HALEGAIA

3章:悪魔たちの燔祭はんさい - 4 -

 生い茂る緑。崎嶇きくたる山路に、陽一は難儀していた。
 樹幹に戯れる白兎を見つけて和んだのも束の間、巨大な蜘蛛に捕獲される瞬間を目の当たりにし、背筋がぞぉっと冷えた。蜘蛛は尻からだした糸をたぐって、幹の上に消えていった。
 骸骨蜘蛛だ。
 楽園百科によれば、非常に獰猛な性質で、自分より大きな体躯の獣でも、強力な粘膜糸に搦め捕って餌食にする。躰中に猛毒が巡っており、傷つけようものなら、毒を噴射されて即死してしまうという。
 危険極まりないが、狩場は高い樹木の上なので、音を立てずに地上の茂みを進めば、気づかれずに済む。
 陽一は、気を引き締め、息を殺して進んだ。
 無事に骸骨蜘蛛の縄張りを通過したものの、濃霧の奥から、三つの瞳が光るのを見、慄然りつぜんとなった。
 ゆらりと現れた巨体は見あげるほどで、四足の前足には鋭い爪がぎらりと光っている。バグを思わせる細長い顔で、尖った口先から赤く細長い舌がだらりとこぼれている。
 ドーバだ。
 楽園百科によれば、腐肉が主食で、生きているものには頓着しないが、目が遇った場合は例外で、火が点いたように襲いかかってくるという。
 陽一は洞に身をひそめ、視線を伏せ、両手できつく口を塞いだ。欠片も悲鳴をあげてはいけないことは、本能で判っていた。
 振動が消えても、洞からでる気になれなかった。
 この森は化け物だらけだ。上空を炎の軍馬で駆けた時には判らなかったが、弱肉強食が前面に押しだされた、異世界の樹海なのだ。
 視界のとれない暗闇のなかを、これ以上は進みたくない。
 やはり無理なのだろうか? 鳥籠から逃げようなんて、無謀な賭けだったのだろうか?
 否、諦めるには早い。
 陽がでるまではここでやり過ごし、明るくなったら探索を再開しよう。その方が周囲に気を配れる。海岸沿いを群れ飛ぶ鳥を見つけられるかもしれない。
 臆病をねじ伏せ、勇をした矢先、不気味な息遣いが聴こえた。
 茂みを揺らして現れた巨躯を見て、陽一の全身から血の気が引いた。
 赤黒く焼けただれた肌。罰糸された恐ろしい顔貌――鳥籠から突き落とした番人、食屍鬼グールだ。
 森に堕ちて死んだものと思っていたが、本当に生きていたとは!
 赤い双眸が、陽一を射た。
 殺される。
 陽一は洞から飛びだし、茂みをかき分けて走った。その後ろを食屍鬼グールが猛然と追いかけてくる。鳥籠ではどうにか倒した相手たが、二度も奇跡が起こせるとは思わない。背中越しに、びしびしと怒りの波動が伝わってくる。捕まったら一環の終わり、叩き潰されるだろう。
 死に物狂いで走った。
 尖った枝や鋭い葉がびしびしと腕や顔にあたり血が吹きだしたが、構っている余裕などない。捕まれば殺されてしまうのだ。逃げなくては。
 必死に走って、走って、どうにか逃げ遂せたと思ったら、薄っ気味の悪い暗鬱あんうつな視線を感じた。
 その存在を認めて、陽一は呻きたくなった。
 肉蝦魔にくがまだ。
 人間に似ているといえなくもない二足歩行だが、身の丈は三メートルを超え、縦にも横にも巨大な厭らしい肉の塊である。
 黒々とした丸い二つの双眸には、貪欲で狡猾な光が浮かんでおり、大きな口は耳まで避けて、鋭い刃が覗いている。胴体には筋骨隆々とした二つの腕のほかに、細くだらりと脇にそう二本の腕があり、股間に、血管の浮いた巨大な男性器をぶらさげている。
 そいつは、ぞっとするような淫らな眼で、陽一をじっと見つめていた。
 あからさまな欲望を向けられ、陽一は、恐怖の交じった嫌悪感に全身を侵された。
(逃げなきゃ……っ)
 相手は鈍重なので、走って逃げることは可能なはずだが、不気味な眼力に縛られ、目を反らすことができない。
(動け足、動け!)
 額に脂汗を浮きあがらせ、どうにか足を踏みだそうと苦心していると、肉蝦魔にくがまは、細い方の腕を股間に伸ばし、陽一を見つめながらしごき始めた。
「うおぇっ」
 あまりの嫌悪に、陽一は吐き気をもよおした。
 見たくないのに目を逸らせない。死にたくなるほどの絶望に駆られた時、どういうわけか、唐突に呪縛が解けた。
 次の瞬間、陽一は脱兎のごとく逃げた。
 腕を振って、風を切って、自己最速記録を上書きしたかもしれないほど、命懸けで走った。
 呼吸が限界に達したところで立ち止まり、膝に手をついて、大きく息を喘がせた。
 危険は去ったのだろうか?
 周囲をうかがうと、うなじの毛がぴりぴりと逆立っていくのを感じた。第六感が警鐘を鳴らしている。何か禍々しいものが、音もなく忍び寄ってくる。
(もうやだ)
 心が折れそうになりながらも身構えた時、何かが足首に絡みつき、引っ張られた。突然の襲撃になすすべもなく、陽一は、茂みに伏すようにしてすっ転んだ。
「うッ」
 足首に、緑色の蔓が巻きついている。引き剥がそうとした腕にも新手が巻きつき、そのまま躰ごと宙に浮かびあがった。
「わぁッ!?」
 喚き暴れるも、羽交い絞めにされて身動きが取れない。地面から三メートルほど高くに持ちあげられ、陽一を吊るしている巨大な植物の全容が見えた。
 太い土台は地中に埋まっており、本体は榕樹がじゅまるのように無数の根を絡みつかせている。頭には薔薇に似た蕾が乗っており、目でもついているのか、蔓で羽交い絞めにしている陽一の全身を、眺めているように感じられた。
 これは吸血か? それとも魔魅樹まみき
 正体不明だが、鳥籠で見た肉食花に似ている――そう思った時、蕾の状態から、肉厚の花弁がぶわっと開き、黒洞々こくとうとうたる中心が現れた。
「ひっ……」
 食われると恐怖したが、巨大な花は、重なりあう花弁を震わせ、むせかえるような香を撒き散らした。
 妖しい芳醇な香りが漂う。腐敗寸前の甘くえた匂いに、陽一はくらくらした。
 夢の恍惚感に侵され、躰が熱くなる。
 迷妄めいもうのなか、死の手前の浮遊感覚を味わうが、喉頸のどくびを這う蔓に、意識を引き戻された。薄く滲んだ汗を舐められ、ぞわりと肌が粟立つ。
「ひぃ、気持ちわるッ……やめろ、バカ、放せっ!」
 怒鳴っても蔓は怯んだりせず、着衣の隙間に潜りこんだ。蛇がうごめくように布を波立たせたかと思うと、シャツの釦を弾き飛ばし、生地を引き裂いた。
「ミラ――――ッ!」
 叫ばずにはいられなかった。