アッサラーム夜想曲

織りなす記憶の紡ぎ歌 - 15 -

 空がうっすら白み始めた黎明に、光希は目を醒ました。隣に眠るジュリアスを見て、目を瞠る。
「ジュリ……」
 記憶にあるがままの、天鵞絨びろうどのようになめらかな褐色の肌。一欠片も無駄な脂肪のない完璧な肉体。美しく端正な顔は……ほんの少しやつれたように見える。
「ごめん、心配かけた……」
 何もかもを覚えているが、とても長い夢を見ていたような、不思議な心地がする。愛おしい人の金髪を優しく梳いてやると、くすぐったそうにジュリアスは目を開けた。ほほえんでいる光希を見て、青い双眸を喜びに煌めかせる。
「お早う、光希」
「お早う、ジュリ……」
 少しかすれた光希の声を聞いて、ジュリアスはふっと柔らかく笑った。その愛情に満ちた笑みを見た瞬間、光希は胸がいっぱいになった。彼に対する途方もない想いがふくれあがり、たちまち視界が潤んで、ぽろっと涙が零れ落ちた。
「……光希? どうしたの?」
 驚いた表情を浮かべるジュリアスの頬に、光希はそっと口づけた。
「光希?」
 身体を起こしたジュリアスは、心配そうに顔を覗きこんでくる。光希は泣き顔をあげると、今度は唇にキスをした。
「嬉しくて……」
 くっきりと明るい青い瞳を見つめたまま、手を伸ばした。すぐに背中に腕が回される。どこか遠慮がちな触れ方に、光希の方からしがみついた。
「愛しているよ、ジュリ。ずっと傍にいてくれて、ありがとうッ」
 なめらかな公用語でいうと、一瞬、ジュリアスは動きを止めた。次の瞬間、光希が痛いと感じるくらいの力で、光希の両肩を掴んで身体を離した。夢を見ているような表情、震える指先で、光希の頬に触れる。
「あぁ……神よ」
 深い安堵の滲んだ呟きに、光希の目に新たな涙が盛りあがった。
「忘れちゃって、ごめんね」
 ジュリアスは潤んだ瞳を伏せ、かぶりを振った。
「貴方がいてくれるだけで、幸せです」
 ぎゅうっと力をこめられ、光希は頬を濡らしながら、いっそう彼にしがみついた。

 記憶は戻ったが、ジュリアスの過保護は治らなかった。むしろ悪化したように思う。記憶を失くしたことが、相当に堪えたらしい。
 屋敷の外へでることを許さず、アースレイヤからの公務の申し入れもことごとく断っていた。
 心配をかけた身として、大人しく屋敷に引きこもる光希であったが、軟禁生活が十日も続くと、このままではいけないと思うようになった。
 夜半に戻ってきたジュリアスを、光希は部屋に明かりを灯したまま迎え入れた。
「お帰りなさい」
「ただいま。まだ起きていたの?」
「うん。少し、話をしようと思って」
 光希の顔色を窺うように、ジュリアスは黙りこんだ。今の状態が、不自然であることは彼も判っているのだ。
「明日から、クロガネ隊に復帰しようと思うんだ」
「もう?」
「遅いくらいだよ。病気でもないのに、十日も休ませてもらった。十分だよ。僕はすっかり元気なんだから」
「たったの十日ですよ」
「……あのね、ジュリ。記憶を失くしていても、僕はジュリに惹かれていたよ」
 眉をひそめるジュリアスを仰いで、光希は垂れた両腕をぎゅっと握った。
「本当だよ。ジュリは優しくて恰好良くて、凄く甘くて……好きにならない方が難しいよ」
「そういう割には、私に怯えていたではありませんか」
「そりゃ、言葉も判らないし、記憶のない僕は、同姓を好きになった経験だってないんだから。でも、ちゃんと好きになったよ」
 沈黙が流れる。探るような眼差しを向けるジュリアスを仰いで、光希は辛抱強く待った。
「……私の目の届かないところで、貴方が倒れやしないか不安なのです」
「そう簡単に倒れないし、記憶喪失にもならないよ。あんなことは、一度あれば十分だ」
「次がないとは、いい切れないでしょう。不安なのです」
 真摯に訴える眼差しを受け留めて、光希は腕を伸ばすとジュリアスの頬を両手で包みこんだ。
「ジュリは僕よりずっと忙しいし、仕事も大変だし、倒れるかもしれないよね?」
「私は――」
「大丈夫、なんて根拠はないでしょ? お互い様でしょ?」
 頬を包む腕を、ジュリアスは一瞬で掴んだ。強い眼差しで光希を見下ろす。
「私と貴方が、同じなわけがないでしょう」
「不安な気持ちは、同じだよ。でも、もしジュリが記憶を失くしたら、今度は僕が想いを伝えるね」
「え?」
「ジュリにもう一度好きになってもらえるように、今度は僕が頑張るよ」
「……」
 拘束されていた腕が緩んだ。淡い笑みを浮かべるジュリアスの頬を、光希はもう一度両手で包みこんだ。
「だから、心配いらないよね?」
 半ば強引に結論づける光希を見て、ジュリアスは表情を和らげた。仕方ないなぁ、というように光希を抱きしめる。
「判りましたよ。絶対に、無理はしないでくださいね」
「はい!」
 翌日、光希は屋敷の外へ出ることを許された。
 久しぶりに工房に顔を見せると、クロガネ隊の仲間は安堵した顔で光希を取り囲んだ。記憶を失くしていたとは知らない彼等は、光希は療養の為に休んでいたと思っているのだ。
 健康そのもの、元気な光希であったが、工房で少しでも物を運ぼうものなら、傍にいる誰かにすかさず取りあげられてしまう。
 何もかも正常に戻るには、更に数日を要するのであった。