アッサラーム夜想曲

聖域の贄 - 29 -

 五月一六日。朝。
 ハイラートから帳簿に記された品をすべて回収し終えたと報告を受けたジュリアスは、サリヴァンと共にカタリナ精機製作所を訪れた。
 辺りには陰気な薄靄が立ちこめていて、見張りについている隊士も陰鬱な表情をしている。いや、死にそうといっても過言ではない。額にびっしりと玉の汗が浮かび、顎まで伝い落ちている。
「あの憲兵はどうかしましたか?」
 ジュリアスがハイラートに訊ねると、彼は憲兵を見て眉を潜めた。声をかけようと近づいていくが、
「おい!」
 いきなり、憲兵が前のめりに倒れた。咄嗟に受けとめたハイラートは、大声で助けを呼んだ。
 仮設の詰所から数人の憲兵が駆けよってきて、突然の人事不省じんじふせいに陥った同僚に声をかけながら、担架に乗せて運んでいく。
 不意の戦慄に見舞われ、静まり返っていた工場は騒然となった。
 ジュリアスが工場を見やると、黒い瘴気が立ち昇っているのが見てとれた。常人には見えていないようだが、サリヴァンには見えているようだった。
 傍に戻ってきたハイラートは強張った声で報告した。
「交代で見張りを立たせていますが、頭の芯が痛いと不調を訴える者が相次いでいるようです」
免疫・・のない者には負担が大きいでしょう。交代の回数を増やしてください」
 ジュリアスはハイラートに指示したあと、ふと思案げな表情になって彼に訊ねた。
「工場のなかはさらに霊障が強くなりますが、同行しますか?」
「お連れください。得体の知れない場所に、部下を送りこむわけにはいきません」
 ハイラートは決然たる意志をこめて、昂然こうぜんとした厳しい調子で答えた。両腕をさすっているヤシュムより、よほど剛毅ごうきがある。
 落ち着きのないヤシュムを振り向いて、ナディアは小首を傾げた。
「どうしました?」
「いや、俺は無理だ。ここで待っているから、後は任せた!」
 肩を震わせつつ、堂々たる口調でヤシュムはいった。
 ……百戦錬磨の将軍でも霊妙のたぐいは怖いらしい。いっそ潔いヤシュムだが、
「さ、いきましょう」
 ナディアは容赦なく彼の腕を掴んで、屋内に引きずりこんだ。
「おいっ! 待つといっただろうが!」
「今後こういう機会が増えるかもしれませんから、今のうちに慣れておかなければ」
「殴るぞ、ナディア」
 ヤシュムは拳を固く握りしめて見せた。威勢は良いが、悪寒に襲われたように身震いしているので、あまり迫力はない。
「そうそう、その調子ですよ。悪霊が顕れたら殴ればいいんです」
「阿呆! 俺の身に何か起きてみろ、真っ先にお前の枕もとに化けてでてやるからな」
「まぁまぁ、何事も経験ですよ」
 宥めるナディアの言葉を無視して、ヤシュムはぶつぶつと聖句を唱え始めた。
 背中で二人の会話を聞きながら、サリヴァンはくすっと微笑した。
「賑やかですな」
「いちいち霊障に怯えられては、今後困りますね。この件が片づいたら、彼を鍛えていただいても?」
 ジュリアスが冷静な表情で返すと、サリヴァンは掠れた声で笑った。
「は、は、は……私は構いませんよ」
 話題にされている本人は聞こえていない様子で、青ざめた顔で天の加護を呟いている。
 しかし、ヤシュムの怯えようも無理はなかった。
 壁にとりつけられた照明が、じじ……っと不気味に明滅している。
 魔除けの香木が焚かれていてなお、かすかにつんと鼻を突く匂いがする。
 死臭だ。
 静寂が暗い霧のように立ちこめていて、窓から陽が射しているにも関わらず、あちこちに不気味な闇がわだかまっている。
 廊下の先にある、広々とした作業場に入った時、不気味さはいや増した。
 伽藍がらんとした空間に、地獄の熔鉄ようてつで造られた裁断機は凝然ぎょうぜんと沈黙している。
 サリヴァンであっても、見ているだけで冷たい汗が額ににじみ、首筋の短い毛が逆立つのを覚えた。
「我々が理解している以上に、これは厄介な相手かもしれませぬ」
 こうして眺めているだけでも、狂気の潮が襲ってくる。
 肉体はおろか魂まで脅かすこの恐怖の前では、屈強な憲兵であっても参ってしまうだろう。ヤシュムなどは完全に血の気を失っている。
あれ・・を清めることは可能ですか?」
 ジュリアスは静かに訊ねた。
「やってみないことには判りません。百年前は調伏ちょうぶくできずに封印されましたが、熔解ようかいを経て変容した今なら、可能性はあります」
「判りました。祭儀に必要なものに、変更はありませんか?」
「ええ、聖油、聖蝋、聖銀で作られた吊燭台……ただ、聖句を刻んだ蝋燭が、思っていた以上に必要になりそうです。神殿に在庫はありますが、それでも心許ない」
「では補充しましょう。市販の聖蝋でも構いませんか?」
 サリヴァンは少し申し訳なさそうな顔でジュリアスを見つめた。
「これほど凶悪な相手でなければ、それでも良いのですが、今回ばかりは神殿で用意すべきでしょう。聖蝋はいわば祭儀の犠牲いけにえです。不足があってはなりません」
犠牲いけにえ?」
「聖蝋は魔除けであり、供儀くぎでもあります。蝋燭の焔はいわば魂の焔。我々の身代わりとなり、命を刈りとろうとする悪鬼から護ってくれることでしょう」
「なるほど。では、聖蝋の製造も神殿に依頼できますか?」
「ええ、聖蝋を作れる者が数名おります。彼等にも協力してもらいましょう。それでどうにか足りれば良いのですが……」
 サリヴァンは思案しながら、白銀の顎髭を撫でた。
 それまで黙って会話を聞いていたサンジャルは思いつめたように進みでた。
「今こそ殿下にご協力頂けないでしょうか?」
 ジュリアスは揺るぎない眼差しを素早くサンジャルに向けた。それは鋭い青い光線のようで、サンジャルは知らず身震いした。
「サンジャル」
 サリヴァンが小声で窘めると、サンジャルは強張った顔で唇を固く結んだ。
 ――彼には失言癖があるらしい。
 だが今回は、ジュリアスもさほど苛立ちを覚えなかった。
 聖句を刻む者として、光希に並ぶ適任者はいないだろう。聖蝋作りであれば、危険が及ぶ心配もない。
「聖蝋を一つお借りしてもよろしいでしょうか?」
「ええ、もちろん」
 サリヴァンに渡された聖蝋を、ジュリアスはめつすがめつ眺めた。
「これと同じものを、複製すればよろしいのですか?」
「はい。しかし、一つでも文字が欠ければ効力を失います。祈りをこめて、慎重に、正確に刻まなければいけません」
「判りました。可能かどうか彼に訊いてみます」
「ありがとうございます」
 サリヴァンが頭をさげると、ジュリアスもゆったり頷いた。サンジャルは金縛りが溶けたように、肩から力を抜いている。
 会話が途切れると、サリヴァンは裁断機に慎重に近づいていった。石灰で描かれた円の外側に立ち、じっと見守る面々を振り向いて、床を指さした。
「祭儀では吊燭台に聖蝋を灯して、天と地、空間を閉じた三重結界を敷きますが、今日のところは略式の二重結界を敷きます」
 サリヴァンは、石灰で描かれた円を縁取るように、もみの木屑をぱらぱらと落としていった。
「これは命を脅かす、彼我ひがしきいです。生者は決して円のなかに脚を踏み入れてはなりません。それから、部屋の四隅に絶えず聖蝋を灯してください。よろしいかな?」
 憲兵たちは神妙な面持ちで頷いた。
「祭儀の前に、物忌ものいみ期間は必要でしょうか?」
 ジュリアスの問いに、サリヴァンは頷いた。
「私を含め、祭儀を行う神官には七日間の沐浴潔斎もくよくけっさいが必要です。聖蝋の目途がたちましたら、物忌ものいみに入りたいと思います」
「判りました。では、潔斎の七日後に祭儀を執り行います」
 サリヴァンが頷くと、ジュリアスはさらにこう続けた。
「祭儀の手順を憲兵にも教えたいのですが、神官を何名か派遣して頂けますか?」
「手配いたしましょう。祭儀は六日に渡って行われます。彼らも気力を消耗するでしょうから、心胆を整えてもらわなければなりませんな」
 サリヴァンが憲兵に目をやると、彼らの顔は強張った。五番目の息子、サンジャルも緊張気味だ。ヤシュムを見ると、さっと視線をそらされた。その隣でナディアがたしなめている。最後にジュリアスを見ると、静かな眼差しと遭った。
 ――いやはや、大変ですな……
 視線で囁くと、同意のこもった視線が返された。
 ――ええ、本当に。ご面倒をおかけしますが、どうかよろしくお願いいたします。
 無言の承認がなされた。