HALEGAIA

4章:終わりの始まり - 6 -

 無数に突き伸ばされた腕が、陽一を串刺しにせんと頭上から襲いかかる!
 神かりの陽一に直撃することはなく、紙一重で地面を穿つが、ドスドスッと槍のごとく地面に突き刺さる無数の腕に、陽一は絶望的恐怖を味わった。
「ひぃっ、やめて、助けてッ」
 涙声で懇願しながら、必死に逃げる。襲いかかる腕を逃れて走る様は、死の舞踏を踊っているようにも見えた。
 藪で手足を痛めようとも、無我夢中の盲滅法めくらめっぽうに走ったが、足場は悪く、とうとう蹴躓いて転んでしまった。慌てて起きあがろうとするが、あまりに弱り、あまりに混乱しているせいで、平衡を保てなかった。悪態をつき、土に指を食いこませ、どうにか起きあがった時には遅かった。
 蛇のように鎌首をもたげた無数の腕に、四方を囲まれている。今にも襲ってきそうな、腕、腕、腕、腕、腕、腕、腕。
 どの腕の掌にも、翡翠の瞳がぎょろりと埋まっていて、逃がさないぞ、とばかりに陽一を見ていた。頭が真っ白になる。
「ミラ、ミラッ――――!」
 舌をもつれさせながら、唯一絶対な悪魔の名前を連呼した。
 刹那、光が錯綜した。
 灼熱の焔をまとった閃きが走り、ジュピターの無数の腕を横薙ぎに一閃した。
「ぎゃあぁあッ」
 ジュピターの絶叫が轟いた。うねうねと無数の腕を揺らし、切断面から鮮血を吹きあげている。一刀両断したのはベムブリンガムの刃――操るは魔界ヘイルガイアの王、ミラだ。
 血を垂れ流しながら、ジュピターは、天を仰いで恍惚としていた。この時を待ち望んでいたかのように、爛れた顔に愉悦を浮かべ、翡翠の瞳を歓喜に潤ませた。
 おぞましい、変わり果てた姿になっても、無防備に心酔しているジュピターの瞳には、夢みるような色が浮かんでいた。
 ミラは紫に輝く瞳で睥睨すると、剣を持ったまま、幾重もの魔法陣を展開した。

“我は――なり。我は久遠の郷土ヘイルガイアを支配する者にして、魔界ヘイルガイアの意志であり、血である”

 恐ろしくも美しい、非現実的な、賛美歌のような詠唱。彼だけが履行できる魔界ヘイルガイアへの概念干渉である。そのあとに紡がれる誓約は、破壊と思われたが――

きよ、黄金を司りし全能の神よ。我が名において、堕天使に制御と神癒しんゆ祝福めぐみ給え”

 たえなる旋律が、円蓋のように拡がっていき、黄昏の空から黄金の光が射した。魔界ヘイルガイアに清浄の光が届く。ミラの詠唱に、神が応えたのだ。

“我が声に従え、ジュピター。汝の真の名により、我は汝をいと高き天界パルティーンから解放し、隷属の真理に遠藤陽一の名を連ね、まどかなる星幽界アストラルへ送り還す”

 茫然と立ち尽くしながら、陽一は、詠唱にこめられた威に圧倒されていた。身のうちに宿した黄金の加護とミラの魔力が、熱くたぎっている。
 この詠唱は、破壊者と保護者による、宇宙規模の祓魔儀式エクソシズムだ。
 ミラは神と共に、聖霊の真理を上書きしようというのか!
 だが、神の威を借りるからには、相応の対価を求められるはずだ。ミラだって神に応召しなければならなくなる。気まぐれで傍に置いている人間に、なぜそこまでして――めまぐるしく思考を働かせている間に、ミラは最後の詠唱を紡いだ。

“我支配の力により、汝は従わねばならぬ。天上天下の不文律に約されたこれらの言葉より、汝は従わねばならぬ”

 不滅の調べ――神と悪魔の二重唱和に、ジュピターは縛られた。動きを完全に封じられ、視線だけを天に向けた。
 天にはぽっかりと黒く巨大な穴があいて、まどかなる大宇宙、星幽界アストラル――聖霊の故郷が覗いている。
 陽一も大宇宙を振り仰いで、幻想的な光景に見惚れた。神秘世界のなんと美しいことか。
汚穢おわいを払い――次は、神に懸想しなさい」
 ミラは、恩赦おんしゃのように告げると、畏怖するほどの美しさで魔剣を振りあげた。
 壮麗なる光の歌劇オペラのように、幾重もの魔法陣が、ベムブリンガムの剣から放たれる。
「ア、アァァ――……ッ!!」
 上位次元の支配に抗うべくもなく、ジュピターの異形も、断末魔も、星幽界アストラルのなかへ溶けこんだ。分解され、再生の工程に入るために。詠唱に約された通り、陽一への嫉視怨嗟から解放されて――
 聖霊を飲みこんだあと、天に開いた黒穴は凄まじい勢いで凝縮し、点となり消えた。
 それは一瞬の出来事だった。
 擾乱じょうらんが鎮まると、空は再び黄昏めいた。
 黄金の斜陽を頬に受けながら、陽一は、愕然と空を仰いでいた。大気に漂う、聖霊の名残を思わせる翡翠の燐火りんかを見つめたまま……
「陽一」
 はっとして振り向くと、菫色の瞳と遭った。陽一は反射的に身構えたが、ミラは魔剣を鞘におさめると、案じる顔つきで駆け寄ってきた。
「大丈夫ですか?」
 ぎゅっと抱きしめられ、ミラの体温、抱擁感、頬に触れる黒髪に、陽一の心は揺れた。
「ミラ……っ」
 躊躇がちに、ミラの背に腕を回す。いっそう強く抱きしめられ、不意に瞼の奥が熱くなった。
「っ……うぅ~~~……っ」
 そんなつもりはないのに、勝手に涙が溢れでる。堪えようとしても、無理だった。安堵や喜び、様々な感情が躰のなかで沸騰し、血のように熱い涙に変わってこぼれ落ちていく。
 陽一は、泣きながらミラの腕が震えてることに気がついて、顔をあげた。そして目を瞠った。
「え……泣いてるの?」
 美しい菫色の瞳から、きらきらした涙が溢れている。驚きのあまり、陽一は泣くのも忘れてミラの顔を凝視した。
 ミラは自分の頬に手で触れると、不思議そうに、濡れた指先を見つめた。
「……本当だ。どうして僕は、泣いているんだろう?」
「え、俺に訊くの」
 ミラは、陽一を見つめて、はらはらと涙をこぼした。柔らかく潤んだ魔王の心に呼応して、遥かなる天空から、優しい慈雨が、ぽたぽたと降ってくる。
「……だって、陽一が呼んでくれたから」
「え?」
「やっと、陽一に触れられたから。抱きしめられるから……っ」
 言葉を失って硬直する陽一を、ミラはぎゅっと抱きしめた。
「傷つけてごめんなさい。もう逃げないでください。お願いです、僕を拒まないでください……陽一の嫌がることはもうしませんから……っ」
 信じられない。あのミラが、さっきまで絶対的な力をふるっていた魔王が、放埓なる悪魔、傲岸不遜ごうがんふそんにして傍若無人ぼうじゃくぶじん、無敵の魔王が、泣いている――なぜ――陽一が名前を呼んだから? 触れられたから?
 陽一は、衝撃のあまり何も考えられなかった。なすがまま、抱きしめられるまま、ミラの腕のなかにいる。どう反応すればいいのかまるで判らなかったが、漠然と胸にきざしたのは、柔らかな喜びだった。
(――え? えっ? 何これ!? ……えぇっ!?)
 じわじわと頬が熱くなっていく。
 陽一は混乱の極致にいたが、ミラの方も陽一を抱きしめながら泣いていて、治まりようのない混沌はしばらく続いた。