HALEGAIA

4章:終わりの始まり - 8 -

 目が醒めた時、陽一はベッドのなかで、ミラに背中から抱きしめられていた。
 あんなに反発しあったあとで、躰を重ねて、並んで横になり、穏やかな眠りに就いたことが信じられない。
 けれども、久しぶりによく眠り、躰中に幸福感が満ち溢れるのを感じている。
 流されてしまった気もするが……ミラが泣くからいけないのだ。
 ミラの涙は衝撃的だった。
 まさか無敵のミラが、陽一のことで泣くとは思わなかった。あの涙を見てしまったあとでは、もう、決然と拒みきれなかった。
(あーあ……俺のバカ……)
 奇妙な敗北感が胸を浸すが、今さらである。
 彼が諸悪の根源ではあるのだが、森に置き去りにされた時も、地上に連れ去られた時も、魔物に襲われた時も、心が壊れかけた時ですら、ミラは助けてくれた。殺人淫楽狂のどうしようもない悪魔なのだが、純粋な好意も示してくれて……憎みきれないのだ。
(どうせ逃げられないしなァ……)
 無限大の宇宙にいます神でも不可能なのに、他の誰が、陽一をここから逃がしてくれるというのだろう?
 逃げられない、死ぬことも許されないのなら、自己憐憫に身を焦がすよりも、より良くあろうと行動する方が精神的に楽だ。
 神も生きよとおっしゃる。
 ならば与えられたこの状況で、ありのままの状態で、生きていくしかないのではなかろうか。
 幸いにして、神の与え給う秘蹟ひせきのおかげで、ミラの支配は陽一に及ばない。絶望的な奴隷になりさがることだけは免れた。
 考えようによっては、ミラと対等につきあっていける可能性があるということだ。
 狂気の沙汰かもしれないが、陽一も、ミラのことをろうとしてみても良いのかもしれない。求めるばかりではなく、視野を広げるのだ。
 そうすれば、もしかしたら、いつの日か、分かりあえるようになれるかもしれない。友達になれるかもしれない。
 ――友達?
 悪魔と人間に、友情が芽生えるなどありえるのか?
 考えた傍から疑心が芽吹くが、やってみないことには始まらない……煩悶していると、不意打ちで髪を撫でられた。
「おはよう、陽一」
 耳元で、気だるげな声に囁かれ、陽一は朱くなった。おずおずと振り向くと、稀有けうな菫色の瞳が優しく細められた。
「はよ……」
「何を考えていたんですか?」
「別に……」
 陽一は視線を泳がせたが、少し迷い、再びミラを見つめた。
「あのさ……ミラはさ、俺のこと、好き?」
 自分で訊いておきながら、陽一は頬が熱くなるのを感じた。なんだろう、この甘酸っぱい空気は。そもそも、裸で抱きあっているのがいけない。
「やっぱ、今のなし」
 陽一は起きあがろうとしたが、ミラは、陽一の額を優しくおさえつけ、自分の胸の方へ引き寄せた。
「好きですよ」
 耳もとで囁かれて、陽一はぞくぞくとした震えが全身に走るのを感じた。
「そ、そっか……」
「はい」
 腕のなかで、めずらしく陽一がじっとしているので、ミラは訝しむように陽一の顔を覗きこんだ。
「陽一?」
「ミラはさ、俺のこと……大切?」
「とっても大切ですよ。急にどうしたんですか? そんなかわいいことを訊いて」
 陽一は視線を彷徨わせた。
「あのさ、俺もミラのこと嫌いじゃないよ。でも、さ……俺、やっぱり家族のいる家に帰りたい」
 このようなことをいっても、以前のミラであれば悪魔の微笑で流しただろう。けれども今は、神妙な表情で黙っている。陽一の言葉を噛み締めて、よく吟味しているように見えた。その様子に勇気づけられ、陽一は閃きを口にした。
「だからさ、ミラが会いにくればいいと思うんだ」
「え?」
 虚を突かれたような顔のミラを見て、陽一は上半身を起こし、まくしたてた。
「俺には無理だけど、ミラなら、魔界ヘイルガイアと俺のいる世界を行き来できるんだろう?」
「それはまぁ、そうですが」
 ミラも起きあがり、髪を手櫛で整えながら、陽一の瞳を覗きこんできた。
「じゃあさ、ミラが会いにくればいいじゃん」
「陽一に会いに? 僕が?」
「そうだよ。退屈してたんでしょ? ちょうどいいじゃん。今度は俺が地元を観光案内するよ」
 ちょっと傲慢にいうと、ミラは小さく笑った。陽一は勢いづいて、さらに続けた。
「あのさ、俺のこと大切に思ってくれるなら、もう、怖いことはしないで。俺ビビりだから、無理だよ。見るのもだめ。正直、まだ少しミラのこと怖いし……」
 ミラは困ったような表情を浮かべた。
「怯えることはないでしょう? こんなに優しくしているのに」
「……うん。でもさ、ミラを怒らせたら、八つ裂きにされるのかな……とか、考えちゃうじゃん」
「本当にそんな心配をしていますか? 僕から見れば、陽一は悪魔を舐め過ぎですよ」
 ミラは少し拗ねたようにいった。
「いやいやいや……いっておくけど、誘拐、セクハラ、虐待、諸々の罪で、俺のいた国なら、間違いなくミラは刑務所行きだからね?」
「はいはいはい。全く、そんなにつけあがって……僕だからいいけれど、他の悪魔にいえば即刻殺されますからね」
 陽一はむっとした。
「俺には、帰る家があるんだ。心の底から帰りたいんだっていう俺の気持ちを、先ず判ろうとして。その上で、どうすれば理解を得られるのか模索して。力づくじゃなくて、傷つけるんじゃなくて、それ以外の答えを俺に示そうとして」
 それは懇願というよりも、真剣な要求だった。ミラは腕を組んで陽一を見つめた。
「そんな面倒な手続きを踏んで、どんな見返りがあるのですか?」
「ミラのこと、好きになれるかもしれない」
「僕がその気になれば、陽一を永遠に魔界ヘイルガイアに閉じこめておけるんですが?」
 陽一は頷いた。
「判ってるよ。ミラがなんでもできるということは。でもさ、手間暇をかけて楽園を作ったんだから、創造するのは嫌いじゃないんだよね? だったらさ、俺との関係構築も、創造の延長だと思わない?」
「ふぅん?」
 ミラの瞳が楽しそうに煌めいた。
「ものは試しに、俺と真面目におつきあいしてみませんか?」
 陽一は真剣な口調でいった。ミラは目を瞠り、くすっと笑った。
「真面目におつきあい? そんなこと、初めていわれました」
「わくわくするだろ?」
「……そうですね、ちょっと面白そう、かな?」
 陽一は期待に目を輝かせた。
「俺たち、今までが普通じゃなさすぎたんだよ。先ずは、普通に友達になろう」
 ついにミラは、笑い声をあげた。
「ふふ、普通に友達かぁ……そうですね……神にもりなさいといわれたし……陽一の“お願い”ですものね」
 頬を包まれて、唇にちゅっとキスされる。赤くなる陽一を見つめて、ミラは、思わずうっとりするような笑みを浮かべた。
「陽一は僕の顔が好き?」
「へ? ……まぁ、綺麗だなって思うけど」
「僕も、陽一の顔が好きですよ。不揃いで歪で、間抜けで、とってもかわいい」
 鼻の頭にちゅっとキスをする。陽一は朱くなりながら、睨みつけた。
「ディスッてるだろ」
「褒めているんです。意志の強そうな瞳も好きですよ。怯えることなく、僕をまっすぐに見つめるから、すぐに惹かれました」
「それはどうも……ていうか、何この会話。恥ずいからやめて」
「お互いのことをよくるためですよ」
 甘くささやくような声だった。腰をぐっと引き寄せ、
「陽一は僕のものですよね……」
 暖かな唇が、陽一の首に押しつけられる。僕のもの、穏やかな口調なのに独占欲が滲んでいて、背中がぞくぞくする。
「ッ、こら、離せ! 先ずは友達からだ。そして俺を家に帰せっ」
 陽一が怒鳴ると、ミラは楽しそうに笑った。屈託のない、心にすっと沁みいる笑みだった。
「判りました。家に帰してあげます」
「マジかっ!?」
「ええ。今度は僕が、陽一の世界に遊びにいきますね」
 ミラはにっこり笑うと、陽一の顔に、みるみる驚愕が拡がっていく様子を見守った。彼が見せた感謝の笑顔は、軍馬に跨って翔けたあとに見せた、あの笑みを彷彿させた。
 黄昏よりも艶やかで、空に輝く数多の星のように明るい笑顔。陽一の心が、警戒によろわれていた心が綻んで、ミラに向かって開いていくのを感じる。
 その瞬間、放埓な悪魔とは対極にある感情が、ミラを満たした。
 清浄な歓び、慈愛、親愛、たえなる焔の高揚――恋ひ初めし胸の高鳴り……魂の交感のもたらす暖かな煌めきとを感じる。
 嗚呼。もう陽一を知る前には戻れない。陽一を、ミラなしに生かすこともできない。
「“また会いましょうね、陽一”」
 吐息を吹きこむように囁いて、ミラは陽一の耳に軽くキスをした。
「ミラ……?」
 奇妙な予感が胸にきざし、陽一はミラの胸に手をついた。なにかをいおうとしたが、揺りかごのような、抗いがたい睡魔に襲われた。
 今起きたばかりなのに、なんだか眠くて、瞼が勝手におりてくる……抱きしめてくれる腕を感じながら、静かにゆっくりと、花びらが舞うようにして、意識は、無限大の宇宙へ落ちていった。