アッサラーム夜想曲

聖域の贄 - 13 -

 四月十五日。早朝。
 霊顕審問は五名以上の立ち会いという原則に従い、ジュリアスはハイラート、サンジャル、ナディア、そしてヤシュムを連れて、神殿の大審問室を訪ねた。
 見習いの少年神官がふたり扉前に待機しており、やってきたジュリアスたちを見て、恭しく扉を開いた。
 広々とした円形の講堂で、百名が座れる段状の傍聴席と、立派な大円蓋を具えている。
 ジュリアスとナディア、そしてサンジャルは神殿に仕えていた幼少時に、清掃の為に脚を踏み入れたことがあるが、ハイラートとヤシュムは初めて入る場所である。霊妙な雰囲気が漂う講堂を、ふたりは物珍しげに見渡した。
 中央の壇上に立つサリヴァンは、くだんの鏡の前にいた。
 足元で香を焚いているようで、白い煙が薄く立ち昇っている。
 傍に小さな車輪のついた書物机が寄せられており、聖具や琺瑯ほうろうや硝子の採取容器、聖水、聖蝋、試験薬といった、審問に使う道具がずらりと並べられている。
「お早うございます、皆様。ようこそお越しくださいました」
 サリヴァンは恭しくこうべを垂れた。
「お早うございます。大事な巡礼の途中に、呼び戻して申し訳ありません」
 ジュリアスが丁寧に詫びると、サリヴァンは穏やかな微笑のままに、軽く頷いてみせた。
「よいのです。私がいなくても、同士が立派に職務を果たしてくれることでしょう」
「そういっていただけると、助かります」
 年の功というか、サリヴァンの性質によるところが大きいのだろうが、ジュリアスはサリヴァンが激高しているところを見たことがない。彼のこうした鷹揚さに過去幾度も助けられてきた。
「思いがけず、探求の旅となりました。私も貴方にお見せしたいものがあるのです。先ずは、鏡の分析から始めましょう」
 そういってサリヴァンは、鏡の前に立った。
「ここへ戻ったあと、すぐに鑑識を行いましたが、残念ながら、特筆すべき点は見つけられませんでした」
「なにも視えませんでしたか?」
「ええ。かすかに、残り香のような異質な気がまとわりついていますが、珍しいことではありません。物質は絶えず周囲の影響を受けるものです。多少の変容作用は、よくみられることです」
 サリヴァンは卓に置かれた水晶を手に取り、鏡に映してみせた。
「これは単純な鑑識方法ですが、鏡が瘴気を含んでいれば、水晶はこれほど澄明ちょうめいに映りこみません」
 次に彼は、聖銀の槌で鏡の錬鉄装飾を軽く叩き、澄んだ音を響かせた。
「この通り、音に歪みもありません。錬鉄装飾にも、特筆すべき変容は見受けられません」
 今度は足元の香炉を手に取り、琺瑯ほうろう容器の蓋をあけて、白煙をたち昇らせた。
「ご覧の通り、煙の歪みもありません。早朝、覆いをかけたあとに、今日一番の陽の光に当ててみましたが、やはり異変は見られませんでした」
 ひと通り鑑識を見たあとで、ジュリアスは吟味するように沈黙した。
 確かに、あの時感じた不気味な圧迫感、禍々しさといったものを今は全く感じられない。神聖な場に運びいれたことで、祓われたのだろうか?
「原因が鏡にあるのだとしたら、鑑識で多少なりともしるしが見られるはずです。何か他に、気がかり点はありませんでしたかな?」
 サリヴァンに訊かれたジュリアスは、天稟てんりんを発揮して、あの一室で見た景を鮮明に脳裏に描いてみせた。
「そうですね……清掃の行き届いた八病床の部屋で、消毒液の匂いと、かすかに無花果いちじくの香りがしました。窓辺に患者がひとりいて、他は空でした。床は白い花崗岩で、淡い蜂蜜色の壁に、錬鉄製の照明が間隔を空けて左右に三つずつ。ふたつの大窓に白い沙幕カーテンが左右に束ねられ、患者の対面の壁上に鏡と卓があり、瑠璃色の花瓶に橙の花が活けられていました。ごく一般的な病室です」
「よく覚えていらっしゃいますね」
 まるで見ながら話しているような詳細な説明に、ハイラートは驚いた顔でいった。
 実のところ、ジュリアスは異常とも呼べる正確明晰めいせきな記憶力の持ち主だった。かすめるような一瞥いちべつだとしても、一度目にしたものは決して忘れない。僚友は知悉ちしつしていることだが、初めて知る者は大体ハイラートと似たような反応をする。
「すべて記憶していますが、鏡の他に不審点はなさそうです。光希も鏡から目が離せない様子でしたから」
「鏡には何が映っていましたか?」
 サリヴァンが訊ねた。
「少し顔を俯けた患者が映っていましたが、光希がいうには、実際と異なる動きをしたそうです。鏡のなかの患者と目があったというのです」
 うっ、とヤシュムは小さく呻いてから、口を挟んだ。
「聞いているだけで寒気がするぜ……そのように呪われた鏡も、神聖な場に運ばれて浄化されたのだろう」
 その言葉にナディアたちは同意を示したが、ジュリアスは頷く気になれなかった。
 療養所の霊障が鏡の仕業だとして、真に浄化されたのだとしたら、なぜ光希の不調は回復しないのだろう?
 慰問した日から、温和な光希の顔に、憂悶ゆうもんの影が射している。日中は明るく快暢かいちょうに見えても、毎晩のように悪夢にうなされているのだ。
「……鏡が原因ではないのかもしれませんね」
 独りごとのように呟くと、問いたげな視線がジュリアスに集まった。
「実際に病室を見れば、以前との差異や瘴気を見つけられるかもしれません。後で確かめてみましょう」
 軍服の捜査員たちは、そろって頷いた。
「それでは、霊顕れいけん審問はこれで終了してよろしいでしょうか?」
 サリヴァンが締めくくると、ジュリアスは丁寧に会釈した。
「ありがとうございます。大変参考になりました」
 依然として様々な謎が錯綜さくそうしているが、サリヴァンの存在は心強い。アッサラーム最高峰の最高位神官シャトーウェルケであり、いつでも明晰めいせきに答えてくれる恩師だ。失踪人解明はもとより、光希にもきっと良い助言を与えてくれるだろう。
「お役に立てたのなら良かった。私からもお話しすべきことがあるのですが、このまま続けてよろしいでしょうか?」
「なんでしょうか?」
「こちらの絵をご覧ください」
 サリヴァンは、書物机にたてかけていた絵画を手にとると、別珍べっちんの覆いをはずした。
「“闇”という表題の、百年前に描かれたバルネの絵画です」
 暗い色彩の、断頭台で頸が切り落とされている人間を描いた、不吉な絵だ。筆遣いは細部に至るまで丁寧で、転げ落ちた苦悶に歪む顔から、恐怖の絶叫が聴こえてきそうなほどだ。
「光の表現が巧みな宗教画家が、晩年に描いた作品です。題材が不適切とみなされて、公表はされませんでしたが、修道院に丁重に保管されていました」
 確かに保存状態はとても良い。色彩は鮮明で、仄かに亜麻仁油の匂いがする。
「晩年の彼は、強迫観念に苦しんだといわれています。そのような精神作用が、この絵を描かせたのだろうといわれてきましたが、実際には描かれているよりはるかに多くのものを含蓄がんちくしていたのです」
 確信めいた口調で告げると、サリヴァンは絵を裏返しにして額縁を見えるようにした。なにやら文字が彫られている。

“光を生むために、犠牲はつきものだ。闇とは誰の足元にも忍び寄るもの。己が真闇まやみから顕れ、地獄へ引きずりこもうとす”

「旅路の途中、この謎めいた追悼文を紐解く鍵が見つかりました。彼が旧友にしたためた手紙が、別の修道院に保管されていたのです」
 エドへ――封には、それ以外は何も書かれていない。封蝋もされていない。バルネは手紙にこう書いている。

“昼も夜も、死神が私の後をつけてくる。大鎌で私の頸を狙っている。かくも陰惨な悪夢。君はどう思う?
 私は、このような恐怖に苦しむのなら、いっそひと思いに頸を落としてほしいと思う。痛みは一瞬だろうから。そしてこの惨めな魂を天に召しあげてほしい。あるいは大気に溶け消えてしまうのだろうか……”

 なんとも支離滅裂だが、ただの精神病者の妄言とは、この場にいる誰も思わなかった。
「今アッサラームで起きている事に、似ていると思いませんか?」
 緊張を孕んだ沈黙が流れた。
「私には偶然と思えず、百年前の時祷じどう書に記された活動を注意深く追いかけてみると、散見する異例の供儀くぎが明らかになりました」
 サリヴァンは古い時祷じどう書の、付箋の挟まれた項を開いてみせた。
「発端は、百年前に存在した断頭台です。記録にあるだけでも千人の処刑に使われていますが、さらに断頭台に関わった人々が相次いで失踪・・・・・・した為、当時の神殿祈祷師シャトーマニが大規模な霊顕審問を行いました」
「待ってください。百年前に、今と同じようなことが起きていたのですか?」
 驚きにみはられたハイラートの瞳を、サリヴァンはまっすぐに見つめた。
「左様、人々の無念と増悪が悪霊を呼び寄せ、断頭台にとり憑かせたと神殿祈祷師シャトーマニは解明しました。その後彼も失踪し、人身供儀くぎが始まりました」
 サリヴァンは、重たい書を開いてみせた。残酷な供儀の様子を描いた図解が、幾つもの項に渡って記されている。
「同じ年にアッサラームで二度の鎮魂儀式があり、アルサーガ神殿にも、この時に造られた青銅の鏡が奉納されています。神殿と民間をあわせると、五度の供儀くぎが行われています」
 瞬く間に卓上は開いた書で埋め尽くされた。
 年間の時季や伝統的な行事、聖任日課等の記された時祷じどう書の数々に、ヤシュムは頭痛をこらえるようにこめかみを指で押している。
 膨大な情報だが、これらはサリヴァンという学者にされた、最小限の情報に過ぎなかった。
 時祷じどう書の管理は、星詠省に属する“時の使徒”と呼ばれる部署の役目であり、サリヴァンはその部署の長を務めているのだ。彼はまた、数多ある時祷じどう書に、原典のまま通暁つうぎょうしている専門家でもあった。
 要点を押さえた懇切な説明のあと、サリヴァンは一同の顔を順に見つめ、核心に触れた。
「この百年前の断頭台が、今どこにあるのか探してみるべきかもしれません」
「調べてみます。この話を、他に知っている者はいますか?」
 ジュリアスは慎重に訊ねた。
「いいえ、私のほかにはまだ誰も」
「では今後も他言無用でお願いします」
「そういたしましょう。今お伝えしたことは、ここにいる我々の胸にしまっておきましょう。祓魔省が知れば、人身供儀くぎを提言しないともいいきれません」
 生来学者気質の強いサリヴァンだが、世故せこに長け、神殿事情なら知り尽くしている。
 人々を残酷に殺してはならない――法が定めてから、人身供儀くぎは禁じられているが、神を信仰する聖域は、残酷な刑場と広大な墓所を抱えている。
 陰惨な悪夢を止めるためとあらば、集団心理は残酷な祈りのもとに、二律背反を後押しするだろう。特に聖衣を纏った神官は、信仰を前提とする誤謬ごびゅうに陥りがちだ。
「サリヴァン、ありがとうございました。これから療養所の患者に面会してきます」
 ジュリアスが礼を口にすると、サリヴァンはおもんばかる眼差しで頷いた。
「どうかお気をつけて。鏡はもう少し預からせてください。何か判れば知らせます」
「ええ、お願いします」
 大審問室をでたあと、誰もがある種の閃きと、奇妙な疲労感とを覚えていた。幾つかの符号は線になったが、新たな謎が生まれもした。
「……解決の糸口を探しにやってきたのに、謎が深まったように感じられます」
 廊下を歩きながら、サンジャルが愚痴のようにこぼした。
 いささか礼儀を欠いた発言だったが、誰も咎めようとはしなかった。