HALEGAIA

3章:悪魔たちの燔祭はんさい - 1 -

 三千世界の一つ、とある人間界が魔族により完全に滅びた。
 血まみれの降誕祭を終えて、ミラが眷属たちと魔界ヘイルガイアへ帰ろうとした矢先、封じ手に呼ばれた。
 天と地の端境はざかいへミラがいくと、蒼氷色そうひいろの髪と瞳、乳白色に輝く翼をもつ聖霊が待っていた。
 ビショップである。
 両性具有の聖霊に特有の、清麗と艶麗をそなえた、穢れなき天の御使い。送り手のジュピターと対の役を担う封じ手であり、かつてミラが興味本位に鳥籠に捕らえていた、くだんの要人である。
「元気そうですね、ビショップ。あの人間界なら終焉を迎えたので、封じるならどうぞ」
 朗らかに笑むミラを見、ビショップは露骨に眉をしかめた。彼は、ジュピターと違ってミラに心酔していない。ミラにされたことを思えば当然ともいえるが、ミラのことを嫌っていた。
 だが、そうした態度はミラの好むところであり、同じ聖霊のジュピターよりも遥かに魅力を感じているのだから、皮肉な話である。
「その人間界は、私zの管轄ではありません・・・・・・・・・・・。魔王よ、あの少年をどうするつもりですか?」
 ビショップは憂いを帯びた瞳で問うた。
「大切に飼っていますよ」
 ミラは恩寵のようにいったが、ビショップの顔に真の同情がよぎるのを見た。
「彼は不運にも、私に起因する天災に巻きこまれてしまいました。地上世界へ帰してあげられないでしょうか?」
 どうやら、この慈悲深い聖霊は、人間を生贄にして逃げたことを、気に病んでいるらしい。
「それは、罪悪感ですか?」
 ビショップの顔が強張る。
「地上へ帰すといっても、陽一の暮らしている世界は、遅かれ早かれ壊されるというのに」
「だとしても、楽園で飼い殺しにされるよりは、心穏やかに過ごせるでしょう」
 ビショップの言葉を、ミラは鼻で嗤った。
「どうでしょうね」
 陽一には明かしていないが、彼の所属している人間界への結界は、実は、解かれつつある。
 極めて強力な上級悪魔が出入りできぬよう、神の采配で、ごく狭き門に制限されているが、魑魅魍魎どもは既に地上を徘徊しているのだ。
 その狭き門すら神は閉じようとするので、ミラは腹を立て、八つ当たり気味にビショップを鳥籠に閉じこめたのだが、今ではむしろ神に感謝すらしていた。
 おかげで陽一を手に入れることができた。彼がいるなら、人間界なぞどうでも良かった。
「神は、かの人間界を閉じなくて良いとおっしゃっています。魔王の采配に委ねると。ですから、もう悋気をおさめ、かの少年を同族のもとに帰してあげてください」
 ミラは水晶のような、澄んだ笑い声をあげた。
「聖霊という存在は本当に興味深いですね。僕からみれば、貴方の偽善ぶりは、悪魔そのものですよ」
 そういって、片目をつぶってにやりとした。ビショップは嫌そうに顔をしかめ、
「彼は貴方の玩具ではありませんよ」
 諭すようにいったが、ミラを愉快にさせるだけだった。
「実のところ、あの人間界のことはもうどうでも良いのです。撤退しろというなら、引きあげても構いませんよ」
「どうでも良い? どうして?」
 ビショップは不審顔で訊いた。
「陽一を気に入りました。彼を手元に置けるなら、人間界の結界が閉じようが、開こうが、どちらでも構いません」
「……なんてこと」
 憂鬱げに呻く聖霊を見て、ミラは慈悲を与えるようにほほえんだ。
「そう嘆くこともないでしょう。滅びゆく人間界にいるより、僕のもとにいたほうが遥かに幸せですよ。病気も飢饉も老いもなく、健やかに過ごせるですのから」
 自分でも意外なほど、ミラは強くそう思った。陽一のことは気に入っている。彼に危害を加えるつもりはない。それどころか、大切にするつもりでいるのだ。ミラにしてみれば、珍しく善行をしている感覚ですらあった。
「少年の方は、そうは思っていないでしょう。彼を気に入ったというのなら、彼の立場になって考えてあげてください」
「あはは……人間界にいたって、有為転変ういてんぺんは世のならい、人生はままならないものです。そもそも、陽一を犠牲にした貴方にいえた台詞ですか? 流石に滑稽ですよ」
 ミラが嘲笑えば、ビショップの顔に後悔が拡がっていく。その沈痛な面持ちを、いっそ胸のすく思いで、ミラは愉快げに見守った。
「……私のせいですか。閉じなくとも良いと神はおっしゃられた。私の役目は当面訪れない……なら、私が籠に戻れば、貴方は、あの少年を人間界に帰してあげますか?」
 彼の覚悟に感心しながら、ミラは首を振った。
「なかなか魅力的な提案ですが、陽一を手放す気はありません」
「魔王よ……」
「久しぶりに楽しいのです。水をさすような無粋はやめてくださいね」
 ミラが残酷無邪気に告げると、ビショップは頭を振って拒絶した。
「貴方の感性は歪んでいますね」
 ミラは鈴を振るような声で高笑いを放ったが、ビショップの沈痛な表情を見るうちに、もの思わしげな薄笑いにまでおさめた。
「陽一のことは、僕も気に入っているんです。神も照覧あれ、大切に飼っていますから」
 その言葉に嘘はなかったが、ビショップは憂いは晴れなかった。魔王の目に留まった時点で、不可避的な結末を感受するしか、選択肢は残されていないのだろうか?
 畢竟ひっきょう、哀れな少年を不憫に思いつつ、ビショップは引いた。それ以上の苦言を呈しようとはせず、目も眩む光を放ち、跡形もなく消えた。