アッサラーム夜想曲

聖域の贄 - 4 -

 光希は休憩時間になると、僚友のケイトと共に円形闘技場を訪れた。
 しばらく壮麗な隊伍たいごの様子を眺めていると、そのうち鍛錬場でジュリアスとアルスランが稽古していると騎士たちが話しているのを耳に拾い、今度はそちらを観にいった。
 屋内鍛錬場は一般開場されていないので、関係者しか観戦できない。それでも二階の観戦席は埋め尽くされており、立ち見している者も少なくなかった。
 しかし、その価値は十分にあっただろう。ふたりとも凛々しく、迫力のある剣戟けんげきの応酬、閃光の妙技は瞬きを忘れるほど見事だった。
 ふたりが剣をおさめた時、わっと拍手喝采が沸き起こったのはいうまでもない。光希も心からの賛嘆をこめて、熱心に拍手を送った。
(は~……ジュリは格好いいなぁ)
 我ながら純情と思うが、少年みたいに胸が高鳴っている。陽の光を浴びた髪は、まるで火花が散っているみたいにきらきらと黄金こがね色にきらめいて、彼が動くたびに目を奪われてしまう。
 快い高揚感に浸されながら、そろそろ工房へ戻ろうと階段をおりていくと、ちょうどジュリアスの後ろ姿が視界に映った。打ち寛いだ様子で、ナディアたちと談笑している。
 ちょっと声をかけてみようという気になり、光希はケイトに先に戻るよう声をかけてから、踵を返した。
 ジュリアスは背を向けているので、まだ光希に気がついていない。
 話している相手が、アルスランとナディアという、馴染みの顔ぶれということもあり、光希は悪戯心が疼くのを止められなかった。
 こっそり背後から忍び寄って驚かせてやろうと思い、抜足差足ぬきあしさしあしで近づいていく。
 こちらに顔を向けているナディアとアルスランは光希に気がついたが、光希が唇に人差し指を押し当てると、ふたりとも以心伝心で了解して、微笑を抑えこんだ。声にも表情にもださずに、ごく自然に、ジュリアスと会話を続けている。
 彼等の協力のおかげで、距離は大分近づいた。あと少し。あともう少しで、背中に手が届きそうだ。慎重に手を伸ばした矢先、ぱっとジュリアスが振り向いた。
「ぅわっ」
 驚いたのは光希の方だった。
 両手をあげてのけぞる光希の腰を、ジュリアスは片腕で抱き寄せた。
「こんにちは、光希」
 光希を認めて碧眼が一段明るく輝いた。
「気づかれたかぁ~」
 悔しそうにいう光希を見て、三人が笑った。光希もつられて笑顔になり、ジュリアスを仰ぎ見た。
「いつから気がついていたの?」
「どうでしょうね」
 ジュリアスは片目を瞑ってみせた。光希にだけ見せてくれる、ささやかな愛情表現だ。不意打ちを突くつもりが、逆に不意打ちを受けて、光希はどきまぎした。
「話の邪魔をしてごめん。姿が見えたから、声をかけにきただけなんだ」
 光希は照れ笑いを浮かべて、ジュリアスの腕をさりげなく掴んだ。躰を離そうとしたが、彼はそうしなかった。
「先にいってください」
 ジュリアスの言葉に、アルスランとナディアは心得たように一揖いちゆうして背を向けた。
「……良かったの?」
 光希は戸惑ったように訊ねた。
「ええ、せっかく光希に会えたから……少し歩きませんか?」
「僕はいいけど、ジュリは平気なの?」
「散歩する時間はあります」
 嬉しそうに笑う光希の腰を抱き寄せ、ジュリアスは中庭に面した歩廊の方へ歩きだした。
 金管の澄んだ音色は遠ざかり、姿の見えない小鳥がどこかで囀っている。
 蔓草のからまる石柱の合間に、金香木チャンパックの黄緑が映えて、花盛りの素馨ジャスミン紫丁香花ライラックがなんとも鮮やかだ。
 気持ちの良いそよ風が吹くと、雨あがりの新鮮な土の匂いと、馥郁ふくいくたる花の香りが漂い、明るく爽快な気分にしてくれる。
「さっき観てたよ。アルスランもジュリもすごいね! 迫力があって、見ているだけで心臓がどきどきしたよ」
 光希が明るく感想を述べると、
「ありがとうございます」
 ジュリアスも嬉しそうにほほえんだ。賛辞の言葉をしょっちゅうかけられている彼も、光希から贈られる言葉は格別だった。
「アルスランの鋼腕は大分調子が良いみたいですね。実際に剣をあわせてみて、関節の柔軟さに驚きました」
「うん、観てて思った。この間ちょうど関節まわりの調整をしたんだよ。好調そうで良かった」
 その口調から、彼が己の仕事に強い誇りをもち、喜びを感じていることがうかがえた。
「実は、王立ルイゼム療養所を慰問するよう頼まれたのですが、光希は構いませんか?」
「もちろん構わないよ。そろそろいこうと思っていたんだ」
「判りました」
「あ、でも公務ってこと? 正式な訪問だと仰々しくて迷惑になるかな?」
「いくなら、普段通りで良いとあらかじめ伝えておきましょう」
「うん、それがいいね」
 王立ルイゼム療養所は、生来の疾患を抱えている民間の患者もいるが、大半は軍事関係者で、そのなかには東西大戦で心身を病んだ患者も少なからずいる。かつて国門で医療に携わっていた光希には、特別の思い入れのある病院だった。
「まだ公表はされていませんが、療養所の方からクロガネ隊に義肢共同制作の申し入れをしたそうですよ」
 光希は、ぱっと目を輝かせた。
「本当!? やった! 嬉しいなぁ」
 焔の高揚を宿してきらきらと輝く黒曜こくようの瞳。全身から溌剌とした喜びを溢れでさせる光希を、ジュリアスは嘆賞の眼差しで見つめた。
 ……こういう時の光希は、あまりにも無垢で浮世離れした清らかさに、愛おしさを覚えると同時にいささか心配にもなる。医師や聖職者も万人が清廉せいれんなわけではない。義肢制作にまつわる利潤や派閥への懸念など、この段階で光希は微塵も抱かないのだろう。
「ジュリも慰問にいくんだよね?」
 光希は笑顔のまま訊ねた。
「ええ、光希がいくなら」
「いく。いつかな?」
「早めに日程を調整しましょう」
「うん。あのさ、僕からもお願いがあるんだ」
「何ですか?」
「アーナトラさんの工房に遊びにいってもいい?」
「いつですか?」
「まだ決めていない。アルシャッド先輩とケイトもいくんだ。皆の都合の良い日じゃないと……いってもいいかな?」
「判りました。護衛はつけさせてくださいね」
「やった! また報告するね。良かったら、ジュリも一緒にいこうよ」
「はい」
 ジュリアスが微笑すると、光希も莞爾かんじとして笑った。邪気のない無垢な笑みのまばゆさ。黒い瞳のなかにジュリアスによせる全幅の信頼の色が見てとれた。
 胸を打たれたジュリアスは、思わず光希の肩を抱き寄せ、木陰に誘導した。幹に背を押しつけるようにして、腕のなかに閉じこめる。
「ねぇ、そろそろ戻らないと……」
 光希は困ったように笑った。ジュリアスの胸に手をついて軽く力をこめるが、彼は離れようとはせず、さらに顔を近づけてきた。
「光希……」
 甘やかな声は、普段の冷厳とした口調とは霄壌しょうじょうの差があって、どうしても胸が高鳴ってしまう。いつ誰がやってくるとも判らないのに……頭の片隅に思うが、顎に手をかけられると抗えない。
 そっと目を閉じると、優しく、戯れのように唇が触れた。優しくついばまれて、うっとりするような心地良さだったが、唇を開かせようと舌が動くと、自制の念が過ぎった。ジュリアスの胸を手で押しやると、彼は少し身を引いて、光希の目を覗きこんできた。
「さっきご飯食べたから……舌は入れちゃだめ」
 光希が上目遣いにいうと、ジュリアスはくすりと微笑した。
「何を食べたのですか?」
「胡麻の入ってる根菜汁と葉っぱと林檎」
「葉っぱ?」
「なんだっけあれ……食感のしゃきしゃきした野菜。今度こそ減量するからね、ちょっと少なめ……でも美味しかったよ」
 ジュリアスは光希の髪を撫でると、ちゅっと口づけた。
「無理していませんか? ちゃんと食べないと、倒れてしまいますよ」
「適量だよ。今までが食べすぎだったんだよ。しばらく僕に甘いものを与えないでね」
 ジュリアスが笑うので、光希は拗ねたように見つめた。彼は市街に用事があったりすると、時間を見つけては、光希の好物を買ってきたりする。気持ちは嬉しいが太る要因の一端でもある。
「僕が太るのはジュリのせいだ」
 光希はぷっと頬をふくらませたが、人差し指につつかれて、すぐにしぼんだ。子供っぽい真似をしたかなと思ったが、ジュリアスが笑顔なので、光希も明るく笑み返した。