HALEGAIA

1章:鳥籠 - 9 -

「俺は、こんなところで死ぬのか……」
 昏い顔で呟く陽一を見て、ミラは首を傾げた。
「今の陽一は不死ではありませんが、不老ですよ。魔界ヘイルガイアの時間経過は三次元とは異なりますから」
 えっ、と陽一は顔をあげた。
「不老って、年をとらないってこと?」
「はい。ここにいる限りは」
「そうなの!?」
「はい」
 陽一は、怒りを忘れてミラをじっと見つめた。天候と時間の関係について、ずっと気になっていたのだ。
「……あのさ、ここって時間の流れが滅茶苦茶じゃん。皆、どうやって生活しているの? 食事とか寝るタイミングとか、困らない?」
 ミラは不思議そうな顔つきになった。
「悪魔は好き勝手に生きていますから。腹が空いたら食べ、疲れたら休めばいいのです」
「俺は時間の経過を把握したいんだけど、時計ってないの?」
「人間は規則正しい生活が好きですねぇ……では、これを」
 そういってミラは掌を閃かせ、手品のように、何もないところから水時計のようなものを出現させた。
 それは、硝子の容器に水が流入する仕組みで、少しずつ嵩が増していく。その水面の高さの変化で、経過時間が判るというものだ。
「疑似三次元の時間計測の道具です。水滴が少しずつしたに溜まっていく仕組みです。目盛りがついているでしょう。八進法換算で八十分が経過すると、目盛りが一つ進みます」
「へぇ……」
 めつ眇めつ眺めながら、陽一は礼をいうべきか迷い……視線をあげると、紫の瞳と遭った。
「ふふ……久しぶりに楽しいな。最近、楽園コペリオンにも飽きてしまって……壊してしまおうか迷っていたんです。陽一がきてくれて良かった」
 きたくてきたわけではない。と、陽一は不快感を覚えたが、悟られないように平静を装った。
「前から思っていたんだけど、なんで厳重な鍵が必要なの? こんな上空にあるんだから、鍵なんかかけなくても逃げられないよ」
「鍵というより、制御装置ですよ。浮遊に防壁、室内調整まで一通り管理しています。空気や湿度、温度、風圧、気圧の調整から、外部衝撃の吸収といった防御の役目があるんです」
「そうだったのか。どうやって浮いているのか、ずっと不思議だったんだ。雨にも濡れないし、上空なのに大して寒くないし」
「生きるための環境は、生物によって差異がありますから、適切な調整が必要なんです」
 陽一は物騒な目つきになった。
「オイ。俺には全然適切じゃなかったぞ。危うく死ぬところだった」
 まぁまぁ、とミラは誤魔化し笑いを浮かべた。
「以後気をつけます。お詫びに、内装を整えるので赦してください」
 そんなことで罪滅ぼしになるものか。陽一は憮然と押し黙ったが、次の瞬間、ミラの華麗なる魔法に目が釘付けになった。
 先ず中央の丸テーブルと椅子が消え、次に、寝台が現れた。華美な装飾を施した寝台のうえに、場違いな、房のついた金糸のクッションが積まれている。
(ベッドだ!)
 陽一の目が輝いた。固い床に横たわることに、辟易していたのだ。
「躰を休めるといいでしょう。衣装箱と着替えも必要ですね」
 飴色の調度が現れ、ミラはひきだしを開けた。柔らかそうなタオルが数枚、ボクサーに似た下着、シャツにズボン、靴下がたたまれている。箪笥のしたに靴もおかれた。
「小さいテーブルは残しておきましょうか。水甕と排泄の設備……大体、こんなところでしょうか?」
 部屋は一気に居心地が良さそうに変化したが、陽一の気分はかえって沈んだ。鳥籠の鉄格子の掴み、ミラを振り返った。
「……俺は、ここからでられないの?」
「外は危険ですよ」
「家に帰りたい」
 ミラは身を屈めて、不安そうにしている陽一の顔を覗きこんだ。目線を合わせて淡く笑む。
「大丈夫ですよ、大切に飼ってあげますから」
 優しい口調だが、いっていることは不穏極まりない。陽一が途方に暮れた顔になると、ミラは慰めるように頭を撫でた。その手を荒々しく振り払い、陽一は顔を背けた。
「飼うって……そんなの、犯罪じゃん……家に帰してくれよっ」
「変わっていますねぇ、陽一は。僕を前にすると、大抵は、服従の欲望に駆られるものなのですが」
 陽一は哀願の眼差しでミラを見た。
「悪魔は人間に対して万能なんでしょ? じゃあ、俺を家に帰せるんじゃないの?」
「神が結界を解いた時だけ、魔界ヘイルガイアは人間界に接続できるんです。その時がいつになるか、僕にも判りません。第一、悪魔が人間界に召喚されるのは、彼等を蹂躙するためなんですよ?」
「知らないよ、そんなの……どうせなら悪魔じゃなくて、神さまに会えたらよかったのに」
 陽一の声音には、皮肉がこもっていた。
「そうですねぇ、ビショップなら、取り次いでくれるかもしれません」
「ビショップ?」
「この鳥籠にいた聖霊のことです」
「彼なら神さまに会えるの? 俺も取り次いでもらえる?」
「いいですよ。今度見かけたら、訊いておきます」
 ミラが気安く請け負うので、陽一は縋るような目で彼を見つめた。今の言葉を本気にしていいのか判らないが、今の陽一にとっては暗闇にさす一条の光だった。
「まぁ、しばらくは鳥籠にいてください。ビショップがいつくるかも判りませんし」
 再び陽一の表情は翳った。
「……鳥籠は嫌だ」
「でも森で放し飼いにはできませんよ。危険がいっぱいなんです。あっという間に食べられてしまいますよ」
 うっ、と陽一は怯んだ。
「でも……あの番人は、嫌だ」
「番人?」
 ついに告白する時がきたようだ。陽一は、意を決して、唇を戦慄わななかせた。
「……口が縫われてる怪物」
「ああ、従僕しもべのことですか」
「しもべっていうの? ……俺、あいつを突き落としたんだ」
 陽一は断罪される覚悟で告白したが、ミラはしごくどうでも良さそうに、そうですか、と頷いただけだった。陽一は慌ててつけ加えた。
「殺さなきゃ、俺が殺されていたんだよっ」
「別に責めてはいませんよ。むしろ、よく倒せましたね」
「必死だった。鳥籠に入ってきたところを狙って、蹴落としたんだ」
 ミラは小さく吹きだした。
「なかなか気骨のある人間ですね、陽一は。あれは知能が低いうえに驕慢きょうまんだから、酷い目にあったでしょう? 早く気がつけず、すみませんでした」
 褒めるように頭を撫でられ、陽一は、一瞬泣きそうになった。
「なんで、くちが縫われていたの?」
「罰糸しておかないと、鳥籠に入れた生きものを食べてしまうのです。食いしん坊なんですよ」
 陽一はぞっと背筋が冷えた。思わずに真顔になり、
「ちょっと待て。そんな奴に管理させるなよ」
「考えておきます」
「判ったといえ」
 陽一の断固とした口調に、ミラは笑いをこぼした。強気に応えた陽一だが、すぐにまた不安に駆られ、頼りげなくミラを見つめた。
「あいつ、もうこない?」
「ええ」
「絶対?」
「約束します。もうこの鳥籠には寄せつけません」
 ミラは信頼できそうな笑みを浮かべ、陽一の目を見つめて頷いた。
「さて、そろそろ僕はいきますね」
 そういってミラが扉のほう方へ歩いていこうとするので、陽一は恐慌に駆られた。
「待って!」
 ミラはびっくりした顔で振り向いた。自分の腕を掴む陽一の手を見て、それから切羽詰まった顔に視線を注いだ。
「置いていかないでくれ!」
 陽一は必死だった。腕を思いきり掴んで失礼だったかな、とか、驚かせたかしら、なんて考える余裕もなかった。
「陽一……」
 ミラの端正な顔が近づいてくる……と、不思議に思った時には、唇が重なっていた。
「ッ!?」
 咄嗟に、腕を突きだして逃げようとするが、ぐっと腰を引き寄せられた。頭の後ろをしっかりと押さえられて、口づけはさらに深くなる。
「ん――ッ!?」
 熱い舌が触れあい、陽一の頭に無数の疑問符が飛び交った。何がどうして、この展開で、この流れで、初対面の、それも男とキスをしているのか、意味が判らない。
(え――ッ?? なんでキス!?)
 混乱の極致のなか、舌と舌とが触れあった。刹那、口に電流が流れたように、ぱっと熱くなり、舌を貫いた。尋常ではない類の目眩めくるめく恍惚に飲みこまれ、抗うことを忘れた。ミラの唇、舌は、唾液は強力な麻薬と同じだった。しなやかな腕に抱きしめられながら、自ら首を伸ばして唇をせがむ。
「んっ……あふ」
 陽一の唇から、甘い声が漏れた。舌を搦め捕られ、舐められて、どちらのものか判らぬ唾液を交換しあう……吐精はしていないが、軽い絶頂に襲われた。膝が震えて、もうこれ以上は耐えられない――限界ぎりぎりのところで、ようやくミラは陽一を離した。
「はぁ、はぁ、はぁッ……」
 その場にへなへなとくずおれそうになる陽一を、ミラが支え、椅子に座らせた。陽一は、しばらく夢見心地で放心していた。天鵞絨ベルベッドのようなミラの微笑を聴きながら……
 しだいに思考が鮮明になり、陽一は気まずげに、ミラに掴まっていた腕を離し、自分の足で立ちあがった。
「大丈夫ですか?」 
 ミラは、艶めかしくからかうように声を低めて訊ねた。
「……なんで?」
 陽一は口を動かした途端に、違和感を覚えた。なにか、とてつもない力を秘めた、強力で危険なものが、舌のうえにあった。
「すぐに慣れますよ。貴方の舌に、刻印スティグマを与えました。それがあれば、僕の名前を正確に呼ぶことができます」
 陽一は頷くしかなかった。確かにミラのいう通り、尋常ではなく強力なものを与えられたようだ。
「何かあれば、僕の名前を呼んでください。そうしたら、すぐに陽一のもとに現われますから」
「わ、判った……」
 陽一は、息も絶え絶えにいった。喋るたびに、小さな雷鳴のような残響と、唇の余韻を意識してしまう。
 えもいわれぬ悦楽だった。陽一の倫理観や価値観を、根本から覆すようなキスだった。あんな風に唇を奪われたら、女だろうが男だろうが、さらなる快楽が欲しくて、彼に身を投げだしてしまうだろう。とうてい常人になせるわざではない。
 すっかり動揺している陽一を見下ろして、ミラは美しい顔をさげた。癖っ気の前髪を指で梳いて、額に唇を落とす。
「疲れたでしょう……“少し眠りなさい”」
 柔らかく、魅惑的な、圧倒的な声に支配されて、陽一は目を瞬いた。ぼんやり寝台に目を向けると、忘れていた疲労感が蘇ってきた。彼のいう通り、少し休んだ方がよさそうだ。せっかく布団もあることだし……
「そうする……」
 陽一は、緩慢な動作で寝台にあがった。と、空が昏くなった。眠るのにちょうどよい。身を横たえ、四肢を伸ばすと思わずため息が漏れた。
 目を閉じると、打ち寄せる波のせせらぎ、疲労と渇きのあとの満ち足りた気分が、麻酔剤のように働き、たちまち眠気をもよおした。
「お休みなさい、陽一」
 眠りへと誘うミラの声が聴こえる。
「……お休み」
 陽一は半睡状態で返事をした。そして、まもなく、夢も見ず深い眠りに落ちた。