HALEGAIA

4章:終わりの始まり - 4 -

 衰弱昏睡した陽一を、ミラは魔王城パンデモニウムに連れ帰り、大理石の装飾が施された壮麗な部屋――ミラの寝室、金襴と天鵞絨ベルベッドの天蓋をしつらえた豪奢な寝台に横たえた。
 外傷を癒し、清潔にして、唇を重ねて精気を与え、細い命を繋ぎとめる。
 陽一は、なかなか目を醒まさなかった。ようやく昏迷状態から意識を取り戻した時、自分がどこにいるのか理解するや、悲鳴を迸らせた。
「ひッ……あぁぁ――――ッ」
 怯えきった悲痛な慟哭は途切れることなく、このまま叫び続けては彼が死んでしまうのではないかと思わせるほどだった。
「陽一、陽一、大丈夫ですから」
 どれだけミラが優しく囁いても、陽一の恐慌は静まらなかった。彼にとって豪奢な城は、いわれのない断罪を受けた忌まわしい場所であり、ジュピターが燃やされるのを見せられた、むごたらしい処刑場に過ぎなかったのだ。
 ミラは仕方なく陽一を鳥籠に戻し、居心地よく過ごせるよう、身の回りの品々を整えた。少しばかり、鳥籠の容積も広くした。陽一が加護の光をまとって触れるのを拒む時は、傀儡を駆使して陽一を風呂に入れたり、寝台に横たえたりと、苦心しながら世話をした。
 悪魔らしからぬ献身的な細やかさだったが、陽一はなんの感慨も呼び覚まさなかった。眠っている時などは特に、死のような静寂に包まれていて、ミラの心は憂愁に沈んだ。
 このまま衰弱死するくらいなら、文字通り永遠の眠りに就かせてしまおうか。魂と躰の繋がりを保ったまま、腐敗も老化もさせずに保つことが、ミラならばできる。
 悪魔が重んじるのは結果だ。陽一が手に入るなら、手段も過程もどうでも良い……
 そう思ってみても、決定的な行動をとれずにいるのは、なぜなのだろう?
 今までは、陽一がミラに心を開いているかどうかは問題でなかった。彼がミラに魅了され、ミラの庇護下にいて、鳥籠から逃げられないというだけで満足だった。
 ところが今は、ミラが陽一に魅了されて、離れられずにいる……
 なぜなのだろう?
 言動の意外性や、性史上最高ともいえる相性の良さは認めるが、所詮三千世界の人間に過ぎないというのに。海底に沈んだ砂粒、海に落ちるひと雫の雨、宙に舞う塵芥と同じ。
 それなのに、ミラがこれほど傾倒するとは、周囲はおろか、ミラ自身も思っていなかった。
 なぜなのだろう? 何が特別なのだろう?
 脆弱な人間らしく、陽一はかくも弱い。
 肉体もそうだが、心も然り。純真だが清廉潔白とはいえず、打算的なところだってある。
 けれど、強くもある。
 脆弱な躰で、食屍鬼グールに打ちってみせた。
 刻印スティグマに頼らず、魔族に敢然かんぜんと立ち向かい、他者を救うために自己犠牲を発揮し、神の目にすら留まった。奇跡のような偶然、幸運を引き寄せる力がある。
 陽一は弱く、強く、若く、狡猾で、媚び、戦う意志があり、こいねがい、妄想し、絶望し、夢をみる、良心であり、悪意であり、単純で、複雑で、憂鬱で、柔らかい――人間。
 だから惹かれるのだろうか?
 往々にして悪魔は、人間に好感を抱きやすい。天使と違い、美徳と悪徳が混在する魂を善しとしている。
 かといって、陽一の魂が格別目をひく混沌と矛盾を抱えているわけでも、天使が賞賛するほどの清廉潔白さをそなえているわけではない。きらきらと新鮮ではあるが、無数に瞬く星屑の一つだ。
 では、どうしてこんなにも惹きつけられるのだろう?
 陽一を前にすると、理屈では説明できぬ引力を感じるのは、どうしてなのだろう?
 深淵なる心理を追及していたミラは、陽一が小さく呻いたことで我に返った。
「陽一?」
 そっと頬を撫でると、陽一は瞼を震わせた。ミラに見下ろされていることに気がついて、小さく目を瞠る。
「陽一、起きあがれますか? なにか口にいれないと、このままでは衰弱してしまいますよ」
 黒い瞳が涙を光らせながら、貪るように見つめ返してきた。
 哀れにか弱く、今にもこわれてしまいそうに見えてあまりに愛おしく、ミラの胸を打った。
「生きて……死なないでください、陽一」
 陽一の瞳から、涙がこぼれおちた。
 金色の加護を纏う姿に、ミラの胸はきつく締めつけられた。頬ずりしたり両手で撫でたり、痩せた躰を胸に抱き寄せたいのに、忌まわしい神妙に阻まれる。陽一が、ミラに触れられることを拒むことが、生きることを拒んでいることが、淋しくて、哀しかった。
「信じられないかもしれませんが、陽一を――こんな風に追い詰めるつもりはありませんでした。赦してください」
 赦してほしい。陽一の神経を傷めつけ、ずたずたにしたことを。
 陽一は、視線を逸らした。静かな拒絶に、ミラは全身から力が抜けてゆく思いがした。
「陽一を眠らせたくない……生きてほしい……魔界ヘイルガイアでは無理ですか? でもここなら、老いも病気もありませんよ」
 陽一は返事することなく、静かに瞼を閉じた。
 それが最後の瞬間のように思えて、ミラの全身を、戦慄が波のように走って過ぎた。
「嗚呼、待って、逝かないで。逝かないでください、陽一」
 赦しを請う、ミラの心を映すように、空は柔らかく黄昏めいて、辺り一面を黄金色に染めあげた。
 鳥籠も、空も、風も、海も、全てが金色に沈みこんだ。
 此の世とあの世が溶けあい、水平線の彼方から渚にかけて、金箔の連なりのように燦然さんぜんと煌めき渡る。
 生きることをほがって、紗にされた金色の斜陽が、陽一の頬を撫でた。
 せめぎあう生と死の狭間で、陽一の意識は浮上し始めた。
 烈火の怒りも、苦しみも、絶望も、自分自身のことすら判らなくなりかけていたが、その声を聴くと、散華しそうな意識を引き戻された。
 陽一の名を繰り返し唱える声は、心痛む甘い音楽であり、霧散しそうな自我を繋ぎとめる不破の呪文だった。
 ようよう瞼をもちあげると、苦悩をにじませた、端正な美貌があった。
 ミラだったのだ。
 一途な呼び声は、ミラだった。
 陽一の目から涙が溢れた。喜びと怒り、虚しさ、哀しみ……疲弊した重たい感情が、涙になって押し寄せてくる。
「陽一?」
 ミラは陽一に覆い被さるようにして、顔を覗きこんだ。真剣に、貪るように見つめられ、陽一は彼の胸に手をすべらせ、不滅の心臓のうえに掌を押し当てた。鼓動が早い。力強く脈打ち、まるで人間のようだと思った。
「……俺は、誰よりもミラを必要としているよ」
 陽一は悵然ちょうぜんとしていった。語尾が震えて、言葉をいったん切る。
「けど、ミラはさ、本当は俺のことなんて、どうだっていいんだよ」
 ミラは顔をしかめた。
「どうでもいいはずがないでしょう。でなければ、これほど気にかけたりしませんよ」
「うん……でもさ、」
 陽一はミラを見つめたまま、続けた。
「俺の思いとか、考えとか、そういうことには興味ないんだよ。傍に置いておけば、それで満足なんだろ……っ」
 か細い、涙まじりの悲痛な叫びだった。
「違います!」
 ミラは陽一の顔を覗きこもうとしたが、陽一は頭まで布団をかぶり、顔を見せることを拒んだ。くぐもった声で泣いている。
 その悲痛な声に、ミラは、身を二つに引き裂かれるような苦痛を覚えた。
「やってしまったことは――陽一をこんな風に傷つけてしまったことは――申し訳ないと思っています……」
 だが、黄金を纏う陽一を見、彼が決して赦してくれないことは、ミラ自身すでによく判っていた。
 無力だった。
 不老不死の魔王で、魔界ヘイルガイアを支配し、百臆の人間を瞬く間に灰にでき、大都を大炎で飲みこめる力を持ちながら、たった一人の人間を、説き伏せることも、慰めることも、奪うこともできない。
 泣いている陽一を前に、何もできることがない。毛布の丸みに、ただ手を添えることしか……