アッサラーム夜想曲

響き渡る、鉄の調和 - 4 -

 期号アム・ダムール四五五年一二月一〇日。
 夜も明けきらぬ黎明。
 天空にはまだ星が瞬いているが、雲一つない晴天である。
 隊伍たいごをなす三十八名の飛竜隊の前に立ち、ジュリアスは厳しい眼差しを一同に向けた。彼は全員の顔を見渡してから、最後にアルスランとサイードを傍へ呼んだ。
「心して花嫁ロザインを守るように。傷一つつけてはなりません」
「御意」
 二人が敬礼で応える様子を、光希はジュリアスの隣で緊張気味に見ていた。いよいよ鉱山に向けて出発するのだ。期待と緊張を噛み締めていると、青い瞳がこちらを向いた。
「光希も、くれぐれも無茶はしないように」
「はい」
「アッサラームに比べて鉱山町は治安が悪い。一兵士に扮しているとはいえ、一人で出歩いてはいけませんよ。常にアージュと行動を共にしてください」
「判っています」
「貴方に何かあれば、全隊の連帯責任とします。心してください」
「はい」
 真剣な表情で光希が頷くと、ジュリアスは気遣わしげに抱き寄せた。強い腕の力から、案じる気持ちが伝わってくる。胸がいっぱいになり、光希も強く抱きしめ返した。
「ジュリも気をつけてね。僕より、ずっと危険なんだから」
 光希が発った後、ジュリアスは少数を率いてザインへ赴く。工匠の会合に潜入し、裏取引を押さえるために。本来は他者に任せる予定でいた任務を、彼が自ら指揮するのは、光希達の研究の弊害を取り除くためなのだ。
「はい。必ず……」
 互いに別れを惜しみながら躰を離すと、想いのこもった視線を交わした。
 迷いを断ち切るように、光希は背を向けた。ローゼンアージュの手を借りて、彼と共に飛竜の背に乗る。
 高くなった目線から、最後にもう一度、地上に立つジュリアスを見下ろした。こうして彼に見送られるのは、初めてのことかもしれない。
(どうか、無事で)
 声なき祈りを心に唱える。一抹の寂しさを覚えながら、光希はジュリアスに笑みかけた。
「飛翔!」
 アルスランの号令が蒼天に響き渡った。
 隻腕でも、彼の飛行に問題は無い。堂に入った操縦で、見事に飛翔してみせる。
 順調に上昇気流に乗ると、飛竜隊は一糸乱れぬ雁行陣がんこうじんを展開した。
 このまま真っ直ぐに南下を続けて、予定通りに運べば、十日後には西に舵を取る。ややもすれば、目的地たる鉱山町に到着するだろう。
 ココロ・アセロ鉱山は、西における最古最大の大国、アッサラームから遥か南西に位置する。
 近年、町から持ち運びされる鉱石を狙った盗賊が横行しており、ココロ・アセロ鉱山への道のりは治安が悪かった。
 そのため、空路が最も安全とされている。光希達も、全軍飛竜に乗っての高速大移動である。

 十日後。
 予定通り、砂丘の彼方に霊峰が姿を現した。
 四方を砂に囲まれた巨大な山脈の頂上は雪化粧で覆われ、勾配こうばいの緩やかな野裾になるにつれて赤磐あかいわに転じている。天辺には雲がかかり、その全貌を拝むことはできない。
 だが離れていても、麓に鉱山町が切り開かれている様子は見てとれた。
 周辺およそ一〇〇キロメートル圏内に、町らしい町が見当たらなかったこともあり、鉱山と一体化した巨大都市に見える。
 現役稼働する鉱山を生まれて初めて目の当たりにした光希は、つい飛竜の背から身を乗りだして地上を眺めた。
「殿下」
 手綱を操るローゼンアージュに肩を引き寄せられるたび、ごめん、と視線で詫びて姿勢を正すのだが、しばらくするとまた身を乗りだしてしまう。そんなことが何度か繰り返された。
 間もなく着陸すると、忘れかけていた地上の熱気に包まれた。強烈な陽射しが、真上から照りつけてくる。
 隊伍たいごを整える間、光希は天幕の影で休んでいた。アッサラームと同じで、日向にいると汗が噴き出すが、日陰に入ってしまえば涼しい風が吹く。乾いた空気が気持ち良い。
 ふと隣を見ると、ローゼンアージュは真剣な顔で指南書に目を通していた。何やら付箋が増えている……
「気楽にしていいからね」
 光希が声をかけると、寡黙な青年は何か閃いたのか、さっと立ちあがり、荷箱から真鍮の壺や茶器を取りだした。見守っていると、なかなか手慣れた手つきで給仕を始めた。ナフィーサにばっちり仕こまれたようだ。
「ありがとう。ちょうど喉が渇いていたんだ」
 檸檬を浮かべた杯を受け取り、光希はほほえんだ。
「……いえ。気づくのが遅くてすみません」
「そんなことないよ。アージュがいてくれて心強いよ」
 気を張っていたらしい青年は、その言葉にほんの少しだけ表情を緩めた。
 一息つくと、光希は彼の手を借りて身支度を整えた。肌に褐色粉を塗り、隊帽と覆面で顔を隠す。正面からは目しか見えない、いささか怪しげな恰好ではあるが、鉱山町の空気は悪く、覆面を常用している者は少なくなかった。
 全隊の準備が整うと、いよいよ光希達は現場へ向かった。
 鉱山視察は、クロガネ隊の任務と公表し、最高責任者はアルスラン、基地の現場監督はサイードが務める。光希は身分を隠して、クロガネ隊の一兵卒として現場に入る。
 開拓時代の名残を留める鉱山町は、迷路のような煉瓦の路地が入り組んでおり、雑多ながらも洗練されたアッサラーム市街とは、一味違う猥雑わいざつさがあった。
 喧噪飛び交う店の軒先のきさきには、山と積まれた古着や頑丈な革靴、大小様々なつるはしがところ狭しと並べられている。日用品の他にも、都会でも手に入りにくい高級品なども並び、なかなかの盛況ぶりである。
 東西大戦を決勝に導いたアッサラーム軍は、ここでも大半の者に歓迎されたが、なかには余所者を見る目を向ける者もいた。
 路端には身体を壊して働けなくなった浮浪者がうずくまり、身寄りのない子供達が、獲物を見るような目つきで一行を検分している。
 ……話に聞いていた通り、治安は良くないようだ。
 鉱山は大小合わせて百を越える坑道が敷設されており、特に主要な坑口は第一から第七とされている。
 全ての坑口に通じる麓の拠点には、選鉱場、精錬所、水汲み場、給食所といった採鉱関連の建物の他に、病院、隊商宿キャラバン・サライ沐浴場ハマムまで備えた複合施設がある。
 今回の視察の為に、ジュリアスの命で、施設内には軍の研究工房と宿舎が建てられていた。
 やってきた光希達を見て、遠巻きにしている炭鉱夫達は、脱帽して頭をさげた。
 閉口予定の第一坑に従事する労働者達である。彼等は、軍の視察の為に廃坑は一時保留、ひとまず稼働が続くことを喜んでいた。
「一通り道具は揃えてあります。他に足りないものがあれば、町で調達しましょう。治安は悪いが、物は揃ってますよ」
 サイードに案内された石造りの工房を眺めて、光希は満足そうに頷いた。質素だが堅牢だ。これなら、十分研究に集中できる。
「ありがとうございます。早速、準備しますね」
 光希は覆面をさげて感謝を口にした。
 サイードとアルスランが鉱山組合と会談している間、光希はアルシャッドと共に工房で荷解きにとりかかった。
 棕櫚しゅろの作業机には、鉱山で採れた鉱石が名札と共に並べられている。一つを手に取り、光希は目を閉じた。身の内に、不思議な静けさが満ちていくのを感じる。
「……うん。できそう」
 瞳を開くと共に、小さく呟いた。
 ここでなら、義手の新たなる可能性を見出せそうな予感がする。
 隣に立つアルシャッドを見ると、彼も丸眼鏡の奥から、自信に満ちた瞳で見返してきた。
「頑張りましょうね」
「はい!」
 この世界には、理屈では説明のつかない超常が起こる。
 くろがねは大地に根づく神力を宿し、巨岩を砕き、荒々しい剣戟けんげきに耐え抜く。剣を持つ主の意志に沿うように、柔軟にしなり、脅威に打ち克つのだ。ならば義手とて同じこと。
 町に明かりが灯る頃、仕事を終えた鉱夫達が戻ってくる。
 鉱山から立ち昇る煙は麓にまで降りてくるため、埃にまみれた町は夕暮でも空気が悪く、汗ばんだ肌に炭塵が張りついて誰も彼もが黒ずんで見えた。
「部屋で湯を浴びれますよ」
 そういって、サイードは趣ある真鍮の鍵を光希に手渡した。
 佐官以上は一人部屋で、中に浴室がついているのだが、サイードは広い大衆浴場の方が好きらしい。
 人前で肌を晒せぬ光希は、当然個室へ戻った。
 艶めいたかしの扉を開くと、瀟洒しょうしゃな内装に目を瞠った。簡素な部屋を想像していたが、急設したとは思えぬ行き届いた部屋だ。
 白塗りの壁と柱。床には絹織の高級絨緞が敷かれ、円蓋のついた寝台の傍には、夜空を描いた色硝子の照明が置かれている。壁には、万華鏡のような意匠の青磁のタイルが張られ、豊かな色彩の絵画が飾られていた。
「いつの間に……」
 しみじみと呟きながら、石膏せっこう彫刻の文机の傍へ寄ると、薔薇の花束に、ジュリアスの直筆が添えられていた。

“いつでも貴方の傍に”

 どこにいても、ジュリアスは光希を気にかけてくれる。綴られた文字に胸を暖かくさせながら、光希は瞳を閉じた。