メル・アン・エディール - まほろばの精霊 -

1章:狭間に揺れし青斑に、古の魔法 - 3 -

 これほど美しい精霊を、オフィーリアは生まれて初めて見た。
 天下始祖精霊マナ・マク・リールだけが持つ、見事な玻璃の六枚羽。透き通った羽から迸る青い光芒は、神話のように、海里の果てまで照らすのであろう。

(なんて美しい方なのだろう……)

 あどけなさを残した顔の輪郭も、風になびく銀糸の一筋に至るまで、淡く神々しい黄金の光に包まれている。
 少年と青年の中間に見える容姿をしているが、悠久を治める精霊王である。オフィーリアとは比ぶべくもない、叡知をその身に秘めている。
 普段は俯ける顔を、僥倖ぎょうこうのあまり晒したままでいることに、オフィーリアは気付かなかった。

「魔法の気配を辿ってきてみれば……」

 美貌の精霊王は、こめかみを押さえながら秀眉を寄せた。

「も、申し訳ありません!」

 呆気に取られていたオフィーリアは、弾かれたように跪いた。忠誠を誓うように、深く頭を下げる。

「お許しもなく、ご尊顔を拝し奉りまして――」

「よりによって、あいの子が手にするとは……アンジェラの嫌がらせでしょうか」

 おろおろとした口上は、冷たい口調にかき消された。オフィーリアは俯けた視界のまま、瞳を大きく見開いた。
 心臓が軋むのを感じながら、恐る恐る顔を上げる。
 睥睨する青い瞳には、紛れもない侮蔑の色が浮かんでいた。

(あぁ……)

 精霊王であっても、オフィーリアを嫌悪するのか。
 喜びや憧れは、一瞬で霧散した。
 昏い諦念に沈むオフィーリアを一瞥すると、精霊王はロザリアに厳しい眼差しを向けた。

「愚かな真似をしてくれましたね。魔法を無断で持ち出すとは……」

 大地を揺るがす覇気に当てられ、ロザリアは震え上がった。隠れるようにオフィーリアの腰にしがみつく。

「有史以来、お前達は度々人間に狙われてきたというのに。身を守る揺り籠を飛び出して、地上へ下りるとは」

 薔薇の精霊は、美しさの象徴でもある。彼等の霊気は、上質な香油や薔薇水を蒸留する為、とりこになった人間達に狩られていた時代があった。薔薇の精霊は、古来より同胞達の庇護の対象なのである。

「お前がロザリアを唆したのですか?」

 冷たい詰問がオフィーリアに投げつけられた。言葉の刃が胸に突き刺さる。
 その様子を見て、ロザリアは不安そうな顔を引き締めると、オフィーリアを背に庇うように両腕を広げた。

「フィ-は悪くありません。私が聖域から持ち出して、フィーに渡したのです。魔法はフィーのものだからッ!」

「愚かな。魔法はアンジェラが私に託したものです」

 冷たい風が流れた。空は急速に曇天に覆われ、陽の光は遮られる。

「あいの子には分不相応な魔法です。今ここで死ぬか、或いは命果てるまで一人で過ごすか、二つに一つ。選びなさい」

「駄目ッ!」
「そんなッ」

 二人は悲壮な声を上げた。請うように美貌を仰ぐが、青い瞳に慈悲は欠片も浮かんでいない。

「ロザリアも、いつまでも奔放を許すわけにはいきません」

 非情な言葉に、眼の前は真っ暗になった。このままでは、たった一人の友達と離されてしまう。

「お、お許しください」

 胸の前で手を組み、オフィーリアは弱々しく懇願した。ロザリアも不安そうにアシュレイを見ている。

「フィーと離れたくありません」

「なりません。今後は会うことを禁じます」

「なぜですッ!」

 真珠のような涙を散らして、ロザリアが叫んだ。決して離すものかと、オフィーリアに強い力でしがみついた。
 その様子を見てアシュレイは嘆息すると、冷たい眼差しをオフィーリアに向けた。

「手間を掛けさせてくれる。お前から、別れを告げなさい」

「わ、私から?」

「そうです。縛りつけたロザリアの心を解放しなさい」

「違うッ!!」

 幼い薔薇の精霊は、きつく眼を釣り上げ、主たる精霊王に向かって吠えた。両腕を広げて、オフィーリアの前に立つ。

「ロザリアもいい加減に、聞き分けなさい」

「嫌! 絶対にフィーと離れない」

「今この場で決別し、二度と会わないと約束するのなら、禁忌の地上で逢瀬を重ねたことだけは不問としましょう」

「私には、ロザリアしかいないのです」

 誰にも相手をされないオフィーリアにとって、天真爛漫なロザリアの存在だけが心の潤いであった。

「お前の都合で、薔薇の精霊を地上に残すわけにはいきません」

「どうかご慈悲を」

「なりません。お前の血は穢れている。魔法はお前に力を与えはしない。死を選ばぬのなら、死ぬまで一人きりで過ごすがいい」

「――ッ」

 そこまでいうのか。精霊王よ。
 顔を俯け、オフィーリアはきつく拳を握りしめた。瞳の奥が赤く染まる。
 いわれるまでもなく、誰にも見つからないよう、寂れた森の片隅で慎ましく生きてきた。
 それしか、生きる術がなかったからだ。
 哀しい記憶――
 気味が悪いと、船乗りの父は幼いオフィーリアを海に落とした。波に運ばれ、気付けば森に続く岸部に辿り着いていたのだ。
 露しげき朝。
 金色に染まる夕べ。
 星月夜の森に満ちる、恐いほどの静寂。

 一人きり。

 孤独に苛まされる日々。
 仲間を求めて人里へ下りれば石を投げられ、精霊界へいけば誰もが逃げてしまう。
 木枯らしの秋、霜降る純白の冬。
 雪溶け、蕾が開花する春の口づけ。
 さんたる初夏の日射しが草莱そうらいを照らしても、どれだけ季節が巡っても、一人きり!
 仲間が欲しかった。オフィーリアを見ても、嫌わないでくれる友達が欲しかった!!

「お願いします、どうかロゼと離さないでくださいッ」

 屈託なく笑いかけてくれる、ようやくめぐり逢えた、たった一人の友達なのだ。
 涙を流すオフィーリアを見ても、精霊王は表情を変えなかった。

「諦めなさい」

 温度の感じられない冷淡な言葉に、オフィーリアは暗い深淵に突き落とされた。願いは聴きれられない――本能のままに、口を開いた。

「アシュレイ、メル・アン・エディールッ」

 それは、心を奪う古の魔法。

 美貌の精霊王は、眼を見開いてオフィーリアを見つめていた。