囁くようにいった。
「今度誰かを巻きこんでそれを外せば、そいつを殺してやる。脅しではないぞ」
「……僕を、自由に」
「自由にしてほしい? それはできない相談だ。だが、埋め合わせはしよう」
 アダムはティカの顎を掴み、目が合うように正面を向かせた。
 男の目を見て、ティカはひゅっと息をのんだ。
 欲望に陰った昏い瞳。それでいて、空洞のような、まるで生気の感じられない、ぞっとするような目をしていた。
 怖い――強烈な恐怖を覚えて、ティカはのけ反るようにして頭を寝台に押しつけた。
「私とくれば、うんと贅沢をさせてやろう。欲しいものは何でも与えてやる。ティカのために、もう一度人魚を作ってやってもいい」
 思わず耳を疑ったが、アダムの目は本気だ。どうすれば、そのような思考になれるのだろう? 脳が異常をきたしているとしか思えない。
「どうして、そんな……お、金のために……奴隷、売らないで……っ」
 ティカはたどたどしい口調で精いっぱいの懇願を口にした。アダムは身を寄せると、シィーッと宥めるように囁いた。生暖かい息が首筋に触れて、全身にぞっと悪寒が走る。
「や、めて……」
 アダムの愛情は歪んでいる。近づいてくる唇が嫌で、掌でアダムの口を押えた。全力で暴れているつもりだが、震えるほどのか弱い動作でしかなく、男の征服欲を煽るだけだった。
(嫌だッ!)
 強烈な嫌悪に駆られた時、幸運にしてアダムの気を引くことが起きた。控えめに、だが強い意志で扉を叩く音があり、彼は不快そうに眉をひそめたものの、体を起こしてティカの上からおりた。
「申し訳ありません、アダム様」
 強張った声が扉の向こうから聞こえた。
「何の用だ」
「至急、お耳に入れたいことがあります」
 アダムは仕方がなさそうな顔で上着のしわを伸ばし、扉の方へ歩いていった。少しだけ扉を開き、部下と二・三の言葉をかわしたあと、ティカをちらと見てから部屋をでていった。
「はぁ~……っ」
 九死に一生を得た勢いで、ティカはため息をついた。それから、ぐったりと全身を弛緩させた。
 先ほどの会話、はっきりとは聞こえなかったが、船で何か問題が起きたようだ。何かは判らないが、ともかく助かった。
(……大丈夫、もう少しの辛抱だ。オデッサやヴィーたちがきてくれる)
 目を閉じると、大好きな人たちの顔が脳裏を過った。ヴィヴィアンの傍に帰りたい。兄弟たちが恋しい。休みがなくても、嵐に見舞われても、甲板作業の重労働が続いたとしても、ここと比べたら天国だ。
 彼等とまた会える。絶対に会える。へこたれてたまるか――ティカは自分に強くいい聞かせた。