HALEGAIA

8章:俺たちの日常 - 4 -

 瞬きした次の瞬間、ふたりは見知らぬ通りにいた。閑静な住宅街は雨に濡れて、歩いている人は誰もいない。
「あれが田中成美の家です」
 そういってミラは、斜め向かいの家を指さした。立派な門構えの一軒家だ。
「あそこに理沙がいるの?」
 陽一は緊張気味に訊ねた。
「はい」
 冷たい風が全身に吹きつけ、首筋を撫でた。ぶるっと震える陽一の肩をミラは抱き寄せ、腕を撫で摩る。
「ここで待っていますか?」
「いや、俺もいく」
 強張った声で陽一は答えた。
 ミラは頷くと、玄関門へ近づいていき、なんの躊躇いもなくインターホンを鳴らした。押すんだ? と陽一は怯んだが、ミラは平然としている。今になって、ふたりとも制服を着ているのはマズいんじゃ? という懸念が浮かんだがもう遅い。
<……はい?>
 聞き覚えのある男性の声がして、陽一の心臓は早鐘を打ち始める。肌寒いのに、脇のしたに汗がつるつると流れていくのを感じた。
「こんばんは。理沙ちゃんを迎えにきました」
 ミラは落ち着き払った声でいった。
<は?>
「それではお邪魔します」
 そう一方的に宣言すると、触れもせず、錬鉄製の門が左右に開いた。
 なかへ入り、雨に濡れた石畳のうえを歩いていくと、鍵がかかっているであろう玄関扉は、カチリ、解錠音と共に開いた。
 陽一は、土足で家にあがるミラを見て、自分も靴を履いたまま彼の後ろをついていった。
 廊下は薄暗いが、奥のリビングからは光が漏れていた。我が家のように躊躇なく侵入するミラの後ろを歩きながら、陽一は破裂しそうな心臓の鼓動を感じる一方で、不思議な安心感も抱いていた。こんな時でも、ミラさえいれば大丈夫だという謎の自信があった。
 しかし、おぞましいものへの、未知なものに対する恐怖心が消えてなくなるわけではなかった。
 廊下の壁には、様々な絵がかけられていた。アニメから抽象画まで統一性もなく、あらゆる種類の絵が額縁におさめられている。
 明かりの点いている部屋の扉が開いていて、なにげなく視線をやった陽一は、驚愕に目を瞠った。
 窓のない八畳間ほどの個室で、儀式めいた祭壇があり、いくつかの皿が並んでいる。よく見れば、切り取られた生々しい耳や目玉が乗っていた。
「ひッ……」
 陽一は、咄嗟に手で口を覆い、後ずさりをした。
 酒や果物と一緒に並べられた皿は、神に捧げる供物のように、整然と配置されている。
 吐き気を催すような、おかしな笑いがこみあげそうな、あまりにも珍妙で、猟奇的な、ゾッと腹の底から震えがくるような、戦慄すべき悪戯いたずらであった。
「見なくていいよ、陽一」
 そっと視界を手で覆われた。
 肩を抱き寄せられ、陽一は縋るように身を寄せた。ミラの手を掴み、恐怖に濡れた目を、ゆっくりと彼に向ける。
 ――この肉片は、一体誰の、まさか妹の理沙の?
「理沙ちゃんは無事だよ」
 その声は確信に満ちていた。陽一は、重苦しい不安が和らぐのを感じながら、これってまさか本物? と、疑問をくちにしようとした。しかし、床の軋む音がして弾かれたように振り向いた。
 リビングのしきいのところに、驚愕の表情でこちらを見ている田中成美がいた。
「誰です、勝手になかに入ってきて」
 ダークグレーの厚手カジュアルパンツに、白いトレーナーを着ている。記憶にある通り、清潔感のある男だ。ただ、片手に包丁を持っていた。
「そこを動かないでくださいね」
 ミラが命じると、男はぴたりと動きを止めた。不可視の力で躰の自由を奪われたのだ。見開いた瞳に、本物の驚愕と怯えが浮かんでいた。
「こっちです」
 ミラは立ち尽くす男を放置して、迷わず廊下を進んでいく。陽一は、棒立ちの男をちらちら見ながら、ミラの後ろを追いかけた。
 突き当りの一室に入ると、まるで研究室のような雰囲気に驚かされた。
 壁棚に、種々さまざまな道具類が、取りだしやすいよう配慮された絶妙の配置で並んでいる。万能鍵束、小型の望遠鏡、懐中電灯、鋸のついたナイフ、高級カメラ、注射器、薬品の小瓶、等、等。それらの用途を考えると、不吉な気持ちに捉われる品々である。
 無数の薬品瓶にはラベルが張られ、どれも整然と正面を向いて並べられていて、秩序への異常な執着を感じる。
 部屋には二つ扉があり、そのうちの一つに、ぼぅっと光る存在がいた。
 あの子だ。
 陽一はもう迷わなかった。彼女は、最初からずっと、理沙の危険を知らせようとしていたのだ。
「いこう」
 陽一が声にだすと、ミラはちらっと視線をよこした。少女はもう消えている。
 ミラが扉を開けると、真っ暗で何も見えなかった。壁に電気のスイッチがあり、ぱっと冷光灯が点いた。細い階段が伸びている。
 閉塞感のある階段の淵に立ち、陽一はざわざわざと怖気おぞけ立ったが、ミラは迷わず長身を屈めておりていく。陽一も勇をしてついていくと、思ったより広い空間があった。
 全く同じ無機質な扉が四つあったが、正解を知っているかのように、そのうちのひとつをミラは開けた。
 窓のない灰色のコンクリート壁に囲まれた部屋で、電気は点いていない。
 薄暗い部屋の檻のなかに、妹がいた。
 蒼白な顔で膝を抱えて縮こまっていたが、陽一を認めるなり、くしゃっと顔を歪めた。
「お兄、ちゃん」
「理沙!」
 陽一は檻の前に屈みこんだ。扉に巻きついたチェーンを見て振り向くと、ミラは心得たように、分厚い鎖を酸で溶かしたみたいにバラバラに壊した。
 鋼鉄の扉が開くなり、理沙はすぐに這いでてきて、陽一の胸に飛びこんできた。
「お兄ちゃんっ!」
 華奢な肩を抱き締めながら、陽一は安堵が熱い波のように押し寄せるのを感じていた。
 肩を掴んでいったん躰を離し、素早く妹の全身に目を走らせた。
「怪我はない? 大丈夫か?」
 ウンウン、と理沙はしゃくりあげながら頷いた。陽一が抱擁すると、理沙も細い腕を首に回してしがみついてきた。
「ふぇ、ぅ……田中さん、連れて、こられてっ」
 気丈にも犯人について伝えようとする理沙の背中を、陽一はなだめるように叩いた。
「判ってる。もう大丈夫だから、家に帰ろう」
 理沙は、陽一の肩に顔をうずめて頷きつつ、鳴き声を押し殺そうとしている。誘拐した男に聞かれることを恐れるように。
 ミラが理沙の手を引き、陽一はその後ろから見守るようにして階段を登り、一階の廊下に戻ってきた。当然、陽一は外へでようとしたが、
「陽一と理沙ちゃんは、外で待っていてください。僕もすぐにいきますから」
 陽一は、弾かれたようにミラを振り向いた。
「ミラもいこう! 早く通報しないとっ」
 まず、ここから逃げることが先決だ。
「それは僕がします。すぐに済みますから、ね?」
 ミラは、この場に不釣り合いなほど穏やかな微笑を浮かべた。
 ――殺すつもりだろうか。
 陽一は真意を探るようにミラを見た。表情からは何を考えているか読み取れないが、ある種の予感があった。
 人として、止めるべきかもしれない。だけど、殺してやりたいという気持ちがあるのも確かだった。罪のない少女を殺した犯人で、妹をこんなにも怖がらせた相手を、家族として、とてもかばう気にはなれなかった。
「……判った」
 陽一は硬い声で返事をすると、理沙の肩をしっかり抱いて外にでた。
 玄関の扉がしまったあと、ミラは踵を返した。リビングに戻ると、さっきと寸分違わぬ位置に佇立ちょりつする田中成美が、血走った目で見つめ返してきた。
「お待たせしました。もう喋ってもいいですよ」
 優雅だが不遜な物言いで、ミラはほほえんだ。菫色の瞳は、毒を含んだ葡萄酒のように輝いている。
 見えぬ拘束から解放されたように、男はその場にへなへなとくずおれて、尻もちをついた。
「ハァハァッ、誰なんだ、君は……っ」
 色を失ったくちびるをワナワナ震わせて、必死に言葉を紡いだ。話しかけるだけで、死にもの狂いの気力が必要だった。
「お前が自宅を売却した買主かいぬしの、文字通りあるじですよ。魔王ミラといいます、どうぞよろしく」
 非の打ち所がない微笑を見て、男の顔は恐怖に歪んだ。
(魔王? 何をいっているんだ?)
 思考が追いつかない。人間離れした美貌だが、角が生えているわけでも、翼があるわけでもない。それでも、ただの男子高校生にはとても見えなかった。彼の正体は何も分からないのに、絶対に勝てない相手だということだけは判る。
「お前のような邪悪な人間は好きですよ。でもね、陽一の家族に手をだすことは赦さない。お仕置きしないといけませんねぇ」
「なに、を……いっている……魔王って、なんなんだ」
 ミラは、獲物に恐怖を味あわせる快感を覚えた。人間を痛めつける。それは野蛮な喜びであり、悪魔のさがなのである。
「よせ、くるな……」
 逃げなければと思うが、自分の周りだけ重力が何十倍にも増したように感じる。信じられないほど激しい肉体の虚脱感に襲われて、一歩も動くことができない。
「ふふ、怖いですか?」
 薄暗がりのなか、ミラの菫色の瞳が魔性を宿して輝く。
「ぎゃあああぁぁッ!!」
 焼けるような痛みに貫かれて、男は絶叫した。オニキスのように艶のある巨大な杭に、床についた左右の手を貫かれているのだ。
「嗚呼……やっぱり、人間を苦しめるのはいいですねぇ」
 ミラは恍惚とした表情を浮かべた。
「僕のこんな姿、とても陽一には見せられないなぁ。だけど、たまには蹂躙したいですよねぇ、悪魔だもの」
「は……は……っ」
 男は息を喘がせながら、食い入るようにミラを見つめた。次に何をされるか判らない恐怖で、心臓が烈しく動悸している。
「生人形にしてもいいけれど、お前が息をしている限り、陽一の気も晴れないでしょうから、やっぱり殺します」
 美しも残忍な笑みを浮かべ、ミラは指をぱちんと鳴らした。
「お前は十日後の今この時間、十七時三十八分に死にます。どこで何をしていても、必ず地獄の使者が迎えにやってきます。いずれにせよ、人間の法の元から逃げられないでしょうけれど」
「な、な……何を、いっているんだ」
 錯覚かもしれないが、心臓に鉄の鎖がからみついたように感じる。凄まじい速さで鼓動を刻み、傍から見てわかるほど、喉もとの脈が拍動している。
 いまにも気を失いそうな表情を見て、ミラは、美しくも残忍な微笑を浮かべた。
「さぁ、生き地獄の始まりですよ。お前の見る世界は、幻覚か奇怪な悪夢か、寝ても覚めても安らぎのない暗黒世界です。楽しんでくださいね」
 魔性を帯びて、菫色の瞳が妖しく光る。
 男は、地面にぽっかり穴をあけた、奈落の淵に立っている気がした。これまで知りえなかった恐怖の味、絶望の色が渦巻いている。
 掌に刺さった杭は幻で、いつの間にか消えていた。流血もしていない。
 逃げなくては、そう思うのに、躰は一歩も動かずに床に張りついたままだ。じっと耳を澄ませる。はぁはぁと荒い己の呼気のほかに、誰かの息遣いが聴こえる気がした。空耳ではない。何かしら生き物が、暗闇のなかを蠢いているのだ。
「ひっ、なん……」
 頭を鷲掴まれて、男は狼狽えた。抗おうとするが、ずるずると廊下を引きずられていく。
「この家は燃やしますから、外にいてください。すぐにお迎え・・・がくるでしょうから」
「は? 何を……痛っ」
 玄関の外に突き飛ばされ、ろくに受け身もとれず地面に伏した。顔をあげると、魔王と名乗った少年は、振り向きもせずに門をくぐり抜けていくところだった。それが、男にとって、ミラを見た最後の瞬間だった。
 ミラは、闇の魔法で地下室から炎をはしらせた。
 炎は意思を持っているかのように、部屋から部屋へ、廊下へと細い途をたどりながら、あちこちに引火していく。じきにこの邸は炎に包まれるだろう。
 離れたところで、身を寄せあう兄妹がいた。
 遠目にその姿を認めたとき、ミラは、自然と笑みが零れるのを感じた。傍に近づいていき、
「お待たせ」
 優しく笑みかけると、緊張に強張った陽一の表情が、安堵に和らいだ。信頼に満ちた眼差しを向けられ、ミラは奇妙なむず痒さを覚えた。ついさっきまで浸されていた悪辣な情動が薄れ、陽一を抱きしめ、愛したい衝動がこみあげる。全く、悪魔にあるまじき感情だ。
「帰りましょう」
 ミラは、理沙を抱えた陽一ごとくるりと腕のなかに抱きとり、瞬間移動しようとした。待って、と陽一は焦った声で止めた。
「通報しないの?」
「もうしました。間もなくサイレンとライトの点滅であふれかえりますよ。騒がしくなる前に、いとましましょう」
「でも、警察の人に説明した方がいいんじゃ?」
「オデュッセロ」
 ミラが名前を呼んだ瞬間、足元に一部の隙もないスーツを着込んだオデュッセロが顕れた。
「後は頼みました」
 ミラは端的に命じた。
「お任せください」
 オデュッセロが恭しく跪いたまま答えると、ミラは、今度こそ瞬間移動した。
 自宅前に戻ってきても、理沙はまだ、陽一にしがみついて泣いていた。すっかり気が動転していて、ミラがいることや、突然オデュッセロが現われたこと、瞬間移動したことにまで気が回らないようだ。
「理沙、もう大丈夫だよ。家に帰ってきたから」
 おんぶしている理沙を軽く揺らすと、いやいやをするように理沙は頸を振った。
「こ、怖かった……ニュースで見たから、女の子が誘拐されたって。だから、私も、殺されるんじゃ、って……っ」
 負ぶった背中から嗚咽の振動が伝わってくる。小さな躰で、胸骨が折れそうなほど泣きじゃくっているので、陽一は優しく背中を揺らしながら心配になる。
「もう大丈夫だよ、家に着いたから。母さんが待ってるよ」
 ミラは、理沙の手をとり、優しく握りしめた。
「理沙ちゃん、“君は誘拐なんてされていない”。家に帰る途中で転んで、意識を失っていたんだ。それも軽い脳震盪だから心配いらない。陽一が見つけて、家に連れて帰ってきたんだよ。もう大丈夫、どこも悪くないし、何も怖いことはないよ。ぐっすり眠って起きたら、いつもと同じ朝が始まるからね」
 理沙は暗示にかけられたように、虚ろな表情をした。嗚咽は弱くなり、呼吸も落ち着いて、間もなく眠りに落ちた。
 陽一は、妹の穏やかな表情を見て、それからミラを見て、期待のこもった疑問をくちにした。
「もしかして、催眠?」
「ええ。陽一の御両親含めて、関係者全員の記憶を上書きしました。犯人は昔からあそこに住んでいて、遠藤家と関わりはありません。僕と陽一は、理沙ちゃんの病院のつき添いから戻ってきたことにしました」
「本当に?」
 悪魔はそんなこともできるのか。不安げに訊ねる陽一の髪を、ミラは優しく撫でた。
「心配いりませんよ。この家の元隣人は殺人犯ではなく、無害な人間です。犯人がこれからするであろう自白は支離滅裂で、理沙ちゃんの名前がでてくることは決してありません。それが真実・・です」
 陽一は、力なく頷いた。色々なことがありすぎて、正常に考えられない。でも、きっとこれが最良の方法なのだ。
 元隣人に、妹が誘拐された事実が世間に知られでもしたら、家族のプライバシーは侵され、下劣なネットや衆人好奇の餌食にされてしまう。特に妹の心には、想像もつかないほど大きな傷を残してしまうだろう。生涯消えないかもしれない。ごく普通の幸せな十歳の女の子として、生きられなくなってしまう。
 だから、これで良かったのだ。
「……ありがとう、ミラ。理沙を寝かせてくるよ」
 陽一はミラに礼をいうと、自宅に戻った。
 すぐに心配そうな表情の母がやってきて、陽一の背にいる理沙の髪を撫でた。
「頭を打ったの?」
「少しね。大丈夫、疲れて眠っているだけだよ」
 陽一は安心させるように母にいって、妹をベッドまで運んだ。母も後ろをついてきて、ベッドに横になる理沙を心配そうに見た。
「こぶになっていない? 冷やさなくていいのかしら」
 そういって、心配そうに理沙の頭を撫で摩る。
「あー……お医者さんは、平気だって話してたよ。朝になれば、元気に起きてくるよ、きっと」
 薄っぺらい言葉だが、絶対に大丈夫だという確信が陽一にはあった。母はまだ心配そうにしていたが、そうねと頷き、部屋の電気を消して静かに扉を閉めた。
「ミラ君も病院に付き添ってくれたんでしょう? よく御礼をいっておいてね」
「うん」
「ミラ君、御夕飯はまだかしら? 誘ってみたら?」
 陽一はちょっと考え、頸を振った。
「今日は色々あったから、また今度にしよう」
「そう?」
 母はちょっと残念そうだが、そこで引き下がった。その後、ふたりで食卓を囲み、あれこれ訊かれるかと身構えていた陽一は、いつも通りの母を見て拍子抜けした。
 あれほどのことがあったのに、隣人が殺人犯だったのに、母は何も疑問に思うことはなく、理沙は転んで頭を打っただけだと信じている。警察から電話がかかってくることもなく、いつもの穏やかな食卓だった。
「……ごちそうさま」
 空いた食器を運ぼうとしていた陽一は、緊急ニュース速報を見て、硬直した。
<【速報】少女誘拐・殺人容疑で東京都江東区在住の田中成美(五十三歳)の身柄を拘束しました>
 テレビ画面に流れるテロップを見て、あら、と母が驚いた声をあげた。
「とうとう捕まったのね。良かった」
 その声は、まるで他人事のように響いた。
 犯人の名前を見ても、何かを思いだした素振りはない。隣人だったことを完全に忘れているのだ。
 陽一はいてもたってもいられず、家を飛びだして、ミラの家のインターホンを鳴らした。いつものように、ミラはすぐに玄関先に顕れた。
「ニュース見た? 捕まったって」
 開口一番に訊ねると、ミラは腰を屈めて、陽一の目線にあわせた。
「陽一が今、感じている恐怖を」
 ミラは穏やかにいった。ミラのくちびるが、陽一のくちびるのうえを漂う。
「僕なら止めることができる。今、すぐに」
 甘く芳醇な吐息を吸いこむと、陽一の気持ちは穏やかになった。恐怖と混乱が少し和らいだので、感謝の気持ちをこめて、ミラの目を見つめ返した。
「……ありがとう」
 ミラは優しくほほえんだ。
「どういたしまして」
 とろりとした蜜のような声だと思った。柔らかい菫色の眼差し……こんなに優しい悪魔は彼のほかにいない。
 不意に視界が滲んだ。瞬きして、熱い涙を押し戻そうとする。くちを開こうとしたけど、胸につかえてでこない。ぽろっと涙がこぼれ落ちた瞬間、ミラに抱き締められた。
「よく頑張りましたね、陽一」
 温かな腕と甘い香りに包まれて、陽一は躰から力を抜いた。
 ――いつもみたいに“ご褒美をください”くらいいうかと思ったのに、そんな風にいうなんてずるい……
 彼がこんなにも近くにいるという感覚が、波のように押し寄せ、張り詰めていた緊張の糸が切れるのを感じた。
「良かった、本当に……どうなるかと……っ」
 ぐっと喉がつまって、目の奥が熱くなる。泣きたくないのに、くちびるが震えた。
「ぅ……ありがとう、本当に……っ」
 悪夢のような危険を脱したのだ。映画みたいに。奇跡のように。
 世界で一番安全だと思えるミラの腕のなか、上質のシャツの肌合いを頬に感じながら、サンダルウッドをおびた柑橘の香りを吸いこんだ。
「ねぇ、泣かないで……そんなに辛いのなら、陽一の記憶も消してあげましょうか?」
 陽一はちょっと考えて、頸を振った。
 今夜起きたことは、生涯忘れられない最悪な出来事になりそうだが、ミラが傍にいてくれたこと、力になってくれたことまで忘れたくなかった。
「いい、大丈夫……ありがと……」
 背中に手をまわすと、抱きしめる腕が強くなった。背中にあてられた大きな手の感触がひどく安心する。
 ミラはうつむき、くちびるで陽一の髪に触れた。
 このようなこと、人間界のあらゆる事象は、ミラにとって些末に過ぎない。泣き叫ぶ人間なんて飽きるほど見てきたのに、陽一の涙には心を掻き乱される。
「僕がいます」
 涙のあとを、優しく指先がぬぐう。薔薇のような吐息が、まつ毛に触れるのを感じて、陽一は目を閉じた。
「どんな危険も怖くありませんよ。僕がついているんだから」
「うん……」
 陽一はしゃくりあげながら、春風に優しく堅氷けんぴょうが溶かされるように、自分の麻痺した心が解きほぐされていくのを感じていた。
 ふたりはくちびるが触れあいそうになるほど近くにいた。ミラの両手はまだ、陽一の頬をしっかりと手挟んでいる。
 濃密な香りに胸を満たされて、ミラの欲望を刺激される。けれども、震えている陽一を見ると胸が詰まった。妹の前では気丈に振舞い涙を見せなかった陽一が、ミラの前では身を震わせて泣いている。いじらしくて、愛おしくて、彼がすっかり笑顔に戻るまで、ただ優しく抱しめていてあげたい。
 悪魔にあるまじき優しい慈しみの心で、ミラは陽一の額にキスをすると、そっと胸のなかに抱きしめた。