HALEGAIA

2章:楽園コペリオン - 5 -

 陽一は、起きあがれるようになると、先ず湯浴みをしようと思った。
 ずっと汗の匂いが気になっていたのだ。
 寝台をおりて腰を伸ばし、大きく伸びをすると、躰の節々がぎしぎしと鳴った。長く横になっていたせいで、躰が強張ってしまったようだ。
「う~~……やっべー、躰動かなくなってるなぁ」
 ぼやきながら服を脱いで浴槽に踏み入ろうとし……つるっと磁器タイルに足を滑らせた。浴槽の縁に頭をぶつけ、ゴンッ、と小気味い音が鳴る。
「ったぁ~……」
 頭を押さえながら涙目で悶絶していると、唐突に、紗をめくってミラが現れた。
「陽一!」
 いつだって彼は唐突だ。陽一は、慌てて片手で股間を隠した。
「な、何?」
「もう起きて平気なんですか?」
「うん、風呂入りたいし……くぅ~、頭ぶつけた」
 ミラは蹲る陽一の前で膝をついた。
「見せて」
 素直に陽一が手をどけると、ミラは患部にそっと手を翳した。じんとした痛みが和らいだので、陽一は驚いて目を瞠った。
「痛みが消えたぞ」
「治癒のコツが、少し判りましたよ。外傷の方が治すのは楽ですね」
 ミラはどこか得意そうにいった。
「ありがとう、楽になったよ……」
 陽一は目をあわせて笑みかけ、思わず怯んだ。濃いまつ毛に縁どられた紫の瞳のなかで、おきのような焔が灯っている。柑橘とベルガモットのような、邪悪で濃密な香りが漂い、急に息苦しくなった。
「……ありがとう、もう大丈夫だから」
 でていってくれ。遠回しにいったつもりだが、ミラは動こうとしない。
「手伝います」
 当然のようにミラが手を伸ばしてくるので、陽一はぎょっとした。
「いいよ、風呂くらい一人で入れるってば」
「遠慮をしないで」
「遠慮じゃねーよ」
 陽一は語気を荒げたが、ミラは、ほらほらと手を差し伸べてくる。
「ちょ、ちょっと」
 彼は、有無をいわせず浴槽の淵に陽一を座らせると、悪戯っぽい笑みを浮かべて、内腿に唇を押しあてた。強張る陽一を上目遣いに仰いで、
「少し、味見してもいいですか?」
「はっ!? だめに決まってるだろ」
 本能的に陽一が拒否すると、ミラはいっそう蠱惑的な笑みを深めた。
「少しですよ」
「無理! てか、風呂に入ってないんだよ、汚れてるんだから放せ!」
 ぐぐっとミラの頭を押しのけると、彼はくすくすと笑いながら身を引いた。
「では、先ず綺麗にしましょう」
「触んな! 自分でやるから!」
 陽一は腕を突きだし、ぐいぐいとミラの背中を押して外へ追いだそうとした。憎たらしいことに、ちっとも動かない。
「では、後払いということですね?」
「はぁ?」
「僕は弱っている陽一を心配して、献身的にお世話をしました。対価を支払ってください」
 肩越しに振り向いて流し目を送ってくるミラに、陽一は頭痛を覚えた。
「そういうことに、対価を求めちゃだめだろ。人として」
「人ではありません。悪魔です」
「……そうだったね」
 全く、この悪魔め。人が弱っている時は狼狽えていたくせに、元気になった途端にコレである。
 呆れたようにため息を吐く陽一を見て、ミラは気に食わないといいたげに目を細めた。
魔界ヘイルガイアの王を、都合の良い召使いのようにただでこき使う気ですか?」
「そんなこといわれたって……」
 不服げに黙りこむ陽一の頬を、ミラは優しく撫でた。
「対価として、貴方とセックスするというのは?」
「はっ?」
 陽一はぎょっとした。冗談だと思いたいが、熱っぽい紫の瞳に見つめられると、困惑と呆れ、同時に下腹部が脈打ち、欲望が湧きあがってくるのを感じた。
「やだよ、躰で支払うなんて……第一、俺なんかに手をださなくても、ミラなら選びたい放題なんじゃないの?」
「陽一がいい」
 どきっとするほど真剣な声でいわれて、陽一は朱くなり、視線を反らした。
「悪魔は無償で働いたりしないんですよ」
 ミラの唇が頬をかすめ、陽一は身を震わせた。思わず顔を背けると、彼の唇が耳元に押し当てられた。
「……ねぇ、陽一」
 と、その呼び名を舌で味わうように繰り返し、どこか甘えたように訊ねた。
「血を飲んでもいい?」
「血ィ!?」
 ぎょっとしてミラを見るが、彼は真剣な目をしていた。どうやら、本気でいっているらしい。
「少しだけです」
 陽一は唸ったが、セックスよりはマシか……と、視線を泳がせた末に、頷いた。
「……痛くしないなら」
 ミラは愉快な答えを聞いたかのように、にっこりした。
「ええ、約束します。湯浴みを終えたら、食事にしましょうね」
 そういってミラは、ようやくカーテンの向こうへ消えてくれた。
 一人になり、陽一は硝子の把手を捻った。湯が青い磁器タイルを流れていくさまを見守りながら、採血の手段を想像し、憂鬱げに呻いた。
 彼が約束を守り、痛くしないでくれることを願うしかない……
 少々の時間をかけて、陽一が湯浴みを終えて席につくと、ミラは上機嫌で給仕を始めた。
 瞬く間に、卓上にご馳走――薄い皮のついたチーズ、黄金色の卵、アーモンドの瓶に無花果いちじくの濃厚なペースト、焼き立ての香ばしいパン、スープなどを手際よく並べていく。
 先ほどの会話のせいで食欲を忘れていた陽一も、旨そうなスパイスの香りが漂うと、胃が空腹を訴えてぐぅと鳴った。
 大皿に供されたのは、鳥を丸のまま焼いた料理で、豪快な見た目に圧倒されたが、とても美味しそうな匂いがする。焦げ目のついた皮はパリパリとしていて香ばしい。ナイフを入れると、なかに米が入っていた。
「米だ!」
 瞳を輝かせる陽一を見て、ミラはほほえんだ。
「好きな食べ物?」
「大好きだよ! なんで判ったの?」
 陽一の満面の笑みに、えくぼができる。ミラの視線は、誘われるように顔からえくぼに移動したが、陽一は気がついていなかった。ここへきてから初めて口にする白米を、夢中で頬張っている。
 湯気のたつ肉は柔らかく、肉汁を吸った米はとてもほくほくしている。見た目通り、ちゃんと米の食感と味がする。頬が落ちそうとは、まさにこのことだろう。
 全て平らげたあと、陽一は満足げに腹を撫でながら、ミラを見た。
「ミラ、ありがとう。久しぶりに米を食べれて、嬉しかったよ」
 陽一は満面の笑みでいった。殆ど自然とでた言葉であるが、意識して口にした事情もある。ティティを拉致してきた件といい、ミラは放っておくと、頓珍漢な方向で陽一を喜ばせようとするので、何をされたら嬉しいのか、口にだして示すべきなのだ。
 と、陽一がミラを学習するように、ミラも陽一を学習し、喜ぶ行動を理解すると、その行動を強化していく傾向にあることに、最近気がついたのである。
「どういたしまして。今度は、僕の番ですね」
 嫣然えんぜんと笑みかけられ、陽一はたちまちぼうっとなった。背もたれに手を置いて迫られても、従順に彼を見つめていた。襟に手がかかり、釦を上から三つ目まで外されたところで、ようやく我に返った。
「ミラっ」
 ミラは蠱惑的な微笑をこぼすと、陽一の首すじを指で撫でた。そのまま首筋に顔をうずめると、脈打つ肌に、熱い舌を這わせた。
「んッ……」
 恐怖に駆られて逃げようとする躰を、ミラは強い力で抱きすくめ、首に牙を突き立てた。
「いッ……!?」
 ぷつりと肌を突き破る音がした。ぞっとしたのも束の間、痛みはすぐに壮絶な悦楽にかわり、陽一は全身の血が沸騰したように感じた。
 えもいわれぬ恍惚感……触れられてもいないのに、下着の内側で昂った陰茎が擦れて、甘い痺れに襲われる。
「あっ……んぅ……っ」
 血を吸われながら腰を撫でられ、熱い吐息が口から洩れた。括約筋と大腿がひくついて、ってはならぬ快楽けらくきざす。わけもわからぬうちに、ズボンのなかで陰茎が弾けていた。
 一方のミラも、その血の甘美さに驚いていた。これほど渇望を掻き立てられる血は、これまでに味わったことがない。途方もない歓喜にひたされ、魂の解放、魔界ヘイルガイアに力が満ちていくのを感じる。
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 夢中で啜ってしまい、陽一が病みあがりであることを思いだして、慌てて吸血を緩めた。
 しかし、牙を抜いたあとも名残惜しく傷口を舐め、傷を癒したあとも、しばらく舌を這わせていた。
「んっ……もう、いいだろ……」
 気だるげに陽一が身をよじると、ミラはようやく身を起こした。
「……はぁ、驚きました。すっごく美味しい」
 艶めかしく唇を舌で舐めるミラを、陽一は茫然と仰いだ。
「ミラって……吸血鬼なの?」
「大抵の魔族の主食は、精気と血ですよ。腐肉を好む種もいますが、僕の好みではありません」
 陽一は慄いた。
「お、俺を食べないよな?」
「ふふ……美味しそうですよね、陽一は。でも我慢します」
 ぎらっとした捕食者の目でいわれても、説得力がない。
「俺は不味いと思うよ、痩せてるしさ! やめておいた方がいいと思うっ」
 必死に気をそらそうとすると、ミラは小さく吹きだし、それから声を立てて笑い始めた。
「陽一を齧ったりしませんよ、そんな勿体ない」
 安心させるようにいったあと、でも、とつけ加えた。
「精ならいいですよね」
 そういって屈みこみ、陽一のズボンを下着ごとずるりと脱がせようとした。
「おいっ」
 精とは、まさか精液のことか!?
 と、陽一は必死に脱げかけたズボンを掴んだ。けれども、強い欲望の眼差しに射抜かれて、動けなくなる。憤るどころか、彼の望むままに、全てを与えてやりたいという、放埓ほうらつな欲求が全身に拡がっていった。
 違う。しっかりしろ――ぶるぶると頭を振って、陶酔を解いた。
「エロ魔王退散! Amenアーメン! 離れろっ」
 喚きながらズボンを引きあげる。ミラは小さく吹きだし、身を引いた。
「ふふ……残念」
 しかし、離れたあともミラは、陽一から目を離せずにいた。唇や首筋、股間のあたりを舐めるように凝視している。
「嗚呼……いい匂い。ここにいると襲ってしまいそうなので、もういきますね」
 え、と陽一が目を丸くした時、ミラは既に消えていた。
「お、襲うって、なんだよ……」
 ややして、陽一は押し殺した声で呟いた。
 信じられないが、どうも美貌の悪魔に、自分は性的な対象として見られているらしい。なんだか自分が魅力的な存在になったかのような錯覚に陥るが、そんなはずがない。
(ミラは、なんで俺なんかに手をだすんだろう……しょっちゅうキスしてくるし……)
 理由がちっとも判らなくて、考えるほどに混乱してくる。
 いや……考えるだけ無駄なのかもしれない。一介の人間の身では、超常的悪魔の考えを読みとろうにも限度がある。いつだったか彼が自分でいった通り、天災という言葉が相応しいのかもしれない。
 陽一は、軽く頭を一つ振り、思考を切り替えた。
 全く。せっかく汗を流したのに、ミラに触れられたせいで、余計な汗をかいてしまった。悪態をつきながら、再び硝子の把手を捻った。