アッサラーム夜想曲

聖域の贄 - 33 -

 あくる朝。
 朝食をとったあと光希は、ジュリアスと共にクロッカス邸の客室広間に向かった。間もなく、呼びつけられた侍女頭のミリネと浴室担当のベルテ、厩舎番のアリ、そして新人召使のデジーがやってきた。
 かくして運命のとき。
 召使たちはお仕着せ姿で、ベルテとデジーは茶色の丸襟の絹に、白い前掛けをつけている。侍女頭は群青色の襟の高い絹の長袖で、アリは黒と紫のお仕着せを着込んでいる。
 ジュリアスはいわずもがな、非の打ちどころのない黒に白金糸の軍服姿で、光希だけがゆったりした部屋着姿だった。恰好について特に考えずにやってきたものの、張り詰めた部屋の空気に、自分だけ場違いな気分にさせられた。
「お早うございます。皆に訊きたいことがあり、こうして集まってもらいました」
 ジュリアスの言葉に、召使たちは、いずれも青い顔で頷いた。
「最初に事実の確認をさせてください。先ず、ベルテとアリは婚約中で間違いありませんか?」
 ふたりは緊張した顔で、間違いありませんと答えた。
「では率直に訊ねますが、アリとデジーが親密な関係にあることを、ベルテは知っていますか?」
 一瞬で、緊張を孕んだ沈黙が、部屋に満ち満ちた。
 ベルテの目にはみるみるまに涙が盛りあがり、アリは真っ青な顔でベルテを見つめている。
 本当に率直だ。秒で修羅場に突入とはどういうことだ――光希は眩暈を覚えた。
「……知っています」
 朗らかなベルテとは思えないような、押し殺したような声だった。
 アリは彼女に手を伸ばしかけ、宙で止めた。震えているベルテを慰めたいような仕草にも見えたが、それを赦さぬ拒絶をベルテは全身で発していた。
「このクロッカス邸は、我々が居心地よく過ごすために在ります。ですが最近は、あなた方の問題で少々頭を悩ませています」
 召使たちは、恐縮したように肩を縮こまらせた。
「迷惑ですので、今ここで精算してください。最初に断っておきますが、私に嘘は通用しません。げんを偽った時点で、公宮及び宮殿勤務を永久に禁ずるので、そのつもりで答えてください」
 哀れな召使たちは、青褪めた顔で頷いている。
「アリとデジーはいつから交際をしているのですか?」
「……一月前からです。今はもう、」
 罰の悪い顔でアリがいいかけたが、途中でジュリアスはデジーを見た。
「デジーは、アリがベルテと婚約していることを知っていましたか?」
「……はい」
 華奢な娘は、消え入りそうな声で答えた。それを見たジュリアスは、再びアリを見た。
「なぜ、ベルテを裏切ったのですか?」
 本当に直球である。光希を含めて、ジュリアス以外の全員が蒼白になった。
「誠に申しわけありません、私が愚かなばかりに、一時的な感情に負けてしまいました。だけど、私が本当に愛しているのはベルテなのです。彼女を愛しています」
 ベルテはぼろぼろと涙をこぼした。デジーも両手に顔をしずめて嗚咽をこらえている。
 あっという間に涙の愁嘆場に突入してしまい、光希は卒倒してしまいそうだった。ジュリアスに任せたのは失敗だったのかもしれない。
「アリはこういっていますが、ベルテはどうですか?」
 三人とも死にそうな顔をしているが、ジュリアスは追撃の手を緩めなかった。
「……苦しいです。赦せるかは判りません……だけど、彼を愛しているから、諦めたくありません。どうにか、修復する、努力をしたいです……っ」
 ベルテは嗚咽まじりにいった。それがどれほどの気力を要したことか、彼女の顔を見れば容易に判ることだった。アリの瞳に、さっと悔悟かいごの色がよぎる。
「私が愚かでした。本当に、申し訳ありませんでした」
 悲愴な顔つきで喘ぐように謝罪するアリを、ジュリアスは淡々と見やった。
「貴方は、愛する女性に想われていながら、他の女性に手をだしたのですね」
 静かな罵倒に、アリは項垂れた。
「……おっしゃる通りです。弁明はいたしません。いかなる処分もお受けします」
 次にジュリアスがデジーを見ると、彼女は細い肩をびくっと揺らした。
「デジーは、二人が婚約していることを知りながら、なぜアリに応じたのですか?」
「……申し訳ありませんでした。とても軽い気持ちで、本当に出来心で……っ」
 ――なんて身勝手なんだ。
 光希は内心で呆れてしまう。これではベルテの恋心も醒めるのでは……彼女の顔を盗み見ると、嫉妬と屈辱に苛まれながらも、懸命に自制しようとしていた。顔を赤らめ、唇をきつく噛み締めている。
「どちらが先に誘惑したのかは知りませんが、不貞と知りながら応じた時点で同罪です」
 アリとデジーは項垂れた。厳しい言葉だが、もはや光希も止める気にはなれなかった。
「ベルテは二人を罰したいですか?」
 ベルテは苦しげな表情で黙りこんだ。交錯する複雑な思いが、濡れた瞳のなかに見てとれた。裏切られた痛み。怒り。幻滅の悲哀……そして一途な愛。屈辱の極みに耐えながら、それでも彼女はまだアリを愛しているのだ。
「貴方がいえないのであれば、私が処罰を決めても良いですか?」
「はい。お願いいたします」
 ベルテは強張った声で、しかしはっきりと頷いた。
「判りました。それでは、アリとデジーは百日間、神殿で斎戒沐浴さいかいもくよくをしなさい。沈黙の戒律を守るうちに、どれほどベルテを傷つけ、周囲に迷惑をかけたのか、自己を鑑みてください」
「はい」
 ふたりは噛み締めるように返事をした。
「二人共、斎戒沐浴さいかいもくよくを終えたあとはクロッカス邸に戻らなくて結構です。神殿勤めを続ける気があるのなら、話を通しておきますので、その時がきたら判断してください」
 アリとデジーは項垂れ、頭をさげた。不名誉な転属となるが、致し方なかった。
「仰せの通りに従います」
 アリが答えると、デジーもしくしく泣きながら同じ言葉を口にした。
「よろしい。クロッカス邸と違って、規律は厳しいと思いますが、修行するうちに鍛えられるでしょう。アリは、ベルテに赦してほしければ、誠心誠意努力をしてください。一度失った信用を取り戻すのは、生半可なことではありませんよ」
「はい」
 それから、とジュリアスは侍女頭を見た。
「今回は私が処しましたが、本来は侍女頭である貴方の仕事です。ベルテが里帰りを申告した際に、何も気がつかなかったのですか?」
 ミリネの顔が緊張に強張る。
「申し訳ありません。薄々気づいていましたが、時間を置けば落ち着くと思い、介入いたしませんでした」
 侍女頭は深々と頭を垂れた。その隣で、ベルテは蒼白になっている。
 ジュリアスは静かな眼差しでベルテを見つめた。
「里帰りの理由は、身内の見舞いが全てでしたか?」
「……いいえ、アリと距離を置きたいという私情もありました。ご迷惑をおかけして、誠に申し訳ありませんでした」
「私に対する謝罪は不要ですが、光希はとても心配していました」
「いや、僕は……」
 にわかに慌てる光希に、ベルテは涙に潤んだ瞳を向けた。
「殿下……ご心配をおかけして、本当に申し訳ありませんでした」
 深々と頭をさげるベルテに、光希は同情のこもった眼差しを向けた。
「ううん、謝らないで。ベルテが戻ってきてくれて嬉しいよ。ご家族の具合はもう大丈夫なの?」
「はい、おかげさまで伯母も母もだいぶ良くなりました。ありがとうございます」
 ようやく微笑を浮かべるベルテに、光希もほっとしたような笑みを浮かべた。
 空気が少しなごんだところで、ジュリアスは再び冷静な眼差しを侍女頭に向けた。
「今後は私が介入する前に、然るべき処置をとってください。自信がなければ他の者に任せますので、早めに申告してください」
 彼女は恐縮したように、丁寧にお辞儀をした。
「気を引き締めて、誠心誠意務めさせていただきます」
「よろしくお願いします」
「承知いたしました」
 次女頭が深々と頭をさげる。召使たちも控えめに一揖いちゆうした。
「えーと……じゃあ、これでこの話は終了でいいかな?」
 光希がジュリアスの服を軽く摘んで上目遣いにいうと、ジュリアスの眼差しは少し和らいだ。
「最後に一つだけいわせてください。ここは貴方たちの恋愛遊戯場ではありません。仕えるべき主人を悩ませ、職務をおろそかにしないよう、くれぐれも肝に銘じておいてください」
 三人は絨毯に額をぴったり押しつけて、深くこうべを垂れた。
 ふたたび沈痛な空気が満ちる。
 窓の向こうでは、駒鳥が呼びかわしている。可憐なさえずりと、この部屋の寒々しさの対比は深刻なほどだ。
 彼等の後頭部を見おろすことが心苦しくて、光希は炉棚に置かれた青い花瓶に目をやった。鮮やかな金蓮花を眺めながら、場をなごすます言葉を探していると、ジュリアスが先に言葉を継いだ。
「色々といいましたが、この邸の清潔と整頓の習慣を、私は好ましく感じています。それは、日々の皆の努力で保たれているのでしょう。いつもありがとう」
 侍女頭のミリネとベルテの顔が、嬉しさに光り輝いた。光希も密かに胸を撫でおろした。
 さすがに処罰を申し渡されたデジーとアリは沈んだ顔をしていたが、ジュリアスが最後は思い遣りの言葉で締めくくったので、解散するときの空気は、最悪とまではいかなかった。
 私室に戻ったあと、光希は肩から力を抜いて、深く、長い溜息をついた。愁嘆場を乗り切った安堵はあるが、その心は沈んでいた。
「元気がありませんね」
 寝椅子で、ジュリアスは光希を膝のうえに乗せて抱きしめた。
「ジュリ、少し怖かったよ」
 光希が少し恨みっぽくいうと、ジュリアスは光希の頭に頬を押しつけ、ぎゅうっと抱きしめてきた。
「怖がらないでください」
 さっきの冷徹な一面は幻かと思うような、どこか甘えた、拗ねた口調に、光希は口角を緩めた。
「嘘だよ。ありがとう、うまくおさめてくれて……嫌な役を頼んでごめんね」
「いいえ、どうということはありませんよ。これで安心しましたか?」
「うーん、うん……少なくとも僕じゃ、あんな風に整然と話せなかったしなぁ……あとはふたり次第だけど、冷却期間と挽回の機会が与えられて、良かったのだと思う」
「そうですね。しかし、改めて当事者として考えてみると、別の方法も思い浮かびますね」
「どんな?」
「もし私がベルテの立場なら、先ず浮気相手をほふります。そしてアリには、今後絶対に浮気はしないと誓願させたうえで、厳重に監禁するでしょう」
 光希は片頬を歪めて笑った。その喩え話が現実になった時、監禁対象は一人に限られている。
「……僕は浮気しないよ」
 光希が上目遣いにいうと、ジュリアスは微笑した。優雅で上品で、けれども瞳の奥に、玲瓏な刃物の赫きを宿している。
「冗談ですよ」
「ははは……ジュリがいうと冗談に聴こえないから」
「すみません。光希のためなら手段を厭わないので、あながち冗談でもありませんでした」
「……」
 それは謝罪として成立しているのだろうか――色々といいたいことがこみあげたが、光希は自制した。この手の話を引きずると、思いもよらぬ墓穴を掘ることがあるのだ。
 えへん、と小さく咳払いをして話題を戻すことにする。
「ベルテは立派だと思う。裏切られた相手を許すのは、生半可なことじゃないよ。とても苦しい思いをして、それでも寛容さを示せたんだから……僕には無理かもしれない」
 今度はジュリアスが探るように、光希の顔を覗きこんだ。
「何が起ころうとも私は、光希だけは絶対に裏切りませんよ」
「うん、知ってる」
 光希はほほえんだ。ジュリアスの胸にもたれながら、しみじみと思った。
「あーぁ……あんなに仲が良かったのに、どうして浮気しちゃったのかなぁ」
「アリもこれから、繰り返し自問することになるのでしょう」
「魔が射したんだろうけど……あのふたり無事に結婚できるのかなぁ……それもアリ次第か」
 起きたことは戻せない。元のふたりには戻れない。それでも添い遂げたいのであれば、たとえ茨の道でも、ふたりで歩いていくしかないのだ。
「もう気に病むのはおやめなさい。あとは当人同士の問題ですよ」
「うん……」
 ジュリアスは光希の肩を引き寄せ、頬を撫でた。光希が目を閉じると、そっと唇が重ねられた。
 優しい唇から、暖かな想いが伝わってくる。光希を好きだと連呼するような、強く深い好意。彼から寄せられる惜しみない愛と崇敬。
 傷ついた恋人たちを目の当たりにしたあとで、変わらないジュリアスの愛は、金色の百合のように輝いて見えた。