HALEGAIA

2章:楽園コペリオン - 9 -

 目が醒めた時、陽一は一人だった。
 ミラにされたことが、怒涛のように頭に蘇ってきた。思わず呻いたが、皮膚はすべすべしており、情事の名残はない。ミラが綺麗にしてくれたのかもしれない。
 腕を撫でてると、不意に興奮の余燼よじんが蘇った。
 正気の沙汰だ――信じられない。ミラの愛撫にぐずぐずに蕩けて、自分でも呆れるほどの精液を吹きあげ、躰を濡らし、あられもない声をあげ続けて……
(――消えてしまいたい)
 これまでにも落ちこむことは幾度となくなったが、今回ばかりは、死にたくなるほどだった。
 危険なまでの自己批判に駆られ、精神防衛による放心状態に陥った。たまに思考が戻ってきても、平静には程遠く、己の痴態を思い返す度に、心は千々に乱れた。
 背徳感に苛まれる一方で、あの愉悦をもう一度味わいたいと望んでいることが苦しい。悪魔のせいといいきかせても、陽一は、自分の性感の歪みを思い知らされずにはいられなかった。
 悶々と過ごせば食欲も失せ、しばらくミラを呼ばずにいたが、否応なしに異変が起きた。
「お前が陽一?」
 突然声をかけられ、心を麻痺させていた陽一は、驚愕の表情で振り向いた。
 鳥籠のそとに、見知らぬ二人組の美しい悪魔がいる。
 一人は十二、三歳くらいの華奢な少年で、柔らかそうな白金髪に、明るい若葉色、不凍液めいた緑色の瞳をしている。黒い膝丈ズボンに上は袖の膨らんだ優美なブラウスと光沢のある灰縞のべスト、足元は編みあげのブーツという、人形風の瀟洒な恰好をしている。
 もう一人は背の高い青年で、なめらかな褐色肌に、白髪と蒼氷色の双眸が際立っている。スタイルの良さを引き立てる優美な縫製の濃紺の上下に身を包み、首元には幅広のタイを結び、青い貴石で留めている。
 二人共背に黒い翼をもち、頭の左右から巻きあがる角が突きでおり、悪魔としか喩えようのない姿である。しかし妙なことに、翼を畳んだ状態で宙に浮いている。
これ・・に魔王様が夢中とは……理解に苦しみますね」
 背の高い、気位も高そうな悪魔が、蔑むような目を向けてきた。
「魔王さま、変なものにはまるからね~」
 と、少年悪魔が綺麗なアルトの声で、苦笑まじりにいった。ミラといい、悪魔たちは流暢な日本語を喋れるらしい。
 彼等のよこす遠慮のない視線に、陽一は強張った。彼我ひがの立場は残酷なほど明らかで、今こそ、自分は鳥籠の見世物なのだと思い知らされた。
 それでも、陽一は精一杯に堂々と立ち、威厳をこめて美しい悪魔たちを見つめた。
「どちらさまですか?」
 誰何すいかを受けて、少年は無邪気な笑顔を閃かせた。
「僕はルネ。こっちはオデュッセロ。で、君は陽一だよね?」
「そうですけど……何の用ですか?」
「魔王さまのペットを見にきたんだよ」
「ペット?」
 陽一は露骨に顔をしかめた。
「違うの? あ、性奴隷?」
 その言葉に陽一は、鈍器で頭を殴られたような衝撃を覚えた。辛辣な冗談かと思ったが、ルネは別に意地悪でいったわけではないらしく、観察するような、妙な視線でこちらを見ている。
 ペット。
 性奴隷。
 認めたくないが、ミラにされていることを思えば、否定することはできない。生殺与奪を握られているうえに、いいように弄ばれているのだから。
「……どうせ、俺はペットだよ」
 口にした途端に、惨めさが千倍にも膨れあがった。
 恥辱に打ち震える陽一を見て、オデュッセロと呼ばれた悪魔は、器用に片眉をあげてみせた。
「貴様は、魔王様から、ありえないほど、過分な待遇を受けていることを判っているのか?」
 傲然といい放つ男を、陽一は敵意も露わに睨みつけた。
「この格子が目に入らない? 檻の住人に、過分な待遇も何もないと思うけど」
楽園コペリオンは魔王様の遊戯場だ。ここに在る全てのものは、魔王様を愉しませる為だけに存在している」
「俺は玩具じゃない」
「玩具だろう。美しくもなく強くもない、異界を越えてきた点は珍しいだけの、脆弱な人間に過ぎない」
「うるせーな……」
 ぼそりと小声で呟いたが、オデュッセロに睨まれた。
「口に気をつけろ、下等な人間。魔王様の寵を受けていなければ、心臓を抉っていたところだ」
 冴えわたる眼差しを射抜かれて、陽一はぎくりとした。少しでも動けば、今にも切り捨てられてしまいそうだ。はっきりいって、魔王であるミラよりもずっと恐ろしかった。
「その足りない脳に刻んでおけ。魔王様がその気になれば、お前は一瞬で塵になる。或いは、永遠にも続く悶絶を味わうことになるのだと。お前の命運は、魔王様の手中にあるのだ」
 居丈高にいい放つ男の隣で、ルネは肩をすくめた。
「あんまり虐めると、怒られるよ。もういこうよ」
 ルネは陽一を見て、またね、と妙に人間じみた仕草で手を振ってから、姿を消した。
 静寂が戻ったあと、陽一は格子を掴んだまま項垂れた。
 ペット。
 性奴隷。
 我が身を喩えるには、あまりに被虐的な言葉だが、その通りではなかろうか。
 何をするでもなく、ただ生きるために、食べて、排泄をして、碌に抵抗もできぬまま精を貪られ……人として、男として、あまりにも不甲斐ない有様だ。
 自分が酷く惨めで、矮小で、浅ましい生き物になったように感じられた。
 一体自分は、何のために生きているのだろう?
 この先に希望なんてあるのだろうか?
 そう考えた時、陽一は自然と檻のしたを見下ろした。隙間から躰を滑らせ、宙に踊りでるのは簡単だ。運がよければ、真っ逆さまに落下して即死できる。それとも、いつかのように滑空してきた猛禽の餌食になるだろうか?
 脚がすくむ思いがしたが、苦悩から解き放たれたいあまり、ついに檻を掴んだ。
 飛び降りる?
 飛び降りれるのか?
 決断を迫られ、全身に命を供給する器官は、まるで烈火。
 微動だにしていないにも関わらず、心臓は二千メートル下へ落下して潰れてしまったのではないかと錯覚するほど、尋常ではなく強い鼓動を打っていた。薪が燃える岩の竈のように、火が勢いよく、烈々と猛然と燃え盛っているように感じられた。
「陽一」
 ミラの声に、陽一はびくりと肩を震わせた。
 いつの間にやってきたのか、ミラは、すぐ後ろにいた。そっと背中から抱きしめてくる。
「どうしたのですか?」
 陽一は、答えられなかった。先の件を、素直に打ち明ける気にはなれなかった。自嘲的な笑みを浮かべ、陰鬱に、こう呟いた。
「なんでもないよ……」
 いつになく昏い表情を見て、ミラは眉をひそめた。
「もしかして、死のうとしたのですか?」
 陽一は答えなかった。彼の心情が、ミラには心底解せなかった。赤子をあやすように、腕に抱えた躰を軽くゆすってみたが、陽一は何もいわなかった。ただ掌に顔をうずめて、くぐもった声で泣き始めた。
「……陽一?」
 ミラは困ったという顔になり、陽一をベッドに運んだ。胎児のように丸くなる躰を寝台に横たえ、枕を整え、布団をかけてやった。
「一体どうしたんですか?」
 ミラは優しく訊ねたが、陽一は黙っていた。手で顔を隠し、嗚咽を噛み殺している。
 ミラは途方に暮れたように、ため息をついた。寝台に腰かけたまま、布団のなかで丸くなる陽一を、ぽんぽんと軽く叩いた。
 陽一はしばらくじっとしていたが、やがて顔をだして、ミラを見つめていった。
「さっき、ルネとオデュッセロっていう悪魔がきて、お前はペットだ、性奴隷だっていわれた」
「へぇ?」
「違うっていいたいけどさ、否定できないよな。俺って、ミラのペットじゃん」
 陽一は唇を歪ませ、自分を嘲笑うように吐き捨てた。
 ミラは考えるように沈黙し、こう続けた。
「……ですが、人間も動物を飼うじゃありませんか。家畜にするわけではなく、愛玩するために。家族と同じように大切にする人間もいますよね。僕もそのつもりです」
 陽一は顔をしかめた。
「人間を飼うって、おかしいだろ」
「心配しなくても、陽一が死ぬまで、最後まで大切に飼いますよ?」
「最後までって、判っているのか? 俺の寿命が尽きるまでだぞ? なん十年と先なんだぞ?」
 ミラはくすりと笑った。
「人間の寿命なんて、僕にとっては瞬きも同然ですよ。ここは魔界ヘイルガイアなので、寿命に限りはありませんが」
 そういうことではない――陽一はきつく目を閉じた。感覚のねじれた、人の心をもたぬ悪魔に判るはずもない。意志とは関係なく、理不尽に閉じこめられている陽一の鬱屈など!
「いい加減、家に帰してくれよ。それができないなら、いっそ楽にしてくれよ。俺はちっとも幸せじゃない。ふざけんな、お前が家族を語るなよ……っ」
 最後の言葉は、思いあまって吐きだしたような語気だった。
 沈黙。
 ミラの身じろぐ気配がした。驚いたことに、彼は布団の丸みをに手を置いて、いたわるように撫でさすった。
「……陽一は難しいですね。人間はもっと、奔放な生きものだと思っていましたよ」
 陽一は返事をしなかった。悪魔にいわれたくない――反射的に文句が思い浮かんだが、口にはしなかった。
 無言でいれば、ミラも無言になる。
 布団の上から優しく頭を撫でられていると、煩わしいと思いつつ、慰めを感じてしまうことが腹立たしかった。
 二人はしばらく喋らなかった。ただ静かな沈黙のなか、寄り添っていた。