アッサラーム夜想曲

聖域の贄 - 0 -

















 大盛況の競竜杯から早十四日――期号アム・ダムール四五六年三月二十八日。
 大雨季特有の重たい曇天がアッサラームに覆いかぶさり、朝から間断なく雨を降らせている。
 聖都憲兵隊第十三支部長のハイラートは届いたばかりの調査報告書を眺めて、暗鬱あんうつなため息をついた。
 束ねられた紙面には、鋳物いもの屋一家の検魂鑑識を担当した神殿祈祷師シャトーマニの失踪について記されている。部屋で血生臭い宗教儀式を行っていたらしく、羚羊れいようの血肉が銀盆に載せられていたらしい。
 十日前にも、民間の祈祷師マニ占魂術師カララマニがそれぞれ行方を眩ませている。ふたりとも事件と失踪の両線で調査中だが、未だ有力な手がかりは掴めていない。
 そもそも、アッサラームにおいて失踪人は珍しくない。
 西方世界に生まれし者の定めだが、命の火が燃え尽きると、肉体を此の世に遺さずに、魂は神々の世界アルディーヴァランに還る。
 つまり、怪我や病で死亡した場合も、目撃者や申告者がいない限り、その者の死は周知されないのだ。心疚しい者が隠蔽いんぺいを望むなら、極めて表沙汰になりにくい。
 そのため、殺人はもちろんのこと失踪人の調査に、専門家である祈祷師マニ占魂術師カララマニに、魂の在り処を霊的に調査する検魂鑑識を依頼することが通例で、彼等の存在はアッサラームを含め西諸国では重宝されている。彼等のおかげで、行方不明者の解明率は一定の水準を保たれているといっても過言ではない。
 真相を探られては困る者が、稀に祈祷師マニを害そうとするが、その者には死より傷ましい拷問が課せられる。
 第一、神の従僕ともいわれる祈祷師マニを敵に回すのは、屈強な無頼漢であっても恐れるものだ。神々の世界アルディーヴァランに敬意を払わないアッサラーム人はいない。
 だから祈祷師マニの失踪は滅多に起こらない。ところが、今月に入って立て続けに起きている。
 殺人だとしたら狂気の沙汰だ。その者は、死後の世界も来世も怖くはないらしい。
 煩わしさをほぐすように、ハイラートは、長く曲がった鼻の上に寄った眉間の皺を指で揉んだ。
 ハイラートは今年で四十八歳になるが、顔の半分は髭に隠れているので、外見からは実年齢を読みにくい。額は分厚く頑丈で、奥まったところにある目はアッサラーム人によく見られる灰青色をしている。顔は美男でも醜男でもないが、体格には恵まれていた。盛りあがった肩や大腿などは花崗岩の塊みたいで、肉弾戦では先ず攻撃が通らない頑健さだ。
 下級貴族の妾腹の生まれで、若い頃は宮殿官吏を勤めたこともあるが、出自を馬鹿にされて容赦のない辱めを受けた為、早々に見切りをつけた。
 実力重視の軍隊に入ってからは、無為な阿諛追従あゆついしょうの霧が晴れて、進むべき道が拓けた。
 陸軍で経験を積み、長期の従軍を五度経験して生還した後、聖都憲兵隊の第十三支部長に任命されて今に至る。
 調書を眺めていると、部下のサンジャルがやってきた。
「ハイラート隊長、来客です。ピルヨムの母親、サミーラなのですが……お通ししてもよろしいでしょうか?」
 今年二十七歳になる青年は、生真面目な顔と声でいった。彼は宝石持ちである最高位神官シャトーウェルケ、サリヴァン・アリム・シャイターンの五番目の息子で、十五歳で第十三支部に配属されて以来、ハイラートの部下である。
 鍛えあげられた体躯。灰銀の短髪。精悍な顔立ちのなか、太い一文字の眉と青より濃い藍色の瞳は、強い意思と誠実さを物語っている。
「サミーラ? 久しいな、応接室に通してくれ」
 随分と懐かしい名前だな。そう思いつつ、ハイラートは二つ返事で了承した。
 サミーラの息子、ピルヨムはサンジャルと同じ第十三支部の同期で、年も同じである。性格はまるで違うふたりだが仲はよく、ハイラートはそれぞれの家に呼ばれて、何度か夕餉ゆうげを馳走になったこともあった。
 東西大戦で第十三支部隊は後衛部隊として従軍した。同じ釜の飯を食い、戦火をくぐり抜けた部隊の絆は強い。大戦で重度の火傷を負ったピルヨムは、王立ルイゼム療養所で今も治療を受けている。
 部屋に入ると、見覚えのある四十路の女性が縮こまって座っていた。ハイラートを見るなり、ぱっと立ちあがり胸の前で手をあわせた。
「お久しぶりです、ハイラート様」
「サミーラ、お久しぶりです。お変わりありませんか?」
 思わずハイラートは懐かしそうな表情を浮かべた。
「はい、おかげさまで……お忙しいのに、押しかけてしまい申し訳ありません」
「いえ、お気になさらず。さ、どうぞおかけください」
 にこやかに席をすすめながら、ハイラートはサミーラを観察した。
 目は昏く陰惨な隈に囲まれており、袖からのぞく褐色の手首は枝を思わせる細さだ。
(溌溂としていた女性がこれほど憔悴してしまうとは……)
 表情にこそださないが、ハイラートは彼女に深い同情の念を覚えた。
 ハイラートは殆ど片親に育てられた。苦しい生活ながら愛情深く育ててくれた母親は、一昨年病で亡くなってしまった。
 己の経験から、ハイラートは苦労している女性を見ると、助けたくなる性分だった。ピルヨムの境遇もハイラートに少し似ている。彼も家族の大黒柱として母親を助けてきた。配給の殆どを家族に渡していたことも知っている。そんな男だから、療養所に入る際は、追加で補償を受けられるように推薦状を書いて渡したりもした。
「それで、今日はどうしました?」
 優しく促すと、サミーラは思いつめた顔で、実は……と切りだした。
「三日前に療養所から連絡がありまして……息子が消えた・・・みたいなのです」
「ピルヨムが?」
「ええ、あの子の身に、何かが起きたようなのです」
 ハイラートとサンジャルは静かに視線を交わした。
「私のところには連絡がきておりませんが……黙って消えるような男ではありません。誰かに言伝を残しているのではありませんか?」
「私もそう思って、療養所まで脚を運びましたの。ところが看護師様も知らないそうで、困惑したご様子でいらっしゃいました」
「それは……妙ですね」
 ピルヨムは明るい性質たちの男だ。長い療養生活に飽きて、街にでも繰りだしたんじゃないか?
 と、ハイラートは気難しげな顔でもっともらしく頷きながら、内心では呑気なことを思った。
「ええ……院内の誰にも行方を告げず、荷物もそっくり残したまま消えてしまったみたいなんです。二日前の晩に、玄関の扉を叩いてあの子が立っていた時、寂しそうに笑ったんですの。ごめんね、母さんって……すぐに消えちゃったんですけれど」
「そんなに儚げな男じゃありませんよ。ここのところ朝晩に霧もでていたし、見間違えたのではありませんか?」
 ハイラートは宥めようとしたが、母親は耐えられないというように頸を横に振った。
「いいえ、本当なんです! あの子、何日も前から様子がおかしかったんです。始終何かに怯えていて、夜も眠れないみたいで……昨日あの子の病室へいって、冷たくなっている寝台を見たら、あれはやっぱり、あの子が、最後にひと目会いにきてくれたんじゃないかって思えて……っ」
 気丈な女性だが、よほど堪えたのだろう。こみあげてくる嗚咽で我慢がしきれぬように、う……と溢れでる涙を流した。
「お気を確かに。判りました、調べてみましょう。ピルヨムは貴女に黙って消えるような男じゃありません。おっしゃる通り、彼の身に何か起きたのかもしれません」
 ええ、ええ、と頷くサミーラの肩に、ハイラートは優しく手を乗せた。
「さあ、もう泣かないで。サンジャルに送らせますから、今日はもう帰ってゆっくり休みなさい。何か判ればすぐに連絡しますよ」
 軽く揺するにあわせ、やせ細った躰が柳のように揺れる。されるままになって震えていた女性は、涙をふいて顔をあげた。
「感謝いたします。本当に、ありがとうございます」
 濡れた瞳に一縷いちるの希望を光らせ、サミーラは弱々しい笑みを浮かべた。
 ハイラートがサンジャルに目配せすると、生真面目な青年は如才なく頷き、サミーラを丁重に扉まで案内した。
 ふたりをしきいのところまでハイラートが見送ると、サミーラは最期にもう一度振り向いて、律儀に頭をさげてから帰っていった。
 長官室に戻ったハイラートは、肘掛け椅子の背にもたれ、天を仰いだ。
 ……一晩くらいなら、街に繰りだして一杯引っ掛けている線もあったが、三日続けてというのはおかしい。母親をあれほど心配させて、遊び呆けるような男ではない。
 的外れであってほしいが――神殿祈祷師シャトーマニの失踪と関係がある気がする。
 それでなくとも、今月に入ってから、アッサラームでは失踪事件が相次いでいる。
 ハイラートが管轄している十三区内だけでも、すでに五人失踪している。日常茶飯といえばそうだが、どうにも厭な胸騒ぎがする。
(やれやれ、査問省に連絡はいっているのか? ……信心深い者が怖気づかないと良いが……)
 ハイラートは深く息を吐きながら、眉間を揉みこんだ。
 他所の支部では、気味悪がって脱走した者もいると聞いている。慚愧ざんきして然るべき第一級の規律違反だと思うが、気持ちが判らないでもなかった。
 ハイラートは軍人として荒事にも精通しているが、多くのアッサラーム人と同じで信心深い。長い経験と敬虔けいけんから、目には見えぬ不吉な何かが、ゆっくりとアッサラームに暗鬱の翼を広げようとしているように感じられるのだった。
 彼の直感は正しい。
 間もなくアッサラームに、戦慄的な興味を渦巻かせることになる。