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8章:俺たちの日常 - 10 -

 一月四日。午後一時。雲一つない晴天。燦燦と陽が降り注ぐ、絶好の観光日和だ。
 意気揚々と陽一はミラの家のインターホンを鳴らした。すぐに現われたミラは、シックな黒のコート姿で黒い手袋を身に着けていた。いつものラフな格好もいいけれど、こういう大人っぽい恰好もよく似合っている。
「こんにちは、陽一」
「うす」
 陽一は、軽く手をあげて応えた。オレンジのニット帽にブルーのダウンジャケットを着ているが、風もなく陽気なので、少し暑いくらいだ。
「帝釈天前までバスでいこうぜ」
 そういって停留所に向かって歩きだすと、ミラは不思議そうな顔で横に並んだ。
「バスって?」
「バスに乗るの初めて?」
 陽一はミラを見た。
「見たことはあります。目的地まで、何度も停車する乗り物ですよね? そんなものに乗らなくても、僕なら直通で一瞬でいけますよ」
「それじゃ情緒がないだろ。今日は魔法禁止。人間の流儀にのっとって、俺とバスに乗るんだ」
 お正月でバスは混雑していたが、ミラは陽一の隣でおとなしくしていた。
 目的地である柴又帝釈天で下車すると、すぐ目の前に石畳の帝釈大参道が見えた。
 柴又は映画“男はつらいよ”の舞台であり、観光名所である。いつも賑わっているが、今日はとくにお正月なので、大勢の参拝客で賑わっていた。
「ここをまっすぐ進んでいけば、柴又帝釈天だよ」
 参道の両側には、趣のある店舗がひしめき、古きよき下町の風情がある。
 左右に並ぶ店を物珍しそうに眺めていたミラは、寅さんを模した大きな人形の前で脚を止めた。
「フーテンの寅さんだよ。映画“男はつらいよ”の主人公なんだ。柴又は映画の舞台として有名なんだ。あちこちの店に、監督や俳優の直筆サインとか、映画のロケ写真とか飾られてるよ」
「へぇ、観光名所。だから人間が多いんですね」
「お正月だから特にね。皆、帝釈天に参拝しにきているんだよ」
 陽一は団子で有名な“とらや”の前で立ち止まった。実際に映画の撮影にも使われたお店で、店内には映画のポスターがずらりと並んでいる。
「せっかくだし、柴又名物の団子食おうぜ」
 草団子と焼き団子を一串ずつ買い、草団子をミラに渡した。ミラは躊躇なく、ボリュームのある草団子にかぶりついている。
「もっちりしていますね」
「もちだからね。気に入った?」
 ミラは頷いた。貪っていても美男子である。
「初めてくちにしましたが、なかなか美味です。香りも良いですね」
「俺も草団子いっこちょうだい。醤油もうまいよ」
 お互いの団子を交換した。草のいい香りと、あんこの優しい甘味がくちいっぱいに拡がって、幸せな気分になる。けっこうボリュームがあるので、ひと串食べるだけでも腹にたまる。
 それから、駄菓子屋や土産屋さんをのぞいた後、高木屋老舗でよもぎと醤油せんべいを買い、茶を飲みながら一休みした。ミラは遠藤家でせいべいを食べてから、せんべいがけっこう好きなのだ。今もどこか嬉しげにバリバリ貪っている。
 食べ終えると、ふたたび参道を進んでいき、つきあたりまでたどり着いた。境内に入ると、参拝客でにぎわっていた。まっすぐ帝釈堂に進んでいくと、陽一はミラに小銭をいくらか手渡した。
「これは?」
「順番がきたら、お賽銭箱にお金をいれて。それから、こんな風に手をあわせてお祈りするんだ」
 陽一は手をあわせてお祈りするフリをした。
「祈願の幣帛へいはくですか? なら僕が用立てましょうか? 五億円くらい」
「多いから。金額は重要じゃないから、いいんだよ。こういうのは、御祈りする気持ちが大事なんだ」
「神に祈らなくたって、陽一の願いなら、僕がなんでも叶えてあげるのに」
「気持ちは嬉しいけど、これはなんていうか、お正月のイベントみたいなものだから。まぁ、やってみてよ」
「僕が本気で祈ったら、神が聴き容れちゃいますけど。ここに降臨しちゃうかも」
「それはちょっと……心のなかで、挨拶するくらいにしておいて」
 雑談しているうちに、自分たちの番がきた。陽一が小銭投げ入れ、手をあわせる様子を、ミラは横目で観察しながら真似ている。魔王が参拝するとは、柴又帝釈天も驚きだろう。
 ふと、ミラの輪郭がきらきらと神々しい光で輝きだしたので、陽一はぎょっとした。周囲の人も動揺している。
「何をお願いしたの!?」
 陽一は、御祈りを終えたミラの手を引っ張って、列から離れながら訊ねた。
「お願いはしていませんよ、ただ、人間界での日々の感想を伝えただけです。なぜか祝福されました」
 陽一は、ほっとした顔で笑った。
「なんだ、良かった。神様に祝福される悪魔ってのも、なんか面白いね」
「そうですか?」
「立場的に、天敵同士だと思うじゃん。でも仲が良いよね」
 ミラがすごく厭そうな顔をしたので、陽一はまた笑った。
 帝釈天の裏道を通って、近くにある観光名所“矢切の渡し”に向かった。
 土手にあがると、江戸川の水面がきらきら光っていて、爽やかな風に吹かれて、すこぶる気持ちいい。
「ここが“矢切の渡し”だよ。柴又と対岸の千葉県を結ぶ渡し船で、映画や小説の“野菊の墓”にも登場する観光名所だよ」
「へぇ、川を渡るために船を……」
 ミラのいわんとすることを察して、陽一は軽く睨みつけた。
「不便とかいうなよ。伝統と風情なんだから」
「いいませんよ。陽一と一緒なら、風情も良いものですね」
「そうだろう。夏はさ、江戸川で花火大会があるんだ。葛飾納涼祭と松戸の二か所であるんだけど、俺は毎年、葛飾納涼祭にいっているよ。今年はミラも一緒にいこう。屋台で食べ物買って、河川敷にシート広げて眺めるんだ。すげー気持ちいいよ」
 話ながら陽一は、ミラに色々なものを見せてやりたい気持ちになった。
「ありがとう、陽一。とても楽しみです。陽一と一緒に街を散策するのは楽しいですね。人間界にきてよかった」
 そういってミラは、笑みを深めた。陽一は面映ゆい心地で視線をそらした。
「……うん。俺もミラに案内できてよかった」
 前にミラが楽園コペリオンを案内してくれたように、陽一もミラに、地元を案内したいと思っていた。ようやく実現できたのだと思うと、感慨深いものがある。
(……ミラ、変わったよなぁ)
 陽一は、水面を眺めるミラをさりげなく窺い、その端麗な横顔に魅入った。
 鳥籠に囚われていたときは、こんな日がくるなんてとても信じられなかった。あの頃はただ、いつもの日常に戻りたいと切望していたけれど……
 まさか、ミラが隣人になるとは思わなかった。でも悪くない。悪くないどころか、すごく楽しい。刺激的で、時にはこんな風に穏やかな時間を共有することもあって……これが、新しい日常なのだ。
 いつもの日常。
 当たり前のように、ミラと過ごす毎日。今日も、明日も、これからもずっと。

 陽が暮れる頃には観光を切りあげ、ミラと一緒に遠藤家に戻ることにした。今夜は夕飯に招いているのだ。
 再びバスで移動し、帰宅すると、味噌と生姜の良い匂いがした。手洗いを済ませてからリビングに入ると、小花柄のエプロン姿の母が振り向いた。陽一とミラを見て笑顔になる。
「いらっしゃい、ミラ君。この間は、理沙を見てくれてありがとうね」
「いえ、どういたしまして。今夜はお招きありがとうございます。これは陽一と僕から、お土産です」
 母は嬉しそうに、とらやの草団子を受け取った。
「あら、ありがとう。帝釈天はどうだった? 混んでいたでしょう?」
「ええ、人が大勢いましたよ。人間は群れるのが好きですよねぇ。天使の腕輪がなければ、危うく殺、」
 すかさず陽一は肘鉄をいれてやった。ミラはお愛想笑いを浮かべている。母はキョトンとした顔をしたが、すぐに笑顔を父に向けた。
「お父さん、ほら。陽一とミラ君から草団子頂いたわよ」
 ソファーで真剣な顔でiPadを眺めていた父は、イヤホンをはずすと、嬉しそうな顔で頷いた。草団子は父の好物なのだ。
「ミラ君、陽一、文化祭の演奏すごいじゃないか」
 陽一はぎょっとして父の手元を覗きこんだ。
「やめて、恥ずかしいから! 俺のいるところで見ないで」
「照れることないだろう、いい演奏だよ。すごい盛りあがっているじゃないか」
 陽一は素直に頷いた。
「うん、盛りあがった。楽しかったよ。けど、演奏してる時のテンション高すぎて、後から冷静になって見ると、恥ずかしいっていうか」
「はは、それだけ夢中になれたってことだろ。動画の再生回数もすごいしな。ビリオン達成おめでとう! 偉業だよ」
「ありがとう」
 陽一は照れ隠しに頭をがしがしとかいたが、隣にいるミラは平然としている。文化祭の動画は世界的にバズって、ミラはすっかり有名人だ。色々な国の、様々な人がカバー演奏してくれているし、ミラには各方面からのスカウトが絶えないようだが、そんなものに興味はありませんって顔で(実際ないのだろう)飄々ひょうひょうとしている。
「それにしてもミラ君、歌うまいねぇ! ピアノもすごく上手だし、いつからやっているの?」
 父の言葉に、ミラはちょっと嬉しそうな顔で笑った。人間に興味のないミラも、陽一をはじめとする遠藤家の面々には、親しみを感じてくれているらしい。
「ありがとうございます。ピアノは文化祭で演奏するために、練習しました」
「えっ、未経験者だったの?」
「はい」
「短期間で、よくここまで上達したね。何か楽器をやっていたの?」
「そうですね……弦楽器、ギターを少々?」
「へぇ! そうなの。陽一もギター好きだし、ふたりは部活も一緒だよね、本当に気があうんだなぁ」
 にこにこしながら父が感想をこぼすと、ミラは陽一の肩を抱き寄せた。
「ありがとうございます、お義父さん。陽一は僕のソウルメイトですからね、気があうんです」
 陽一は照れ隠しにミラの手をはずして、腕を組んだ。なぜか父も照れた様子で反応に困っている。と、微妙な空気を割るように母が手を鳴らした。
「さ、ご飯にしましょ! 陽一、理沙を呼んできてちょうだい」
「はーい」
 助かったと思いながら、陽一は二階へ逃げた。理沙を呼びにいくと、少女漫画に夢中になっていた。ミラがきていると聞くなり、目を輝かせて一目散にリビングにおりていき、食卓前に着席しているミラを見て笑顔になった。
「ミラ様、いらっしゃい!」
「おじゃましています、理沙ちゃん」
 ミラは、綺麗な笑顔でにっこりした。
 理沙の目がハートになっている。妹にとってミラは、まさしく理想の王子様なのだろう。実際、魔界ヘイルガイアの王様なので、あながち間違ってもいない。
「理沙、運んでちょうだい」
「はぁい」
 母に呼ばれて、理沙は慣れた手つきで給仕を始める。
 オフホワイトのテーブルに、北欧製の大皿や色硝子が並べられていく。
 今夜のメニューは、麻婆豆腐、生姜と鶏胸肉の煮込み、白身魚のカルパッチョ、とろろ汁。どれも美味しそうだ。
 ミラは、麻婆豆腐を匙ですくいながら、表情をほころばせた。
「わぁ、血と粉砕したかばねの煮汁みたいですね。食欲をそそる香り。とても美味しそうですね」
 笑顔は美しいが、感想がひどい。
「どんな例えだよ。普通に美味そうっていえよ」
 陽一は横眼でにらんだ。
「美味しいです」
 ミラはひとくちふくみ、にっこりした。母と妹が笑顔になる。
「こうして団欒だんらんに混ぜてもらえて、光栄ですよ」
 その言葉に、父と陽一も笑顔になった。
 家族の食卓にミラがいることが、ごく自然だと思える。家族は当たり前のようにミラを受けいれていて、ミラも陽一の家族を受け入れている。
 そう感じることが、陽一はとても嬉しかった。




*




 星が輝いている。
 少女の心は自由で、どこにでもいけたし、風になることもできた。穢れが祓い落とされ、魂が澄みわたっているから。
 あの女の子は、もう大丈夫。気づいてくれた人に、御礼をいうこともできた。
 不思議な人だった。とても怖い……強い……なにか・・・の傍にいるのに、優しくて暖かい灯りのようだった。
 彼らのおかげで、あの男の悪事を暴くことができた。もう、思い残すことはない。
 ううん、あとひとつ……
 家族の様子を見にいくと、弟と父は、リビングのソファーでくつろいだ夜を過ごしていた。
 母は、少女の部屋にいた。
 ずっと部屋に入るのを躊躇っていた母が、ようやく少女の部屋の扉を開けてくれた。
 嬉しい!
 ずっと待ってた。良かったぁ……安心した。もう大丈夫、前に進んでいける。

“ありがとう、みんな大好き……”

 最後に、優しい風になって、弟と父の足元を撫で、ベッドに頬を押しあてている母の髪を撫で、夜空へ浮かびあがった。
 なんて温かい光……
 夜空の星のように、無数の光の粒が瞬いている。
 御仏の送られた光が、金光燦爛きんこうさんらんと降り注ぎ、優しく照らしてくれる。
 天国のきざはしに、友達の姿が視える。一千と百億の釈迦世界に旅立つ前に、迎えにきてくれたのだ。

“待っていてくれて、ありがとう”

 想いをこめて手を伸ばすと、友達も笑って手をさしのべてくれる。
 もしも生まれ変わることができたら、また、あなたと友達になりたい。
 今度は哀しい縁ではなく、衆生しゅじょうに出会い、色々なところへ一緒にいきたい。夢幻の世界を遊んだように、現世うつしよで遊び、お洒落を楽しんで、たくさんお話をして、一緒に大人になりたい。

“また、会えるといいね……”

 儚く愛しい少女たちの願いは、きっと――