アッサラーム夜想曲

幾千夜に捧ぐ恋歌 - 10 -

 てしない夜が明ける。
 薄く開いた窓から、風がジャスミンの香りを運んでくる。清涼な空気に包まれながら、光希は優しく揺り起こされた。
「……き……光希?」
 満ちる青。
 神々しいほど美しい人……黎明の星明かりに照らされたジュリスが、心配そうに光希を見つめている。
「ジュリ……」
 精緻に整った美貌が近づいてきて、まなじりに口づけられた。唇が触れて初めて、光希は自分が泣いていることに気がついた。
「辛いですか?」
「平気……」
 不思議と躰の不調は治っていた。恐らく熱も引いているだろう。
「夢を見ていたんだ」
 思考を彷徨わせながら、光希はぼんやりと答えた。
「どんな夢?」
「……?」
 さっきから思いだそうとしているのに……の面影は、さざなみのように遠のいていく。ただ、光希を呼びとめる、哀切の声だけが耳に残っていた。
「哀しい夢ですか?」
「ううん……」
 優しく涙を吸われて、光希は瞳を閉じた。眼裏まなうらに、幻燈のような輪郭が浮かびあがる。あれは……
「最初は嬉しかったんだ。でも、置いてきてしまったから」
「誰を?」
 ほんの少しだけ、声に嫉妬を滲ませてジュリアスは訊ねた。
 光希には答えられなかった。答えたくても、顔も名前も思いだせなかったのだ。
 答えられないことが胸に堪えて、無音の歔欷きょきに浸されながら両手で顔を覆うと、ジュリアスは胸のなかに抱きしめてくれた。しなやかで温かい強靭な躰で哀しみ癒してくれる。
「泣かないでください」
「……ごめん」
「シィ、謝らないで……」
 夢を見て泣いてしまうなんて、我ながら子供みたいだと思うが、ジュリアスは笑ったりしなかった。瞼や額に口づけをして、髪を撫でてくる。優しいジュリアス……
 心が落ち着いていくのを感じながら、夢の欠片をほんの少しだけ思いだした。
「そうだ。子供時代のジュリに会ったんだ」
「私?」
「そう、ジュリ。天使みたいにかわいらしかったなぁ……」
 ほほえみながら光希がいうと、ジュリアスも小さく笑った。
「子供の私は、さぞ喜んでいたでしょう」
 光希は笑顔のまま頷いたが、すぐに寂しそうな顔つきになった。
「……だけど、泣かせちゃった」
「私を?」
「引き留められたんだ。でも……」
 夢に引きずられて、少し感傷的になっているようだ。沈んだ顔の光希を見て、ジュリアスは優しいキスの雨を降らせた。
「私ならここにいます」
「うん……僕を見つけてくれて、ありがとう」
 甘えるように躰を寄せると、ジュリアスは光希の首の下に腕を潜らせ、隙間なく抱き寄せた。
 顔を上向けると、鼻の頭にキスをされる。青い瞳が、柔らかく細められた。
「幾千夜を越えても、必ず見つけてみせます」
 その一言に、雷に打たれたような衝撃が光希の全身にはしった。
「――……ッ」
 瞬く間に、眼淵まぶちに涙が盛りあがる。唇を戦慄わななかせる光希を見て、ジュリアスは表情を変えた。
「……光希?」
「ぅ、ふ……っ」
 堪え切れない嗚咽が唇から漏れた。精緻な美貌が涙で霞んでいく。胸が痛い。どうしてこんなにも苦しいのだろう?
「光希、泣かないでください」
「うん……」
「夢のなかで、寂し思いをしないように、抱いていてあげる。今度は同じ夢を見ましょう」
 ジュリアスが傍にいる歓び、愛情が奔流となってこみあげてくるのを感じて、光希はジュリアスにしがみついた。
「いいね、同じ夢を見ようよ……」
 小さく笑うと、光希は静かに目を閉じた。
 優しい眠りに誘われて、意識は曖昧模糊あいまいもこになっていく。
 眠りに落ちる瞬間、記憶の彼方へと遠ざかっていく、幼いジュリアスを想った。
 ありがとう――ちゃんと見つけてくれて。ねがった通りまた逢えた。
 これからはずっと一緒だよ……