アッサラーム夜想曲

聖域の贄 - 2 -

 皇太子に呼ばれたジュリアスは、宮殿最奥の執務室に向かっていた。
 猩々緋しょうじょうひの絨毯を敷きつめた長い廊下の窓からは、燦然さんぜんと煌めくアール河を一望できる。雨あがりの清明な朝の風が流れこみ、清々しい気持ちにしてくれる……が、アースレイヤに呼ばれているのだと思うと、爽やかな気持ちもいささか霞むのだった。
 近づいてくるジュリアスを見て、扉の左右に立つ近衛が恭しく敬礼をする。控えの間に通され、さらに奥の扉で一度立ち止まった。
「ジュリアスです。入ってもよろしいでしょうか?」
「どうぞ」
 扉を開けると、数寄すきを凝らし紫檀したんの机から、優しげな美貌の青年が顔をあげた。薄紗にされた陽を浴びて、長く編みこまれた銀髪とその頭髪を飾るしろがね、略式の宝冠がきらめく。
「ごきげんよう、シャイターン」
 空色の瞳が柔らかな光を放つ。
 光彩陸離こうさいりくりたる美貌の皇太子にこのように微笑されたら、大抵の者ならば舞いあがって頬を染めるところだが、ジュリアスは顔色一つ変えなかった。
「お早うございます。要件は何でしょうか?」
 凛とした麗貌で訊ねる。言葉は丁寧だが、いささか冷淡に過ぎた。
 彼でなければ不敬と窘められるところだが、アースレイヤは気にせず、こう切りだした。
「ここのところ、失踪事件が相次いでいることは知っていますよね?」
「ええ。今朝も旧市街で騒動が起きたようですね」
 失踪した子供の親が、周辺住民と共に聖都憲兵隊の詰め所に押し寄せ、朝から騒擾そうじょうの声がどよもした。鎮圧のため、近隣の支部から動員される騒ぎとなったのだ。
 ジュリアスが視線で先を促すと、アースレイヤは威厳をこめて命じた。
「単刀直入にいいます。捜査に協力してください」
「管轄外です」
 間髪入れずにジュリアスはいった。
 皇太子は形の良い唇に微苦笑を浮かべた。彼もジュリアスの専門が、国境警備及び対サルビア防衛であることは重々承知しているのだ。
 未曾有みぞうの国難ともいえる東西大戦を乗り切った今も、ジュリアスは変わらず国外に対する防衛のかなめに就いている。
 一方、国内の警備は聖都憲兵隊の管轄である。四十八の支部がそれぞれの区域を護っており、今回の事件も彼等の責務だった。
「判っています。それでも今は、貴方の力が必要なのです」
「それほど重要な事件ですか?」
 ジュリアスの言葉に、アースレイヤは肩をすくめた。
「これは極秘ですが、失踪人のなかに神殿祈祷師シャトーマニも含まれています」
 その情報は既に知っていたのでジュリアスは驚かなかったが、内心ではやっかいだと感じていた。
 多岐にわたる神官階級のなかでも、上級神官以上が務める神殿祈祷師シャトーマニの存在は貴重だ。検魂鑑識を行う彼等は、雲を掴むような難事件に、しばしば光明を照らしてきたのである。故に彼等の身に何かあれば、第一級事件として扱われる。
「それなら、神殿に協力を要請すべきでは? 憲兵隊も我々が介入しては、面白くないでしょう」
 聖都憲兵隊支部は本部が容喙ようかいすることすら厭うのに、外部の実戦部隊となればなおさらだろう。彼らのなかには、東西大戦の最前衛で戦ってきた精鋭部隊に対して、後塵こうじんはいせられてきた苦さを覚える者もいる。軍閥ぐんばつ跋扈ばっこというほどではないが、いわゆる軍隊の文化である。
「ところが査問省から審問省に連絡が入って、彼らがいうには、アッサラームに迫る暗雲を退けるために“試煉”を伴う供犠くぎが必要だそうです」
 ジュリアスは眉をひそめた。
 供犠くぎといえば酒や家畜を捧げるのが通例だが、試煉となると別だ。例えば宗教的自殺、四肢切断、去勢や巡礼といった、過剰な肉体酷使をさすことが多い。
 益体やくたいもないふるい流儀だとジュリアスなどは思うが、宗派によっては現在でも支持されており、神殿の異端審問省も肯定派だ。
星詠神官メジュラには報告されたのですか?」
 星の運航と天候から様々な事象を視るのは、彼等の役目でもある。
 特に宝石もちであるサリヴァンは、星詠神官メジュラの権威で能力も極めて高いのだが、彼は今、数多あまたの聖典、時祷じとう書、写本のたぐいを求めて、西方諸国を経巡へめぐっている。
「星詠省にも調査を依頼しましたが、何らかの対価が必要であると、同じような回答をよこしました。他にも、民間の祈祷師マニが流血の供儀くぎを行ったと報告を受けています。宗教的実践にいちいち口だしする気はありませんが、このまま静観していては、人身供犠に発展する恐れがあります」
 沈黙を肯定と受け取り、ですから、とアースレイヤは続けた。
「神殿に一任するわけにもいかないのです。本部から要請も受けましたしね。彼等も参っているのでしょう。関係者が次から次へと失踪するのですから」
「関係者?」
 アースレイヤは憂愁に満ちたため息をつく。紅い天鵞絨びろうどを張った肘掛椅子で長い脚を組み替えると、組んだ両手のうえに顎を乗せた。
鋳物いもの屋一家失踪についで、現場に派遣された神殿祈祷師シャトーマニ、さらにルイゼム療養所で治療を受けていた憲兵も失踪したそうです。立て続けに起きすぎだと思いませんか?」
「手掛かりは?」
 アースレイヤは頸を振った。
「残念ながら……年齢や職業、性別も様々です。失踪人届けを確認できた者だけでも数十名ですから。実際はもっといるはずです」
「痕跡がなければ、私が遠視したところで結果は変わりませんよ」
「では、どうにかして痕跡を見つけてください」
 ジュリアスは氷の彫刻めいた美貌を不快げにしかめた。
「それこそ憲兵隊の仕事でしょう。捜査を初めて幾日経過しましたか? 手掛かりを全く掴めていないというのは、職務怠慢ではありませんか?」
 身も蓋もない評価に、アースレイヤは片頬を歪めた。
「敬虔な信徒が多いのです。捜査に関わることを恐れて、脱走者がでる始末ですから」
 一兵卒までもがアッサラームの獅子――にあるまじき醜聞を、ジュリアスは冷徹な表情で受けとめた。アースレイヤも同意のようで、苦々しい顔で頷いた。
「……意外な脆弱性が露呈しましたね。とにかく、早期解決のために聖都連続失踪捜査班を設けることにしました。信仰のよりどころでもある、貴方に指揮を任せたいのです」
 暫時ざんじ、ジュリアスは沈黙した。
 完璧な無表情だが、長年のつきあいから彼が面倒に感じていることは、アースレイヤにはよく判っていた。
「もちろん、憲兵隊にも協力してもらいますが、神殿祈祷師シャトーマニが失踪しているのです。全軍に及ぶ問題ですよ」
「我々が介入すれば、かえって不安を煽るのでは?」
 ジュリアスの指摘に、アースレイヤは頸を振って応えた。
「解決が最優先です。西都文化展を前にして、これ以上聖域を恐怖と不安でけがすわけにはいきません」
 沈黙するジュリアスを見て、アースレイヤは後押しとばかりにつけ加えた。
「こんな状況でなければ、私だって東漸西漸とうぜんせいぜんかなめに就いている貴方に頼んだりしませんよ。文化展は殿下も楽しみにしているのでしょう?」
 だから何だと視線で促すと、アースレイヤはにっこりした。
「憂いを払ってさしあげれば、きっと感激されると思いますよ~? それに本部勤務なら、殿下と過ごせる時間も増えるんじゃありませんか?」
 空色の瞳を煌めかせ、美貌の皇太子は明るくほほえんだ。
 彼が諧謔かいぎゃくろうしながら会話を運ぶのはいつものことだが、ジュリアスに効いた試しはない。ますます冷たさを増した目で皇太子を睨みつける。
 ……凍りつく前に、アースレイヤは冗談はやめて愚痴をこぼした。
「貴方ばかりを酷使しているわけではありませんよ。私は今、賭博法の制定と遊戯場の計画で手いっぱいなんです。競竜杯で終わりというわけじゃありませんから」
 それは承知しているので、ジュリアスも反駁はんばくは控えた。
「話は判りました。捜査班の様子を見てから、決めさせてください」
「ええ、是非前向きに検討をお願いします。貴方が指揮を執れば、各方面からの反論も少ないでしょうから」
 と、アースレイヤはにっこりした。
「他に何もなければ、これで失礼しても?」
「あります。殿下とルイゼム療養所の慰問にいってください」
「憲兵が失踪したという?」
「ええ。悪い噂が続いているのです。なんでも、患者が毎晩悪夢にうなされるとか」
「悪夢?」
「夢のなかで頸を切り落とされるそうですよ。同じ施設の患者が失踪したから、神経過敏になっているのかもしれませんが」
「光希も文化展の準備で忙しいのですが」
 お前が発注するからだぞ……と、言外にジュリアスは視線にこめた。この件で不興を買っている自覚のあるアースレイヤは、肩をすくめてみせた。
「判っています。他の公務は断っても構いませんから、ルイゼム療養所の慰問だけはお願いします」
「なぜです?」
「クロガネ隊と連携して、共同義肢制作の提案を受けているのです。前向きに検討しているところです。まだ非公式ですが、殿下には伝えても構いませんよ」
 ジュリアスは表情を変えずに、彼のいったことを吟味した。
 王立ルイゼム療養所は、傷痍しょうい軍人の治療を専門とした王国最古の病院で、日常生活が困難な重度の障害者には、永住の場も提供している。
 東西大戦のさなか国門で医療の最前線で戦っていた光希は、アッサラームに帰還してからも、細やかに負傷した兵士を見舞っている。
 きっと彼は、この知らせを歓迎するだろう。新骨を注いでアルスランの義手を完成させた後も、鉱山から仕入れたくろがねで義肢制作の研究は進められている。アルシャッドと共に主柱を担う光希にとって、医療貢献は悲願のはずだ。
「よろしくお願いしますね」
 勝利を確信しているかのように、アースレイヤはにっこりした。
「御意」
 一揖いちゆうして執務室を辞したジュリアスは、雑然とした疲労感に襲われた。
 その正体は、競竜杯が終わったばかりだというのに、新たな面倒事の始まりだという、不可思議な狂いのない予感であった。